慈光院(佐々成政正室)は謎多き女性!「はる」としてドラマにも登場?

佐々成政の正室は、慈光院という名前だと言われていますが、その生涯は謎に包まれています。分かっているのは「村井貞勝の娘」で、「佐々成政の正室」ということだけです。今回は慈光院の人生を分かる範囲で解説し、周辺の人物や佐々家の子孫についても紹介したいと思います。

慈光院の基本情報

慈光院の人生

できごと

村井貞勝(父親)について

慈光院は織田家家臣:村井貞勝の娘で、後に佐々成政の正室になりました。慈光院ですが、記録がほとんどないため、その生涯については謎に包まれています。生まれた時期や、結婚の時期もはっきりとは分かっていません。

慈光院の父親とされる村井貞勝ですが、近江出身で織田家に仕えたのは、1520年ころ(もしくはそれ以前)と言われており、行政手腕に優れた武将だったこともあり、織田信長にも重用されました。村井貞勝ですが、1556年に織田信勝(信行)が織田信長に反旗を翻した時には、織田信長方として仕えており、織田信長方と織田信勝方の和平交渉を行っています。

織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際には、京都に残り政務にあたっています。1573年に織田信長が足利義昭を追放すると、京都所司代に任命され、京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待などの京都に関する行政の全てを任されています。1581年に出家し、家督を息子の村井貞成に譲っています。

1582年、本能寺の変が起こると村井貞勝は、織田信忠と共に二条御所にこもり明智軍と戦いますが、織田信忠と共に討死しています。

佐々成政(夫)について

慈光院の夫:佐々成政ですが、織田信長の側近として仕え始め、徐々に頭角を現し、1581年には越中半国を与えられ、富山城を築いています。佐々成政も子だくさんだったようで、その子供たちの母親が全て慈光院だったかは分かりません(側室がいたため)。1585年に、佐々成政が豊臣秀吉に攻められ降伏した際は、人質として大坂に移住しています。

夫婦墓がある

佐々成政が肥後一国を与えられ、検地を行おうとした際に国人一揆が起こってしまいます。この攻めを負い、佐々成政は切腹しています。佐々成政の死後に慈光院がどうなったのかは分かっていませんが、京都の慈眼寺に佐々成政と慈光院の夫婦墓があります。

慈光院の人柄・人物像

慈光院の名言やエピソードについて、紹介したいと思います。

前田家とは対立していた

佐々成政と前田利家ですが、元は同じ織田信長の側近として仕えて出世し、後に織田家が越前を制圧すると、柴田勝家が北陸方面の軍団長に任命された時には、2人はその与力として柴田勝家の傘下に組み込まれています。本能寺の変後に、柴田勝家と豊臣秀吉による賤ヶ岳の戦いが起こると、前田利家は戦わずに柴田軍から離脱し、豊臣秀吉についています。

一方の佐々成政は越中から動けず、その後も豊臣秀吉と対立しています。佐々成政は最終的に切腹しますが、前田利家は豊臣政権の五大老を務め、豊臣秀頼のもり役にまでなっています。前田家は加賀藩として江戸時代まで残りますが、佐々家は大名家としては断絶しているので、大きな差が出来ています。

若いころ、前田利家が織田信長のお気に入りの側近を斬り、放逐されたことがありました。その時に佐々成政がこの側近を必要以上にかばったことから、以来2人の仲が悪くなったとも言われています。

夫婦仲は悪かった?

慈光院と佐々成政ですが、夫婦仲はどうだったのでしょうか?佐々成政ですが、早百合(さゆり)という側室を寵愛していたという話が多く出てきます。しかし、これ(黒百合伝説などの話)は佐々成政のイメージを悪くするために作られた創作という話もあります。

慈光院が村井貞勝の娘ということもあり、佐々成政からしたら大先輩の娘と結婚した感覚なのかもしれませんが、夫婦仲は悪くなかった(良かったのでは)という見方もあります。逆に夫婦仲が悪かったということを証明できる資料もありません。

慈光院の名言・エピソード

慈光院の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

佐々家の血筋は存続

佐々成政の息子たちについては、佐々成政の死後は歴史の表舞台から消えています。ただ娘たちは子孫を残しています。娘の1人の佐々輝子(岳星院)は、当時の関白:鷹司信房に嫁ぎ、7人の子供を設けています。そのうち、嫡男:鷹司信尚は関白に、次女:鷹司孝子は、徳川3代将軍の徳川家光の正室となっています。

また、孫の鷹司信子は徳川5代将軍の正室になっています。またもう一人の娘は狩野永徳の息子:狩野孝信に嫁ぎ、狩野探幽の母親となっています。その他、佐々成政の甥:佐々直勝は、加藤清正に召し抱えられ、その子孫は浅間山荘事件で指揮を執った初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏だとも言われています。

忠臣蔵でお馴染みの大石内蔵助の妻:りく、水戸黄門の「助さん」こと佐々介三郎宗淳も佐々成政の子孫だと言われています。

慈眼寺の建立は佐々輝子

京都にある慈眼寺ですが、建立したのは佐々成政の次女:佐々輝子(岳星院)でした。この寺は佐々輝子が両親の菩提を弔うために建てたもので、佐々成政と慈光院の供養塔もあります。供養塔には慈光院殿という文字もあることから、佐々輝子の母親が慈光院である可能性が高いです。

娘によって血縁が後世に残っているパターンだと、浅井三姉妹が有名です。あまり知られていませんが、佐々輝子によって佐々家の血筋も後世に残っています。

フィクションにおける慈光院

フィクションにおける慈光院について、紹介したいと思います。

信長の野望における慈光院

信長の野望には、慈光院は登場していません。ただ、ボーナス武将や景品武将として過去に登場していたり、これからのシリーズで登場するかもしれません。

ドラマにおける慈光院

慈光院が登場する大河ドラマとして「利家とまつ〜加賀百万石物語〜(2002年)」があります。この中で慈光院は「はる」という名前で登場しています。演じていたのは天海祐希さんで、まだこのころは今ほど知名度はなかったように思えます。

ドラマの中では、まつ(前田利家の正室)、おね(豊臣秀吉の正室)とは仲が良いように描かれていますが、この辺りはフィクションの可能性が高いです。村井貞勝の娘という肩書は本当のように思えますが、佐々成政は豊臣秀吉のことを「サル」と馬鹿にしていたとも言われていたので、その妻同士が仲が良かったというのも考えにくいです。

はるの父親は織田家の家老の村井貞勝に対し、おねの父親は浅野長勝(養女と言われている)という織田家の弓衆なので、父親を見ても村井貞勝の方が圧倒的に上です。今まで明らかになっていなかった佐々成政の正室:慈光院がこのドラマで初めて登場したように思えます。

慈光院は謎多き女性

慈光院について確実に分かっているのは、「佐々成政の正室」、「村井貞勝の娘」ということだけです。佐々家の子供たちすべての母親が慈光院だとは限らないですが、佐々家の子孫が現代まで残っているというのはかなり凄いことです。

これからは、慈光院についてもっと情報が出てくることを望んでいます。