山上宗二は豊臣秀吉から処刑をされた!実はスパイという噂も!

山上宗二は千利休に20年間茶の湯を学び、豊臣秀吉にも使えた茶匠です。曲がった事は許せないその性格から豊臣秀吉を2度も激昂させ、最期は豊臣秀吉に処刑されました。

この記事では山上宗二の生涯を年表付きでわかりやすく説明します。山上宗二がどのような人物であったかなど、様々な視点から解説していきます。

山上宗二の基本情報

山上宗二(やまうえ・そうじ)は戦国時代から安土桃山時代にかけて堺の豪商であり茶人です。

20年もの間茶道のカリスマ千利休に茶の湯を学び、豊臣秀吉、前田利家、北条玄庵に茶匠として仕えました。

山上宗二の人生

できごと

千利休への弟子入りから浪人まで

山上宗二は堺の豪商の家に1544年に生まれました。商人として活動していましたがある時期に茶匠に転身。茶のカリスマとして諸大名たちにも影響力を与えた千利休の弟子となり20年間茶の湯を学びました。20年間弟子だったこともあり茶の湯に対して知識を深め、千利休の一番弟子とも言われました。様々な利休の茶会に同行して茶会に出席している様子が茶会記から確認されています。

茶匠として千利休と共に織田信長にも仕えていた説もありますが、一番縁が深かったのは豊臣秀吉です。師匠千利休と共に豊臣秀吉に仕え茶会などを取り仕切っていましたが、1584年に、豊臣秀吉の理非曲直を正そうとし怒りを買い、追放。浪人となってしまいました。当時の豊臣秀吉といえば織田信長の死後、自ら大将となり、たくさんの戦をこなし、天下に最も近い武将でした。その豊臣秀吉に対して茶会とはいえ、意見したとあれば師匠である千利休も守れませんでした。裏を返せばそんな大物に意見ができる豪胆さを山上宗二は持っていたということです。

秘伝の書「山上宗二記」を完成!

一旦浪人となりますが、加賀藩の武将前田利家に仕えました。前田利家も織田信長、豊臣秀吉同様茶の湯に魅了され、加賀に茶道の文化を根付かせました武将でした。山上宗二もこの活動に一役買っていましたが、1586年に茶会で遭遇した豊臣秀吉をまたしても怒らせてしまいました。一度ならず二度までも天下人相手に再び媚を売らず怒らせる所に山上宗二の頑固さが伺えます。その後高野山へ逃れ再び浪人となります。

1588年頃に自筆の茶の湯・秘伝の書「山上宗二記」が完成。内容としては茶入、茶壺、掛軸といった茶道具を評価の高い順に列挙されている為、これによって当時の茶道具ヒエラルキーが判明しました。また茶道者の心構えを説く場面もあり現在も使われている四字熟語「一期一会」の原文も書かれています。「いい茶道具を持っていなくても決して名士などに気後れをしてはいけない」といったこれまで豊臣秀吉に臆することなく意見した山上宗二らしさも書かれています。現在でもこれが天正年間の確実な資料として研究者の間で重視されています。

この山上宗二記の写本を自ら諸方に授け自らの茶法を広めました。その後小田原に下り北条氏に仕え、関東に茶の湯文化を広げました。

豊臣秀吉と3度目の対立と処刑

小田原で北条玄庵に仕えていた山上宗二でしたが、1590年に豊臣秀吉が小田原討伐の為訪れます。千利休を介し豊臣秀吉と再び面会、そこで手打ちとなります。元々茶の湯が大好きな豊臣秀吉はこれを機に再び山上宗二を登用しようとしましたが、山上宗二はそれを固辞。仕えていた北条玄庵に義理立てした為でしたが、断られたことに豊臣秀吉が激怒。

天下人豊臣秀吉を3度も怒らせた山上宗二は今回ばかりは逃げられず、耳と鼻を削がれ打首となりました。享年46歳でした。

山上宗二の人物像

山上宗二の人柄や人物像について説明します。

山上宗二記

山上宗二記は現代も研究者に読まれている書物ですが、研究者達からは文章全体が雑でロジカルさが足りないと言われています。研究者の推理によればこの時点で豊臣秀吉を2度も怒らせて逃げ回っていた為、豊臣秀吉に殺される前に自分の生きた証を残したいと焦る思いから文章を整理できなかったのではないかとされています。

後半で茶人としての心構えが描かれていますが、この文章こそが山上宗二の性格をよく表しています。「権力におもねらず、下の者を大切にすることに信念を持つべき」や「全てにおいて重要なのは好みと気遣い」、「夜の茶会を早起きして始めるぐらい準備は早めに行うこと」などが描かれています。

豊臣秀吉との関係性

たくさんの戦国大名達が天下人豊臣秀吉と関わってきましたが、3度も怒らせたのは山上宗二のみではないでしょうか?というのも当時の豊臣秀吉は気性が荒く気に食わない人物はすぐに処刑させていました。その中で山上宗二は2度も逃がされていることから殺すには惜しい才能と思われていたのかもしれません。実際に小田原で豊臣秀吉と山上宗二が対面した際には許し再登用を許可しました。それを現在の当主に義理立てし断るということは自分の信念を守り死を選んだということでしょう。

山上宗二の処刑方法は打首ですが、そうなる前に耳と鼻を削がれていたと言います。当時としては珍しいことではありませんが、山上宗二は襲ってきた武将でもなければ一揆を起こしたわけでもありません。ただ気に食わなかっただけでそこまでされるというのは少しかわいそうな気もします。

師匠千利休との関係性

山上宗二は20年間千利休の弟子として仕え、高弟として千利休にはなくてはならない存在だったと言われています。山上宗二記内で「利休は谷を山に、西を東に変えるかのように茶の湯の決まり事を破り、茶道具を自由に変えてしまったが、彼が優れた人物であったからこそ面白い結果となった」と記述しておりいかに尊敬しているかを表しています。

しかし反対に豊臣秀吉に屈していたことから、晩年はあまりいい印象を持っていなかったと言われています。

山上宗二の名言・エピソード

山上宗二の名言やエピソードを解説します。

山上宗二スパイ説

実は山上宗二は豊臣秀吉のスパイだったという噂があります。豊臣秀吉は人たらしと言われどんな罵倒や文句にも我慢することができたと言われていることから、山上宗二ほど強い性格の持ち主を少しの文句で追放などするわけがないと言われています。さらに千利休の大事な弟子を容易く追放するとも思えません。

北条家討伐にあまり力を使いたくなかった豊臣秀吉が山上宗二を北条家に仕えさせ内部に潜入させたのではないかと言われているのです。しかし結果失敗し討伐に徒労を割くことになり責任を取らされ死刑になったのではないかと言われています。

一期一会

現在も使われている四字熟語「一期一会」は山上宗二が作ったものです。山上宗二記の茶人の心得の項目に「茶人は一期一会を思念すべし」と書かれています。この言葉を考えたのは山上宗二ですが考えは千利休のもの。千利休の「一会・一会が真剣勝負と同じ」という教えを自分の言葉に直したものが一期一会というわけなんです。

フィクションにおける山上宗二

フィクションにおける山上宗二を解説します。

へうげものにおける山上宗二

講談社刊の「モーニング」連載されていた漫画であり、NHKで放送されていた「へうげもの」内で山上宗二は登場しています。権力や権威に己の価値観を曲げることを良く思わない性分で人の反感を簡単にかってしまう男として描かれています。

山上宗二は豊臣秀吉に逆らい続けた強い茶人

天下人豊臣秀吉に逆らうものなど誰もいなかった世の中で、山上宗二は逆らい続けました。しかも最後は逆らえば死ぬとおそらくわかっていたはずなのに逆らい死にました。

この自分を曲げない性格はもしかした茶人よりも武将向きかもしれません。