山県昌景の身長は?徳川家康を追い詰めた猛将!最期や名言も紹介!

山県昌景は武田氏に仕えた武将で、「武田四天王」の一人にも数えられる重要人物でした。山県昌景が率いた、兜や旗指物を赤や朱に揃えた「赤備え部隊」は最強部隊の代名詞となり、徳川家康の家臣である井伊直政や、大阪の陣で奮闘した真田信繁などの後世の武将にも大きな影響を与えました。そのあまりにもの強さから「赴くところ敵なし」と言われ、徳川家康をも恐れさせました。また、武勇だけでなく内政や外交などにも秀でてた人物と評されおり、武田家中で謀反の動きがあった時もいち早くそれを察して、武田家の危機を救っています。

この記事では山県昌景の生涯を年表つきで分りやすく解説します。山県昌景のエピソードや名言、身体的特徴、壮絶な死に際、そして末裔のことなど、さまざまな視点から解説していきます。

山県昌景の基本情報

山県昌景の基本情報を見ていきましょう。

山県昌景は甲斐国出身の戦国時代から安土桃山時代に生きた武将です。別名に飯富源四朗があります。飯富氏は古くから甲斐国に本拠を構えており、武田氏に仕えていました。山県昌景も、最初は武田信玄に仕え、亡くなってからはその息子である武田勝頼に仕えました。

山県昌景の人生

できごと

生誕から譜代家老衆に列するまで

山県昌景は1529年に、代々武田氏の重臣として活躍する飯富氏の一族に生まれました。若い頃は飯富源四郎と名乗っていました。兄は同じく武田氏の家老として活躍した飯富虎昌です(叔父という説もあり)。父については諸説ありはっきりとわかっていません。

山県昌景ははじめ武田信玄の近習として仕え、信州伊那攻めで初陣を果たします。1552年に侍大将に抜擢され、兄飯富虎昌とともに武田軍の中核として活躍し、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われるようになりました。その後も順調に戦功をあげ、山本勘助の「啄木鳥戦法」で有名な、1561年の第四次川中島のの戦いでは本隊の前衛を守備して、上杉勢と激しく戦います。1564年の飛騨攻めでは主将を任じられ、江馬氏・三木氏を攻略します。

改名から赤備えの継承

1565年、武田信玄の嫡男武田義信が、武田信玄暗殺を企てます。山県昌景の兄飯富虎昌は武田義信の傳役(後見人)であったためこれに加担します。この謀反の情報を得た山県昌景は、兄である飯富虎昌が謀反に関与していることを承知のうえで、これを武田信玄に訴えます。これにより謀反が露見し、武田義信は蟄居のうえ廃嫡。飯富虎昌は処刑されます。この功績により山県昌景は、兄の部隊であった「赤備え部隊」を引き継ぐとともに、「謀反人の飯富姓では肩身が狭いだろう」という武田信玄の配慮により「山県昌景」へと改名します。

1569年には対徳川氏の指揮官として駿河江尻城代を任じられます。赤備え部隊は武田軍の先鋒として戦場を駆けまわり、1572年の三方ヶ原の戦いでは徳川軍に猛攻を仕掛けます。命からがら戦場から脱出した徳川家康は、「さても恐ろしきは山県」と言ったといいます。

武田信玄の死、そして長篠の戦い

1573年に武田信玄が死去すると、馬場信春らの重臣とともに後継ぎ武田勝頼の補佐をします。1574年、美濃明智城をめぐる戦いでは、織田信長の3万の軍勢に対して山県昌景は6000の兵で対峙し、山岳地帯の地形を巧みに利用しこれを撃退します。

1575年、長篠の戦いでは内藤昌秀や馬場信春らとともに撤退を進言したものの、武田勝頼には聞き入れられませんでした。山県昌景は左翼隊の主力として戦い徳川軍に挑むものの、鉄砲隊の前に敗れ去ります。山県昌景は全身に鉄砲の弾を受け、その数17ヶ所と伝わっています。さらに被弾してもなお、落馬せず采配を口に咥え、右手には刀を持ったまま絶命したといいます。享年47歳でした。壮絶な討死をした山県昌景の姿は「長篠合戦屏風」にもあります。家臣の志村又左衛門が、戦死した山県昌景の首級を敵に奪われないように持ち去る様子が描かれています。

山県昌景の人柄・人物像

赤備え部隊

山県昌景が率いた赤備え部隊は、戦国最強の部隊として名高くそのイメージは敵方にも広く知られることとなりました。武田氏が滅亡したのち、その遺臣たちが配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政の部隊でした。徳川家康は武田の武将たちに敬意を表して井伊直政に赤備えを継がせました。井伊の赤備えは「井伊の赤鬼」と呼ばれ、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いでも活躍しました。また、1615年の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)が自分の部隊を赤備えに編成し、徳川軍に対して猛攻を加えました。

身体的特徴

武勇には優れていた山県昌景でしたが、風貌は冴えなかったとされています。身長は130~140㎝であったといわれ、当時の日本人男性の平均身長が150㎝後半だったことと比べても、低身長であったようです。体重も軽く、痩身で唇が裂けているという記録もあります。

山県昌景の名言・エピソード

山県昌景の名言・エピソードについて説明していきます。

子孫は旅館を経営!

山県昌景の死後、その息子たちは上杉景勝や徳川家康に仕えるなど、様々な場所で生きていきます。そのうちのひとりの子孫は現在山梨市で「山県館」という温泉旅館を経営しています。この宿の源泉である川浦温泉は、鎌倉時代に発見された歴史ある温泉で、武田信玄の隠し湯のひとつとされ、武田信玄が開発を命じた下知状も遺されています。

「いつも初陣のように」

武田信玄の異母弟の一条信龍が山県昌景に対して、「山県隊は何故そんなに強いのか?」と訊ねると、「訓練も大事ですが、それだけでなく、一番大切なのは戦に臨む心懸けであり、いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです」と答えたといいます。初心を忘れず、そして驕らずに取り組むことが大事といったところでしょうか。

フィクションにおける山県昌景

フィクションにおける山県昌景を解説します。

信長の野望における山県昌景

山県昌景のステータスは作品によっても異なりますが、統率が88、武勇が94、知略が69、政治が63とやはり史実通り武勇がかなり高い数値となっています。

ドラマにおける山県昌景

物語の中心人物として描かれることはあまりないですが、登場回数は多く、武田方を描いた作品でも、織田・徳川方からの作品でも登場しています。直近では2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で登場しました。

山県昌景は戦国随一の猛将

山県昌景はその凄まじい戦ぶりから、のちの時代の人々にも強い影響を与えた武将でした。

徳川家康は三方ヶ原の戦いで命からがらのところまで追い詰められたにも関わらず、山県昌景に対して強く敬意を表しています。長篠の戦いで山県昌景討ち取りの報を聞いて、徳川家康は惜しみ、悲しんだといわれます。

敵味方関わらず多くの人から尊敬されたのは、山県昌景の言葉にも顕れているように、初心を忘れず、驕らずにいる姿勢なのかもしれません。