山田長政はシャム国で王様になった人物!アユタヤを救った英雄?謎の多い生涯とは?

山田長政は、江戸時代初期にかけてシャム国(現在のタイ)を中心に活躍した人物です。一旗揚げることを夢に日本から異国の地シャムに渡り、アユタヤ王朝で大活躍しリゴール国の王にも就任しました。

この記事では山田長政の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。山田長政がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、フィクションの世界における山田長政など、様々な視点から解説していきます。

山田長政(やまだながまさ)の基本情報

山田長政(やまだながまさ)は江戸時代前期に生きた人物で、当時朱印船貿易により栄えていたシャム(現在のタイ)に渡り、アユタヤ日本人町の総司令官を担うなど、アユタヤ王朝で活躍を収めた人物です。

山田長政の人生

できごと

誕生〜青年時代

山田長政は、天正18年(1590年)に駿河国で生まれたと言われていますが、出身地や生い立ちについては明確な事実が残っておらず、伊勢国や尾張国とする説が伝わります。日本での山田長政の経歴としては、駿河沼津藩主・大久保忠佐に仕えた後に、駿府馬場町の商家で丁稚奉公をやっていた事のみが残っています。

大久保忠佐に仕えていた頃は、駕籠舁きという乗り物を担いで運ぶ職業をしていますが、武士としての身分は最下層に近いところにありました。

朱印船に乗り、シャム王国へ

そんな山田長政に転機が訪れます。当時の日本は朱印船制度という江戸幕府が認めた海外諸国と貿易を行い、外交関係を築く柱となっていた制度で、1604年に実施して以降は多くの日本人が東南アジアなどに向けて渡航しました。1612年、山田長政は長崎から朱印船に乗り、台湾を経由してシャムのアユタヤ王国へと辿り着きます。

山田長政が渡った頃のシャムの首都はアユタヤにあり、当時はソンタムという名君が治めていました。当時のシャムは国内外で戦争が絶えず、そこで日本から渡ってきた浪人が戦士として登用され活躍していました。日本からは関ヶ原の戦いや大坂の陣で活躍した浪人たちから構成された日本義勇軍と呼ばれる傭兵部隊が結成され、百戦錬磨の日本の武士は精強でアユタヤ王朝にも信頼と尊敬の念を持って扱われていました。

その中で山田長政は頭角を現し、スペイン艦隊のアユタヤ港侵攻を二度も退け、ソンタム王の信頼を勝ち得ていきました。

アユタヤでの栄華と悲劇の最期

山田長政は武功を収めただけではなく、貿易商としても活躍し、当時各国が軒を連ねて争った経済戦争を制し、当時世界最大とうたわれた東インド会社をも凌ぐ勢いを見せました。山田長政はその功績から1621年にはアユタヤの日本人町の頭領に就任し、徳川幕府の老中であった土井利勝と本多正純を介して日本とタイの外交にも努めました。

1628年にはアユタヤ王朝の官位における第三位の「オークヤー・セーナピモック」に任じられ、アユタヤ国の軍事面においての最上級職につきます。しかし、翌年に山田長政を寵愛していた国王ソンタムが後継者を定めぬまま崩御してしまいます。ソンタムの死後、長官であったシーウォラウォンと共にソンタムの子のチェーター親王を即位させようとしますが、チェーター親王がシーウォラウォンに不審を抱いたことから、チェーター親王はシーウォラウォンに殺害されてしまいます。

その後チェーター親王の弟のアーティヤッタヤウォンを王の座につけようとします。しかし、アーティヤッタヤウォンはまだ幼かったことから宮内でシーウォラウォンを後継にする流れになると、山田長政は反対意見を述べ、王宮内で反感を持たれてしまいます。シーウォラウォンは山田長政を排除しようと、当時内乱が起きていたリゴール国へ送り込みました。

その後、山田長政はリゴールでの内乱を平定しリゴール王へ任ぜられます。しかし、アユタヤではシーウォラウォンが王を殺害し国王となっていました。これを伝え聞いた山田長政はシーウォラウォンの野望を止めるべくアユタヤに向かおうとしますが、隣国から侵攻してきたパタニ軍との戦いの最中に負傷してしまいます。傷口を癒そうと薬を塗りますが、この薬に毒が含まれており、それが元で41歳の若さで亡くなりました。

山田長政の人柄・人物像

山田長政の人柄や人物像について解説していきます。

ビックドリームを夢見た

山田長政は、日本にいる頃に武士や商人という職業につきますが、いずれも長くは続きませんでした。武士といっても駕籠舁きという身分が低い地位であり、また徳川幕府が出来てからの太平の世では、山田長政が憧れを抱いた刀と槍を持って武功を挙げ、ゆくゆくは一国一城の主ということも出来ない時代となっていました。野心もあり、自信もあるのにそれを試せる機会がない、そんなジレンマを抱えながら青年時代を過ごしていました。

この時代は山田長政と同じような想いを持った人も多く存在し、関ヶ原の戦いや大坂の陣で腕を鳴らした浪人たちが、活躍と刺激を求めて異国の地へと旅立っていきました。

トントン拍子に出世

山田長政がアユタヤに渡り加盟したのが、日本の武士たちで結成された傭兵軍団である日本義勇軍でした。日本人以外の傭兵軍団もいましたが、日本の武士道精神を備えた日本人は信頼と尊敬の念を持たれ、非常に重宝されました。

その中でも山田長政は破竹の勢いで活躍を見せ、1621年には少尉・中尉ランクとなるオーク・クン、1624年には大尉・少佐ランクとなるオーク・アロン、1628年頃には軍人の中では最高位となるオーク・ヤーに就任し、シャム国で最も位の高い軍人にまで昇りつめました。若き山田長政が日本で思い描いた憧れは、彼の意思通り異国の地で叶ったことになります。

山田長政の名言・エピソード

山田長政の名言やエピソードについて解説していきます。

アユタヤ王女とのロマンス

山田長政の逸話として残っている物の一つにアユタヤ王国の王女との恋の話があります。その王女にあたる人物はアユタヤ王ソンタムの妹・ルタナ姫と言い、このルタナ姫が山田長政に恋をするという話が後世において描かれ、唄にもなるなど舞台や小説でも取り上げられています。

しかし、実際のところは「国王からの絶大な信頼を受けて王女と結婚した」という事実は判明しておらず、シャム側の記録では該当する人物が見られないようです。遠い昔の日本人が異国で掴んだビッグドリーム伝記として、甘いロマンスの話も残しておきたかったのではないでしょうか。

時代に伴い変化した長政像

山田長政の活躍は後世の日本においても幅広く評価され、その時代の日本の状況によっては軍事教育などでも利用されてきました。第二次世界大戦までの戦時下の日本では「植民地主義からのアジア解放」を謳い、「大東亜共栄圏」という思想がありました。この思想においての山田長政の活躍は理想的で「異国の地で活躍した英雄」という形で戦意高揚のために利用されました。

戦後になってからは評価が再度見直され、戦時下の「南国で活躍を収めた英雄」という印象から「浪人やキリシタンなど海外移住をせざる負えなかった日本人を存続させるために奮闘した悲劇の指導者」というような描かれ方もされています。

フィクションにおける山田長政

フィクションにおける山田長政を解説していきます。

信長の野望における山田長政

山田長政が信長の野望シリーズに登場するのは比較的新しいシリーズになってからとなり、能力値は政治37,武勇67,統率68,知略42と平均的な能力を有しています。能力的には平均ですが、生年が全武将の中でも比較的遅い方の生まれとなるため、ゲーム後半では主力として活躍しでくれるでしょう。

映画における山田長政

山田長政を題材とした映画としては、2010年に放映された「ヤマダ アユタヤの侍」というタイの映画があります。主人公の山田長政役には俳優の大関正義さんが演じられており、古代ムエタイや日本刀でのチャンバラなどのアクションムービーとなっています。

山田長政は異国の地で日本人の活路を切り開いた人物

山田長政は異国の地シャムで自らの運命を切り開いた人物でした。言葉が通じないという状況下であってもアユタヤ王の信頼を勝ち取る活躍を見せ、また日本とタイとの国交の架け橋にもなった彼の軌跡は、現代における両国間での繋がりにも見ることができます。