宇佐美定満は上杉謙信に仕えた武将で、上杉軍の軍師として越後流文学の祖とされているが、実際の軍師としての記録は残っていない為、孫が江戸時代に作った創作との噂もあります。
この記事では宇佐美定満の生涯を年表付きでわかりやすく解説します。宇佐美定満がどのような人物だったのか、ライバル軍師との共通点、ゲームでの能力など様々な視点から解説していきます。
宇佐美定満の基本情報
本名 | 宇佐美定満(うさみさだみつ) |
生涯 | 延徳元年(1489)〜永禄7年(1564) |
時代 | 戦国時代 |
出身国 | 越後国 |
居城 | 琵琶島城 |
主君 | 上条定憲→長尾晴影→上杉謙信 |
別名 | 宇佐美定行 |
墓所 | 雲洞庵 |
子 | 宇佐美定勝 宇佐美勝行 |
宇佐美定満(うさみさだみつ)は越後国に生まれ戦国時代を生きた武将です。
当時長寿となる76歳まで生き、様々な武将に使え最後は越後の龍と言われた上杉謙信に仕え軍師としてその生涯を終えました。宇佐美定満に関してはあまり文献などが残っておらず以下は当時から語られた逸話程度に参考にしてください。
宇佐美定満の人生
年 | できごと |
---|---|
1489年 | 誕生 |
1514年 | 父が戦死し家督を相続し上条定憲に仕える |
1536年 | 上条定憲の死により長尾為影に仕える |
1537年 | 長尾為景隠居後は後を継いだ長尾晴景に仕える |
1548年 | 長尾晴景が隠居し後を継いだ上杉謙信に仕える |
1551年 | 上杉謙信と対立する長尾政景と交戦する |
1551年 | 交戦に勝利し長尾政景を上杉謙信の家臣にする |
1560年 | 上杉謙信と共に北条攻めを行う |
1561年 | 上杉謙信から御先士大将を務める |
1561年 | 第四次川中島の戦いで武田軍の啄木鳥の戦法を見破る |
1564年 | 長尾政景と共に溺死 |
生誕から上杉謙信に仕えるまで
宇佐美定満は1489年に越後国の宇佐美氏に生を受けました。父親は宇佐美房忠と言われていますが、祖父とされている宇佐美孝忠が父親と言われている説もあります。宇佐美氏は代々上条氏に仕えており琵琶島城を与えられており、宇佐美定満も父親の死後家督を受け継ぎ上条定憲に使えました。
上条定憲や上杉定美と共に越後守護代である長尾為景に越後北部に割拠する国人の協力を得て全面戦争を仕掛けました。宇佐美定満も長尾為景討伐軍の一翼を担い、一時は長尾為景の本拠地である春日山城を占拠するなど戦況を優位に進めていきました。しかし軍神と恐れられた上杉謙信の父であり自身も名将と言われた武将長尾為景に結果的に敗れてしまいました。
1536年に敗北した後は全軍長尾為景の軍の配下となり宇佐美定満も長尾為景の長男である長尾晴景に仕えることになりました。
上杉謙信に仕える
ですが長尾晴景は病弱であり国人たちを手なずけることができず、国政を牛耳られる勢いでした。内乱なども起きましたが長尾晴景はそれを治められず、謀反を起こすものまで現れました。しかし長尾晴景の弟である上杉謙信が若干15歳にしてこの謀反を治めたことで、一部の国人は上杉謙信に家督を継がすべきという意見が出て、1548年に家督を引き継ぐことになりました。宇佐美定満も上杉謙信に仕えることになりました。この時すでに59歳です。
しかし上杉謙信が家督を引き継いだことに不満を持った長尾政景が謀反を起こしました。宇佐美定満はこの戦に率先して参加し長尾政景を上杉謙信の配下に招き入れ、上杉謙信の信頼を確固たるものとしその後上杉謙信の右腕として様々な戦に参加しました。
22歳の若さで越後を平定した上杉謙信は最大のライバルである武田信玄と川中島の戦いを3度も行うなど戦にあけくれましたが宇佐美定満も高齢ながら軍師として武田軍の軍師山本勘助と名勝負を繰り広げます。
1560年ついに関東に進出すべく北条氏康を攻めると上杉謙信と宇佐美定満の采配が当たり次々と城を攻め落します。関東諸将も上杉謙信に加勢しました。北条氏康は野戦は不利と判断し小田原城に退却し小田原城の戦いが勃発。圧倒的上杉軍有利でしたが1ヶ月たっても小田原城を落とすことができず鎌倉へ撤退。ですが、その帰りに鶴岡八幡宮にて、越後一の武将柿崎景家、越中方面司令官河田長親、川中島の戦いで大活躍した甘粕景持と共に宇佐美定満は「御先士大将」を務めました。
第四次川中島の戦いと死
1561年に武田信玄との間に起きた第四次川中島の戦いは第五次まで続く川中島の戦いの中で唯一の大規模の戦いとなり多くの戦死者が出た、川中島の戦い史上一番有名な戦いです。これまで3度戦い、上杉謙信の強さを知る武田信玄は武田軍軍師・山本勘助に新たな作戦立案を命じ、「啄木鳥戦法」という作戦を実行することにしました。啄木鳥戦法とは別働隊を編成し別働隊を山で上杉軍を攻撃させ平野部に誘導し武田軍本隊が迎え撃つというものでした。
しかし海津城から戦況を見た上杉謙信と宇佐美定満は煙がいつになく多いことからこの戦法を見破り、全軍に夜中に一切の物音をたてることなく山を下山し、川を渡り本隊に奇襲をかけました。これによって武田信玄の弟武田信繁や山本勘助らを討ち死にさせましたが、後半武田軍に盛り返され、またも勝負はつきませんでした。
1964年旧友である長尾政景と共に野尻池で船を浮かべ酒盛りをしていた最中、突然船が転覆し二人とも溺死してしまいたした。この時76歳でした。
宇佐美定満の人物像
宇佐美定満の人物像や人柄について解説していきます。
宇佐美定満の活躍を伝える北越軍記
上記に記したような宇佐美定満の活躍は江戸時代出版の「北越軍記」によって記されていますが、作者は宇佐美定満の孫・宇佐美定祐です。宇佐美定祐は紀州藩初代藩主徳川頼宣に仕えた軍事学者でした。
他の史実には1551年の長尾政景との戦いを終えた所で一切名前が出ることはない為、近親者の作者宇佐美定祐が少し手を加えて北越軍記に記しているという説もあります。北越軍記では上記の活躍に加え第一次から第三次までの川中島の戦いの中の宇佐美定満の有能っぷりも多く描かれています。
武田軍軍師山本勘助との関係
同じ時代を生き、敵対する軍に所属し同じ軍師の立場であった二人は数々の名勝負繰り広げたと伝えられていますが、最後は山本勘助発案の「啄木鳥戦法」を宇佐美定満が破り、山本勘助を討ち死にさせたことから宇佐美定満の勝ちに終わりました。
しかし2人共実在する人物ではあるのですが、山本勘助も宇佐美定満同様、謎多き経歴の人物であり語られていた史実も異なることが多いと言われています。軍師という立場上、2人共人にあまり知られないようにしないといけなかったのかもしれません。
宇佐美定満のエピソード
宇佐美定満の人物像や人柄について解説していきます。
宇佐美定満の死について
上記で1564年に旧友である長尾政景と共に船で酒盛りをしていた際に転覆して2人とも死んだと書きましたが、実はこの裏にはある説があると言われています。
長尾政景が武田信玄に寝返り、上杉謙信に謀反を起こそうとしており、それを知った宇佐美定満が舟遊びと称し自ら船の栓を抜き諸共溺死したという説です。長尾政景の軍勢は越後最強の軍と言われていて、上杉謙信と戦うことになれば討伐に相当の時間がかかったと言われています。
また宇佐美定満が76歳と高齢なことからそうするように上杉謙信が命じたという説もあります。
フィクションにおける宇佐美定満
フィクションにおける宇佐美定満について解説していきます。
信長の野望における宇佐美定満
宇佐美定満のステータスは作品によっても異なりますが、統率が82、武勇が62、知略が92、政治68、と史実の通り知略に長けた武将です。初期の頃から登場していますが年々偏差値的には強くなっています。
戦国大戦における宇佐美定満
コスト2.5、武力8、統率10で特技は魅力・伏兵で名言は「我が策で勝利の華を咲かせん」。計略は散華の陣で味方の武力が上がり自身の武力が下がり、自身が撤退すると範囲内の味方もすべて撤退するという能力です。
戦国IXAにおける宇佐美定満
コスト3,0、指揮兵数2770、槍A、馬S、弓A、器B、初期ステータス初期値の攻撃力が660防御力が640兵法が455。
ドラマにおける宇佐美定満
大河ドラマ「天と地と」、「武田信玄」、「風林火山」、「天地人」で宇佐美定満は描かれていて、緒形拳や渡瀬恒彦など渋い役者さんが演じる傾向にあります。
宇佐美定満は上杉謙信に欠かせない武将
戦国時代において、上杉謙信は越後の龍、軍神などと称され屈指の戦上手と神懸かった戦績を残した人物でした。10代で家督を継いだ上杉謙信に対してその時宇佐美定満は59歳。
天才的な戦の感覚を持つ上杉謙信に知識と経験を与え戦の天才を支え欠かせない存在となったのでした。