宇喜多直家は戦国随一の梟雄(きょうゆう)!逸話や大河ドラマの配役も紹介!

宇喜多直家は、斎藤道三や松永久秀と並ぶ悪人とされています。また、出雲国の尼子経久、安芸国の毛利元就とともに中国地方の三大謀将とも評されます。下克上によって一国の主に成り上がるという、まさに戦国大名の典型のような人物でしたが、優れた人格者としての逸話も残っています。

この記事では宇喜多直家の生涯を年表付きで分りやすく解説します。宇喜多直家がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける宇喜多直家など、様々な視点から解説していきます。

宇喜多直家の基本情報

宇喜多直家は戦国時代から安土桃山時代に生きた戦国武将です。最初は備前国領主の浦上宗景に仕えましたが、下克上により備前国一帯を治める戦国大名となります。その後、中国地方で強大な力を持っていた毛利氏に従いますが、織田信長による中国征伐がはじまると、毛利氏を裏切って織田方につきました。

宇喜多直家の人生(年表付き)

できごと

備前国の大名、浦上氏に仕官する

宇喜多直家は、享禄2年(1529)に宇喜多興家の子として生まれます。生地は史料の裏付けはないものの、備前国の砥石城であるといわれています。宇喜多家は応仁の乱頃から備前国西大寺周辺に権益を持つ土豪として文献に表れます。そして備前国守護代の浦上氏に仕えていました。

享禄4年(1531)または天文3年(1534)、祖父宇喜多能家が同じく浦上氏の家臣であった島村盛実によって殺害されると、宇喜多直家は父・興家とともに備後国鞆浦へ落ち延びます。宇喜多直家は、しばらく放浪生活を送りますが、成人すると天神山城主・浦上宗景に仕え、その家臣団の中で徐々に頭角を現すようになります。

謀略を重ね、一国の主となる

永禄2年~5年(1559~1562)の間に祖父の仇であった島村盛実が、同じく浦上氏の重臣であった中山信正とともに殺害されます。当時の文献に詳しいことが記されていないため、その原因ははっきりとわかっていませんが、宇喜多直家が謀反の容疑をかけて、暗殺をしたとも言われます。

備中国を治めていた三村氏は備前国への進出を目論んでいました。宇喜多直家は浦上氏のもとでそれに抗戦します。永禄9年(1566)、美作国に侵攻していた三村家親を刺客を雇って殺害します。翌永禄10年(1567)には明善寺合戦の指揮官として戦い、備前国に侵入していた備中勢の駆逐にほぼ成功します。功績をあげるなどして宇喜多直家は、浦上家内で随一の実力者となっていきました。

永禄12年(1569)今度は主君の浦上宗景を倒すべく、織田信長や、西播磨の赤松正秀と手を結びます。しかし、織田信長は越前国侵攻にかかりきりになり、赤松正秀は逆に浦上宗景に攻められ降伏してしまうと、宇喜多直家は味方がいなくなり孤立状態になってしいます。これにより宇喜多直家は降伏を余儀なくされ、この時は特別に助命・帰参を許されます。

天正2年(1574)再び浦上宗景からの独立を目論み、まずは浦上宗景の又甥・久松丸を擁立して、宗景に反旗を翻します。直家は事前に根回しを行っていたことがあり、備前国内や美作国での宗景配下の勢力を味方につけることに成功します。加えて浦上宗景と犬猿の仲であった毛利氏とも協同体勢をとり、天正3年(1575)に浦上宗景を播磨国へ退けます。これにより宇喜多直家は備前国、そして備中国や美作国の一部にまで勢力を拡大することに成功しました。

織田信長への臣従

一応は備前国を手中に収めたものの、依然として国内には旧浦上氏家臣の勢力が残っており、宇喜多直家はその後もたびたびそれらによる小規模な蜂起に悩まされることになります。天正6年(1578)、浦上氏の残党が一斉蜂起します。鎮圧に数か月を要するほど苦戦を強いられますが、最終的にこれを鎮圧、領国内に潜んでいた旧浦上氏の勢力を放逐することに成功します。これにより宇喜多家の安定した支配権が確立されたのでした。

織田信長の命により羽柴秀吉が中国地方に進出してくると、当初は宇喜多直家はこれに対抗し、天正7年(1579)5月、信長方に内応したとされた後藤勝基を滅ぼすなどします。しかし、同年の10月に宇喜多直家は毛利氏と手を切って信長方につきます。それ以降、宇喜多直家は織田方の先鋒として美作・備前各地を転戦し、毛利氏の前線を切り崩していきます。

その戦いの最中、天正9年(1581)末ごろに宇喜多直家は岡山城で病死します。宇喜多直家の死後、その次男でまだ12歳であった嫡子・八朗が宇喜多秀家と名乗り、家督を継ぎました。

宇喜多直家の人柄・人物像

宇喜多直家の人柄や人物像についてまとめます。

裏切りと謀略は家名と家臣を守るため?

浦上氏の一家臣という立場から始まり、周囲の家臣などを調略によって没落させていき、そして主君である浦上氏を追放し、備前国の支配者になりました。また、当初は中国地方の大勢力であった毛利氏と手を結ぶことで国内の勢力を伸張させたものの、後にはそれをも裏切って織田軍の先鋒として毛利氏と戦いました。

血も涙もない人物のように見えますが、見方を変えればその時々で自分や、自分に従う家臣達が生き残っていくために合理的な判断をしていると言えます。結果的に宇喜多家が戦国時代を生き残ったということは、宇喜多直家の時代の流れを読む能力が卓越していたといえるのではないでしょうか。

悪人ではない一面

悪人として評価されることが多い一方で、穏やかな一面や、信仰心の厚い一面もあったようです。策略の対象とした敵将を手厚く弔ったり、焼打ちにあった寺社再建の援助も行ったようです。

宇喜多直家の名言・エピソード

宇喜多直家の名言・エピソードについて解説します。

積極的な経済政策を行う

天正元年(1573)に岡山城に入ると、それまで北方の山裾を通っていた西国街道を城の南に沿うように付け替え、城下に交通を導きます。また、周辺から商人を呼び寄せ城下町の整備を行うなど、経済政策を積極的に行いました。

自らについてくる家臣は大事にした!

自分についてくる家臣については大切にしたといいます。宇喜多直家が初陣で武功をたて、浦上宗景より乙子城を与えられ初めて城主となったとき、知行が少なく困窮を極めたといわれます。宇喜多直家は家臣とともに耕作に励み、節食をして兵糧を蓄えたという逸話も残っています。この辛苦の時代を共にした弟・忠家や宇喜多三老に代表される譜代家臣たちは終生宇喜多直家を支え続けました。また、宇喜多直家は家臣の婚姻を手に架けることはあっても、粛清したこともなかったようです。

フィクションにおける宇喜多直家

フィクションにおける宇喜多直家を解説します。

信長の野望における宇喜多直家

シリーズによって異なりますが、統率80、武勇71、知略99、政治93と、全体的に高い水準となっています。中でも知略が飛びぬけて高く設定されています。

ドラマなどにおける宇喜多直家

下克上の代表的人物の一人というだけあって、小説などでもしばしば取り上げられています。最近では、2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で登場しました。陣内孝則さんが演じ、非情で型破りな人物として描かれました。

宇喜多直家は知略を駆使して戦国の世を生き残った!

宇喜多直家は「悪人」として語られることが多いです。しかし謀略を行う根底にあったのは、先祖代々受け継できた家名とそれを慕ってついてきてくれる家臣たちを守ることであったように思えます。

宇喜多氏が戦国の激動の中で生き残る事ができたのは、宇喜多直家が知略をつくして奔走した結果とも言えるのではないでしょうか。