宇喜多秀家は関ヶ原で西軍として敗れ八丈島へ流された!子孫はどうなった?

宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで西軍につき、その主力として戦った人物として知られています。しかしそれ以外にも豊臣秀吉の全国統一事業のため各地に出陣したり、朝鮮出兵にて指揮官として活躍するなどしています。また、岡山城や城下町の基礎を築くといった功績もあります。

この記事では宇喜多秀家の生涯を年表付きで分りやすく解説します。宇喜多秀家がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける宇喜多秀家など、様々な視点から解説していきます。

宇喜多秀家の基本情報

宇喜多秀家は安土桃山時代から戦国時代にかけて生きた武将です。

豊臣秀吉・秀頼に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍につきました。

宇喜多秀家の人生(年表付き)

できごと

幼くして家督を継ぎ、秀吉政権下で多方面に活躍する

宇喜多秀家は元亀3年(1572)に、宇喜多直家の次男として生まれます。通称は八郎と称しました。父・宇喜多直家は生まれこそ備前国守護代の一家臣という家柄ながら、下克上によって備前国全域を治めるまでに成り上がった人物でした。天正5年(1577)に羽柴秀吉が織田信長の命令のもとで中国征伐を開始します。宇喜多直家は当初は毛利氏についていましたが、それを裏切り秀吉方の先頭に立って戦います。宇喜多直家はその最中に岡山城にて病死します。

天正10年(1582)、八郎は当時まだ10歳ながら宇喜多家を継ぎ、秀吉の一字を与えられて宇喜多秀家と名乗るようになりました。秀吉の備中高松城攻撃にあたり将兵1万余を差出し、高松城講和後は備中東半分と備前・美作両国併せて50万石の領有を認められることになりました。これ以降秀家は秀吉の寵愛を受け、秀吉の養女で前田利家の娘であった豪姫を妻に迎えます。秀吉の四国・九州・小田原征伐に従軍し、さらには朝鮮出兵でも指揮官の立場で活躍します。

関ヶ原の戦いに敗れる

慶長3年(1598)、秀家は秀吉から五大老の一人に任じられ、秀吉の死後は徳川家康らとともに政務執行の中枢を担います。慶長5年(1600)、石田三成が家康打倒のために挙兵をすると、秀家は豊臣氏と近い関係にあったことから石田三成に味方します。伏見城の戦いでは総大将として参戦して攻略、関ヶ原の戦いでも西軍主力として1万7千を率いて東軍・福島正則隊と戦闘を繰り広げます。しかし奮戦の甲斐なく西軍は敗れ、宇喜多隊は壊滅し、秀家は伊吹山中に隠れてやがて島津義弘を頼って薩摩に落ち延びます。

死罪は免れるも、八丈島へ流罪

島津氏の庇護のもとにいましたが、慶長8年(1603)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとに身柄が引き渡されます。島津忠恒や前田利長の助命嘆願によって死罪を免れ、駿河国久能へ幽閉、慶長11年(1606)に八丈島へ流罪となります。秀家はこの時に剃髪をして休福と号し、一族をはじめとした13名とともに渡島します。八丈島では妻の実家である前田氏などから援助を受けながら50年間をすごし、明暦元年(1655)に同地で死去しました。関ヶ原の戦いに参戦した大名の中では最も遅くまで生き、江戸幕府ではこのとき既に4代将軍徳川綱吉の治世となっていました。

宇喜多秀家の人柄・人物像

宇喜多秀家の人柄や人物像についてまとめます。

秀吉に寵愛を受ける!

宇喜多秀家は元服時に「秀」の字を与えられるなど、若いころから豊臣秀吉に寵愛を受けました。天正15年(1587)には秀吉に羽柴姓と豊臣姓を与えられました。そして豊臣秀吉の晩年には五大老の一人として政権を支えました。

現在も岡山に残る宇喜多秀家の功績の数々

豊臣政権下で57万4000石の大大名となった宇喜多秀家は、居城をこれに相応する城とするために天正18年~慶長2年(1590~1597)の8年間にわたり大改修を行います。当初は「石山城」と呼ばれていたこの城は、「岡山」に本丸を構えたことから「岡山城」と名付けられました。本丸には4重6階の壮麗な天守閣も建てられ、その他の郭、高石垣なども築かれました。

また、城の南を取り巻くように街道の整備と城下町の拡大を行い、領内の有力商人を城下に呼び寄せ経済発展を促しました。城下町「岡山」という呼称もこの頃に定着しました。宇喜多秀家は領内の干潟を新田開発するために堤防を築きます。これらは宇喜多堤と呼ばれ、現在も倉敷市などにその跡が残っています。

宇喜多家が関ヶ原の戦いの後に改易になると、小早川秀秋が岡山城へ入ります。その後は池田氏が入り、幕末まで続きます。明治時代以降は、廃城令や市街地の開発により、天守閣以外の廓や堀はほとんど取り壊されます。さらに昭和20年(1945)の岡山空襲により天守閣が焼失します。現在みえる岡山城は昭和41年(1966)に再建された鉄筋コンクリート造のもので、瓦に桐紋が使われるなど、宇喜多秀家当時のイメージで造られています。

宇喜多秀家の名言・エピソード

宇喜多秀家の名言・エピソードについて解説します。

子孫は八丈島で明治以降も続いた!

宇喜多秀家が八丈島へ流罪になったことにより大名としての宇喜多家は滅亡しましたが、秀家とともに流罪となった長男と次男の子孫は八丈島で血脈を伝えていきました。八丈島では直系血族は「浮田」、傍系は「喜田」などの名乗り、後に20家に分かれます。明治3年(1870)に20家のうち浮田氏7家が八丈島を離れ、東京板橋の加賀藩下屋敷跡に前田家より土地を与えられて移住しました。

八丈島での暮らし

八丈島に流され、そこで50年を過ごした宇喜多秀家ですが、妻の実家である前田氏などから援助を受けたほか、高貴な身分であったことから他の流人よりも厚遇されたとも伝えられています。また、島民の宴にもしばしば招かれたとも伝わっています。一方別の記録では、島での生活は苦しかったともいわれており、現地の代官におにぎりを馳走してもらったなどといった逸話も残っています。

また、元和2年(1616)に秀家の刑が解かれ、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかという誘いを受けますが、秀家はこれを断り八丈島に留まったという逸話もあります。

フィクションにおける宇喜多秀家

フィクションにおける宇喜多秀家を解説します。

信長の野望における宇喜多秀家

シリーズによっても異なりますが、統率82、武勇73、知略72、政治73となっています。秀吉政権下で様々な功績をあげたことから全体的に高めの数値となっています。

ドラマにおける宇喜多秀家

物語の主役として描かれることはあまりありませんが、秀吉の重臣として活躍し関ヶ原の戦いでも存在感を示したことから、様々な作品に登場します。2016年の大河ドラマ「真田丸」では高橋和也さんが演じ、豊臣家に忠誠を尽くす人物として描かれています。

宇喜多秀家は豊臣家に尽くした武将だった!

宇喜多秀家は若いころから豊臣家に仕え、活躍しました。そして関ヶ原の戦いで敗れるもののそこでも豊臣家への忠義を貫きました。父・宇喜多直家が裏切りや謀略などを重ねて生き延びたこととは、真逆な生き方をしたことも興味深いところです。