上杉謙信は毘沙門天を信仰した軍神!愛刀家の一面と伊勢姫との悲恋も

上杉謙信は自らを毘沙門天の化身と称して数々の戦いを重ねた武将であり、特に宿敵・武田信玄との川中島の戦いが有名です。その類まれなる軍才をもって越後・越中・能登を統一し、戦国屈指の戦上手として「軍神」「越後の龍」と評されています。

この記事では上杉謙信の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。上杉謙信がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける上杉謙信など、様々な視点から解説してきます。

上杉謙信の基本情報

上杉謙信(うえすぎけんしん)は越後国出身で、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。

上杉家の家臣であった長尾家から身を立てて後に山内上杉家当主となり、数々の戦いで勝利を治め上杉家の繁栄をもたらしました。

上杉謙信の人生

できごと

混乱の幼少期

後の上杉謙信・長尾景虎は、1530年に越後国守護代である長尾為景の第二子として誕生しました。

当時、越後国においても下剋上の嵐が吹き荒れており、父・長尾為景も越後国守護・上杉房能と、関東管領・上杉顕定を殺害した上、次の守護となった上杉定実を傀儡として実験を掌握していました。

1536年に長尾為景は隠居し、兄の長尾晴景が家督を継ぎますが、逞しいながらも粗暴であった幼い長尾景虎は、林泉寺に預けられ、天室光育和尚の指導を受けることとなりました。

1542年に長尾為景が死去すると、敵対勢力の力が強まります。家督を継いでいた長尾晴景は病弱であり、父のように越後国をまとめる力がなかったため、それまで傀儡であった守護・上杉定実の力が復活しました。

この頃、長尾家も一族の中で争いがあり、三条長尾家・古志長尾家・上田長尾家の3つに別れて守護代の地位を争っていました。長尾景虎が属したのはこの内三条長尾家であり、守護代の地位もこの一族のものとなっていましたが、上田長尾家との抗争は長く続き、父の死去により上田長尾家の勢力も強まっていました。

1544年、長尾晴景を侮った越後の豪族が謀反を起こします。15歳であった長尾景虎は栃尾城に入っていましたが、これを若輩と軽んじた豪族たちがここに攻め入り、栃尾城の戦いとなります。

これが初陣であった長尾景虎ですが、少数の手勢を二手に分け、その内の一隊に背後からの急襲を命じて挟み撃ちにすることで敵を混乱させ、見事この戦いに勝利しました。

家督相続と越後国統一

その後も越後国の混乱は続き、1545年に上杉定実の老臣・黒田秀忠が謀反を起こします。上杉定実は先の栃尾城の戦いで名を挙げた長尾景虎にその討伐を命じ、出陣した長尾景虎は黒田秀忠を降伏させ、翌年には黒田氏を滅ぼしました。

かねてから頼りない長尾晴景に不満を持っていた国衆達は、これらの戦いを見て武勇優れる長尾景虎を擁立したいと画策し始め、長尾晴景と長尾景虎は対立するようになります。

1548年、上杉定実がついに調停に乗り出し、長尾晴景は家督と守護代の職を長尾景虎に譲って隠居することとなりました。さらに1550年には上杉定実が後継者を残さずに死去したため、13代将軍・足利義輝より越後国守護を代行することが命じられ、実質的な越後国主としての地位を手にしました。

しかし、上田長尾家の当主・長尾政景はこれに不満を持ち、反乱を起こします。(坂戸城の戦い)1551年、長尾景虎は長尾政景の居城・坂戸城を攻撃して降伏させ、ここに長く続いていた内乱が一旦の収束を見せ、越後国の統一が果たされました

北条氏康・武田信玄との戦いが始まる

1552年、相模国の北条氏康に攻められた関東管領・上杉憲政が、長尾景虎を頼って越後国へ敗走してきます。長尾景虎は彼を庇護したため、ここに北条氏康との対立が始まりました。長尾景虎はすぐさま家臣を関東に派兵して上杉憲政の居城であった平井城の奪還に成功しました。

しかし、同年には武田信玄の信濃侵攻によって領国を追われた信濃国守護・小笠原長時も長尾景虎を頼りに越後国へと逃げ込んできていました。さらに1553年、同じく武田信玄に破れた村上義清も越後国へ入ります。

長尾景虎はついに武田信玄との戦いを決意し、同年第一次川中島の戦いが勃発します。武田軍の先鋒隊を破り、荒砥城を陥落させた長尾景虎でしたが、武田信玄が塩田城に籠り決戦を避けたため、深追いはせずに越後国に引き上げ、この戦いは終わりました。

1554年に家臣の北条高広が武田信玄と通じて謀反を起こすとこれを征伐しますが、翌年にはこの反乱の黒幕であった武田信玄を討つために再び出陣し第二次川中島の戦いとなります。この戦いも決着はつかず、和睦に終わっています。

1556年、これまでの戦いにより心身が疲れ果てた長尾景虎は、突如家督を捨てて出家すると宣言します。

しかし、これをチャンスと見た家臣の大熊朝秀が武田信玄と内通し、謀反を起こしました。幼少期の師である天室光育らの説得を受けた長尾景虎は出家を断念し、大熊朝秀を打ち破り、再び連戦の日々に身を置くこととなりました。

1557年、第二次川中島の戦いでの盟約を武田信玄が破り長尾景虎が支援していた高梨頼政を攻撃すると、激怒した長尾景虎は再び川中島に出陣し、第三次川中島の戦いが起こります。ここでも武田信玄が決戦を避けたために決着はつきませんでした。

小田原城の戦いと関東管領への就任

1560年に越中の椎名康胤が越中守護代の神保長職に攻められると、椎名康胤は長尾景虎に支援を要請してきます。これを受け、長尾景虎は初めて越中へと出陣し、神保長職の居城・富山城と逃げ延びた増山城を陥落させました。

同年、桶狭間の戦いで今川家が弱体化すると、その隙を突いて今川家と同盟を結んでいた北条氏の小田原城へと出陣します。上野国の長野業正らの支援を受けた長尾景虎は、北条氏の支城を次々に攻略します。野戦は不利であると考えた北条氏康は篭城策をとり、小田原城に籠りました。

1561年、長尾景虎はおよそ10万の大軍で小田原城への攻撃を開始しますが、これを陥落させることはついに出来ませんでした。

北条氏康の奮闘、小田原城が非常な堅城であったことも勿論ですが、その裏には北条氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せて長尾軍を牽制したこともありました。

この戦いの最中の1561年3月、長尾景虎は上杉憲政より山内上杉の家督と関東管領の職を譲られ、名を上杉政虎と改めました。

第四次川中島の戦いと関東出兵

1561年8月、北信濃に武田信玄が侵攻すると、小田原城の戦いから帰国した上杉政虎は再び川中島に出陣し、第四次川中島の戦いが勃発します。

この戦いは川中島の戦いの中でも最も激戦であり、上杉軍は武田信繁や山本勘助らの名だたる武田の武将を討ち取りますが、最後は形勢不利となって引き上げます。この戦いで上杉軍は約3千、武田軍は約4千を失い、互いに大打撃を受けました。

この年の末、将軍・足利義輝より「輝」の一時を賜り、長尾輝虎と改名しその関係性を深めています。

上杉輝虎は1562年頃より再び関東に出兵すると、小田原城の戦いで上杉軍に味方していた佐野昌綱が北条方に寝返り、唐沢山城の戦いが勃発します。交通の要にあった唐沢山城は、関東出兵のために必ず押さえておきたい城でした。しかし、難攻不落と言われたこの城は中々陥落せず、以降10度に渡って戦いが続くこととなりました。

その後も1567年頃まで関東の諸将と戦い、一進一退の攻防戦を繰り広げましたが、関東における領土は東上野にとどまりました。

なお、関東出兵中の1564年には第五次川中島の戦いが起きていますが、この戦いはにらみ合いに終わり、これ以降川中島で決戦が行われることはなくなりました。

越中進出と越相同盟

1568年、かつて神保長職の侵攻から救った椎名康胤が一向一揆衆と共に武田信玄と通じると、これを制圧するために越中へ出陣します。松倉城・守山城と陥落させた上杉輝虎でしたが、時を同じくして重臣の本庄繁長が謀反を起こしたため(本庄繁長の乱)、その鎮圧のために帰国を余儀なくされました。

同じ頃、甲相駿三国同盟を破って武田信玄が駿河国に侵攻すると、北条氏康はそれまで盟友であった武田信玄と断行し激しく対立するようになります。四面楚歌に陥った北条氏は、上杉輝虎との和睦交渉を開始し、1569年に越相同盟が締結されました。

1570年に北条氏康の七男・北条三郎を養子として迎えた上杉輝虎は彼を気に入って厚遇し「景虎」の名を与えるとともに、自らは「不識庵謙信」と名乗るようになりました。

越相同盟の締結により関東は落ち着きを見せたため、上杉謙信の残る課題は越中と定められます。1571年、椎名康胤との間に再び争いが起こり、諸城を陥落させます。逃れた椎名康胤は越中一向一揆衆と手を組み抵抗を続け、熾烈な戦いが続きました。

同年、北条氏康が死去すると、その後を継いだ北条氏政は越相同盟を破棄して再び武田信玄と同盟を結び、さらに武田信玄は越中一向一揆衆を煽動します。勢いをつけた越中一向一揆衆は上杉氏の諸城を攻略しますが、上杉謙信は1572年の尻垂坂の戦いで一向一揆衆を大敗させました。

一向一揆衆と結んでいた椎名康胤はいまだ抵抗を続けていましたが、上杉謙信は1573年に富山城を、そして1576年に蓮沼城を陥落させて椎名康胤を討取ると、ここに越中平定が成し遂げられました。

能登平定と最後

かねてから上洛を目指していた上杉謙信は、上洛の際のルートとなる能登国の平定を画策します。

能登国を治めていた七尾城主・畠山氏は当時織田信長に付こうとする派閥と上杉謙信に付こうとする派閥で割れていましたが、協議の結果上杉謙信への徹底抗戦が決まり、1576年より七尾城の戦いが始まります。

激戦となったこの戦いは翌年まで続きますが、力攻めは不可能と悟った上杉謙信は、最後に調略を用いることで七尾城を陥落させます。さらに能登末森城を陥落させた上杉謙信は、越中に続き能登国も手中に収めました。

この戦いの途中で畠山軍は織田信長に援軍を要請しており、七尾城陥落を知らなかった織田信長が柴田勝家を総大将とする3万余の大軍を差し向けたため、続いて手取川の戦いが勃発します。上杉謙信はこの戦いに圧勝し、春日山城へと凱旋しました。

その数日後、次なる遠征に向けて大動員令を出しますが、1578年遠征準備の最中に突如倒れ、49歳で急死してしまいます。脳溢血だったのではないかと言われています。

上杉謙信の人柄・人物像

上杉謙信の人柄や人物像について説明します。

信仰心と毘沙門天

幼い頃、林泉寺(曹洞宗)の天室光育の元で学んだ上杉謙信は、非常に信仰心の深い人物へと成長しました。はじめ禅の思想を学び、上洛時には臨済宗大徳寺に参禅して「宗心」の法名と「三帰五戒(=殺さず・奪わず・犯さず・騙さず・酒を飲まず)」の戒律を授かり、晩年には真言宗に傾倒しました。

1556年に「三帰五戒」に背き戦いを続けなければいけない人生に嫌気が差して出家を画策し、天室光育に長文の手紙をしたためた後、高野山を目指しています。

上杉謙信は、特に武神である毘沙門天を信仰しており、自らを毘沙門天の生まれ変わりと称し、その軍旗においても「毘」の字を使用しました。春日山城内に毘沙門天堂も創設しており、戦いの前には必ずここに篭ったと言われています。

武田信玄からの評価

川中島の戦いなどで何度も戦いを繰り広げた宿敵・武田信玄でしたが、二人の間には友情めいたものがあり、互いにその才能を認め合っていました。武田信玄は常々上杉謙信を「日本無双之名大将」と評しており、死の直前には嫡男・武田勝頼に対して、

「勝頼弓箭の取りよう、輝虎(=上杉謙信)と無事を仕り候え。はたけき武士なれば、四郎若き者に、小目みをすることあるまじく候。その上申し、相手より頼むとさえ言えば、首尾違うまじく候。信玄大人気なく輝虎に頼むと言うこと申さず候故、終に無事になること無し。必ず勝頼は、謙信を執して頼むと申すべく候。作用に申して苦しからざる謙信なり」

(訳:武田勝頼は上杉謙信と和議を結ぶように。彼は男らしい武将であるから、若い四郎を苦しめるようなことはしないであろう。まして和議を結ぶとなれば、決して約束を破ることはしないであろう。

私は大人気なく謙信に頼ることをしなかったために、ついに和議を結ぶことは無かった。しかし勝頼は必ず謙信に敬意を現わして頼りにするのが良い。謙信はそのように評価して良い人物である。)

と遺言したと言われています。

情け深い一面

軍神と呼ばれる上杉謙信ですが、後に養子となる甥・上杉景勝に宛てて身の上を案じる手紙を頻繁に送っており、特に1562年には当時まだ8歳であった上杉景勝に対して習字の手本として自ら作成した『伊呂波尽手本』を送るなど、非常に子煩悩で情け深い一面を持ち合わせていました。

その情け深い性格は、家臣に対しても発揮されています。

坂戸城の戦いで敵対した上田長尾家の長尾政景について、初めは許さないつもりであったものの、彼の妻は長尾景虎の姉であり、その夫婦生活は非常に円満であったため、また老臣達の必死の助命嘆願に心を打たれたために、最後には彼を許します。

その後長尾政景は重臣となり、数々の戦いを共にして武功を積み、1556年に長尾景虎が家督を捨てて出家しようとした際には、天室光育と共に必死の説得を行い、これを静止しています。

1554年に武田信玄と、1567年に北条氏康と結んで二度に渡る謀反を起こした北条高広についても許しています。「無双の勇士」と讃えられるほどの北条高広の武勇を惜しんだと考えられますが、一方で家中一の粗忽者とされた彼に、気をもむことが多かったと言われています。

上杉謙信の名言・エピソード

上杉謙信の名言やエピソードについてに解説します。

度重なる援護要請

上杉憲政・村上義清・椎名康胤はじめ、軍事に優れた上杉謙信の元には、敗走した武将達が多く逃げ込んだり援助を要請されており、また室町幕府や関東管領からも関東出兵を要請されており、その数は17回に及びました。

義理堅く情け深い性格がまさに反映していると言えます。

「依怙によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方へも合力す(=私利私欲で合戦はしない。ただ道理ももって誰にでも力を貸す)」という言葉も残っています。

「敵に塩を送る」エピソードと遺品の刀

武田信玄は1567年に同盟を結んでいた駿河国・今川氏真との関係を悪化させ、塩止めを受けています。甲斐国は内陸のため、塩をとることが出来ず困惑していました。

この今川氏の行動を上杉謙信は「卑怯である」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。こんなことで倒れて星欲しくない。だから、越後の塩を送る」と、武田信玄に塩を送ったとされます。

この時武田信玄が返礼品として送ったのが福岡一文字の在銘太刀弘口一振であり、現在も東京国立博物館に所蔵されています。

戦国武将の中でも愛刀家であった上杉謙信は、他にも姫鶴一文字・山鳥家・五虎退などの刀剣を遺品として残しています。

伊勢姫との悲恋

上杉謙信は生涯不犯を貫き、正妻や側室を置き子をもうけることはありませんでした。

それには宗教的な思考が大きく関与していたと思われますが、一説には伊勢姫との悲恋が原因していると言われます。伊勢姫は、若き日の上杉謙信が関東出兵を行なった際の敵将であった上野国平井城主・千葉采女の娘でした。

千葉采女は伊勢姫を人質に出し、上杉謙信は彼女を気に入って妻にしようとしますが、柿崎景家が「敵将の娘を妻とするのは争いの元」と強く反対したため、これを実現することは出来ませんでした。

伊勢姫はこのことを悲しんで自害し(青龍寺に出家し程なく死去したとも)、彼女の死を悲しんだ上杉謙信は食事もままならないほどで、その後も伊勢姫を忘れられなかったために生涯独身であったと言われます。

フィクションにおける上杉謙信

フィクションにおける上杉謙信を解説します。

信長の野望における上杉謙信

シリーズによっても異なりますが、信長の野望における上杉謙信のステータスは、統率120、武勇105、知略74、政治54となっています。軍神の渾名に恥じず、統率・武勇で驚異的な高数値を誇りますが、度々家臣の裏切りにあっていることからか、政治は54と比較的低い数値となっています。

ドラマにおける上杉謙信

上杉謙信を主役としたドラマには、1969年の『天と地と』(演・石坂浩二)がありますが、2007年の大河ドラマ『風林火山』では歌手のGACKTさんが上杉謙信を演じ、神がかった幻想的とも言える雰囲気を持つ武将として描かれました。

これ以降上越市の「謙信公祭」には複数回に渡って上杉謙信役としてGACKTさんが登場しており、『GACKT龍の化身』という大河ドラマ初の役柄俳優個人の写真集も出版されています。

軍神・上杉謙信は神憑りな軍才と深い信仰心を合わせもつ義の武将だった

幼少期から家中・国内の混乱の最中に生まれた上杉謙信でしたが、その経歴をみると、北条氏や武田氏との争いだけでなく、これらの勢力と結んで家臣たちが頻繁に裏切りを起こしています。

これは、当時の下剋上の風潮もありますが、上杉謙信自身には野心がなく人助けのために戦っており、家臣達にとっては戦に勝っても褒美が少なかったために不満を持ったからだとも、上杉謙信を恐れた武田氏・北条氏による家臣達への調略が後をたたなかったからだとも言われています。

その神がかった才能によりいくつもの戦いで勝利を収め、越後・越中・能登と手中に入れた上杉謙信でしたが、その死後、巨星を失った上杉氏には家督争いである御館の乱が発生します。このように、名将・上杉謙信の死は各所に相当な衝撃を与えました。

輝かしい戦歴のみならず、武田信玄とのエピソードにも見られるような、信仰心に基づくその情け深い性格などから、その人徳が慕われて神格化しており、山形県の上杉神社では主祭神として祀られるなど、義の武将として現在でも多くの尊敬を集めています。