長宗我部元親のあだ名(異名)は?明智光秀との関係と大河ドラマについて!

幼少期は「姫若子」と揶揄されていた長宗我部元親ですが、成人すると土佐一国を統一する力量を見せ「土佐の出来人」と言われるようになり、名将の仲間入りを果たしました。しかし、晩年は以前のような覇気を失い、暗君だったと言われています。

今回は長宗我部元親の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

長宗我部元親の基本情報

長宗我部元親の人生

できごと

誕生~土佐統一

長宗我部元親は、1539年に土佐岡豊城で生まれました。1560年に、23歳の時に初陣を果たしています。他の諸大名と比べれば遅い初陣でした。この時、長宗我部元親は槍を持って敵に突撃するという勇猛さを見せています。同年6月に父:長宗我部国親が死去すると、家督を相続しています。

長宗我部元親は、1560年の時点では、現在の高知市全域(南西部の一部を除く)を支配下に置く程度でした。1563年に、美濃の斎藤利三(後に明智光秀の重臣)の妹(娘とも言われる)を正室に迎えています。1568年には父の代からの宿敵だった本山氏、1569年には安芸氏、1574年には一条氏の内紛に介入し、一条兼定を追放しています。

1575年には再起を図った一条兼定が攻め込んできますが、四万十川の戦いでこれを破り、土佐を統一しています。土佐統一後は、中央で勢力を拡大していた織田信長と良好な関係を築き、伊予・阿波・佐貫へと進出していきました。

織田信長との対立

阿波・讃岐方面は、かつては三好長慶の元で、中央政界にも影響力を持っていた三好氏の地盤でしたが、織田信長に敗れて衰退していました。しかし、三好氏の抵抗もあり、思うように攻略は進みませんでしたが、1580年までに阿波・讃岐両国をほぼ制圧しています。

伊予については、守護の河野氏が中国地方の毛利氏の援助を得て抵抗したため、長宗我部元親の威よ平定は長期化していきました。そんな中、1580年に友好関係にあった織田信長が、長宗我部元親の四国平定を良しとせず、土佐・阿波半国のみの領有を認めて臣従するように迫ってきますが、長宗我部元親はこれを拒否。

織田信長との対立が決定的になり、1581年には織田信長の援助を受けた三好氏の残党の反抗を受けています。1582年4月に武田氏を滅ぼした織田信長は、中国・四国地方の攻略にかかります。同年5月には神戸信孝(織田信長の三男)を総大将とする四国遠征軍が組織され、長宗我部元親は危機に陥りました。

四国遠征軍は、6月2日に渡海予定でしたが、同日に本能寺の変が起こり、織田信長が亡くなります。これにより、四国遠征軍は解体し、長宗我部元親は危機を脱しています。織田信長の死によって生まれた政治的空白を利用して、長宗我部元親は十河存保を中富川の戦いで破り、阿波の大半を制圧することに成功しています。

羽柴秀吉に降伏し、豊臣政権下へ

1583年には柴田勝家と手を結び、羽柴秀吉に対抗。しかし、柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、その後柴田勝家が滅ぼされると、羽柴秀吉は四国攻略の準備をするようになります。1584年の小牧・長久手の戦いの際には、織田信雄や徳川家康と結び、羽柴秀吉に対抗し、伊予・讃岐において勢力を拡大しています。

長宗我部元親は、1585年には四国全土をほぼ統一したとされていますが、この説は学者の間でも意見が分かれています。羽柴秀吉は1585年春に、長宗我部元親に伊予・讃岐の返上を要求します。これに対して、長宗我部元親は伊予の割譲で和平を模索しますが、羽柴秀吉がこれを許さず、10万を超える軍勢を四国に派遣。

多方面から攻められた長宗我部軍は次第に劣勢に陥り、7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵されています。以後、長宗我部元親は豊臣政権に加わることになりました。しかし、1586年の九州征伐で、長男:長宗我部信親が戦死したことがきっかけで、以前のような度量を失っていったと言われています。

1588年に本拠地を大高地城(現:高知城)に移転しますが、水はけが悪かったこともあり1591年には桂浜に近い浦戸城を居城にしています。家督ですが、次男・三男でなく、四男の長宗我部盛親を後継者と定めていますが、この時に反対派の家臣を切腹させています。

1599年に三男:津野親忠を幽閉した直後から体調を崩し、5月には重病となり、跡継ぎの長宗我部盛親に遺言を残し、5月19日に61歳で亡くなっています。

長宗我部元親の人柄・人物像

長宗我部元親の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

姫若子から土佐の出来人へ

長宗我部元親は、幼少期は人に会っても挨拶も返事もしないような大人しい性格だったようです。このことから「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれるようになり、父:長宗我部元国親も悩んでいました。しかし、初陣では槍の使い方や大将の行動を家臣から聞き、その通りに行動し、敵を打ち破ったことから「鬼若子(おにわこ)と称されるようになりました。

その後、土佐を統一すると、「土佐の出来人(とさのできびと)」と呼ばれるようになりました。家臣に「なぜ四国の覇者を目指すのか」と聞かれると、長宗我部元親は「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と答えたとされています。

晩年は暗君だった?

長宗我部元親は、織田信長や羽柴秀吉などから領土の割譲要求をされても、一度は拒否するくらの武将として覇気を持っていました。しかし、嫡男:長宗我部信親が戦死後は、その覇気をなくしていきました。

嫡男の跡を追って自害しようとするも家臣に止められたり、自身の後継者問題も末子の長宗我部盛親を後継に据え、反対する家臣を粛清したりするなど、以前の度量を失っているようにも見えます。

「元親記」では武勇に優れ仁慈に厚い名君と評価されていますが、「細川三好君臣阿波軍記」では不仁不義の悪人と評価されており、評価が分かれています。敵であった三好氏の書物から悪い評判が出るのは当然の話ですが、晩年に良いものより悪い評判が多かった可能性は高いように思えます。

長宗我部元親の名言・エピソード

長宗我部元親の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

本能寺の変は、四国攻略が原因か?

長宗我部元親の正室は、斎藤利三の縁者だったことは先程書きました。斎藤利三は後に明智光秀の重臣となりますが、長宗我部元親は正室の縁を辿り、織田信長との関係を構築したと言われています。嫡男の長宗我部元親の烏帽子親を織田信長が受け、「信」の字を与えたことも知られています。

織田信長も当初は「四国は切り取り次第」と長宗我部元親の四国統一を認めていました。つまり、明智光秀が織田家で重用されている間は長宗我部家も織田家と敵対することはなかったという訳です。ところが織田信長は方針を転換し、長宗我部元親と領土の割譲を要求するようになり、両者は敵対関係に陥りました。

これは羽柴秀吉が中国の毛利氏を攻める際に、三好氏を味方にしたかったという思惑があったためだと言われています。毛利氏には村上水軍と言う強力な水軍がおり、水軍を持っていた三好氏を取り込みたかった狙いがあったのかもしれません。三好氏としては失った四国の領土を取り返すために羽柴秀吉と組むメリットはあると言う訳です。

結果的に、織田信長は三好氏を援助し、長宗我部元親と対立することになりました。これにより明智光秀はメンツをつぶされたことにより、本能寺の変を起こしたという説があります。本能寺の変に明智光秀は落ち武者狩りに遭い、斎藤利三も斬首されています。春日局は斎藤利三の娘ですが、縁者であった長宗我部元親が土佐でかくまっていたという説もあります。

妻子に関して

長宗我部元親は正室との間に、四男四女を授かっています。4人の男子の血は途中で絶えています。三女の阿古姫は、大坂の陣で伊達政宗に捕らえられますが、許され伊達家の侍女として仕えています。息子2人も小姓として取り立てられていますが、1671年の伊達騒動で亡くなっています。

また小少将という側室とは一男を、小宰相という側室とは一男一女を授かっています。

フィクションにおける長宗我部元親

フィクションにおける長宗我部元親について、紹介したいと思います。

信長の野望における長宗我部元親

能力値ですが、統率:93、武勇:86、知略:89、政治:86と非常に高いステータスを誇っています。四国で長宗我部元親以上の能力の持ち主は、いないと思われます。

ドラマにおける長宗我部元親

長宗我部元親ですが、ドラマへの登場頻度は低いです。名前が長い上に、全国的な知名度が低いのが原因かもしれません。大河ドラマの主役にしてという声もあるので、是非検討してもらえればと思います。

イマイチ目立たない長宗我部元親

長宗我部元親は、土佐の小勢力から四国統一まで迫りました。ただ、毛利元就も安芸の豪族から中国の大大名、島津氏も薩摩一国から九州制覇へと、近い勢力に似たようにのし上がった大名がいます。長宗我部元親も、ゲームや漫画などで取り上げられることが増えたので、知名度も上がってきたので、もっと取り上げられることを期待しています。