筒井順慶は松永久秀のライバル!明智光秀の洞ケ峠や元の木阿弥の逸話とは

筒井順慶は大和国に生まれ、幼い時からその支配権を巡って松永久秀と争った武将です。明智光秀とは親しい関係にあり、「洞ケ峠」でのエピソードでも知られています。

この記事では筒井順慶の生涯を年表付きでわかりやすく解説します。筒井順慶がどのような人物であったか、どのようなエピソードを残しているのか、ゲームや小説における筒井順慶など、様々な視点から解説していきます。

筒井順慶の基本情報

筒井順慶(つついじゅんけい)は大和国出身で、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。

松永久秀と争う中で織田信長に仕えるようになり、本能寺の変後は死去するまで豊臣秀吉に仕えました。

筒井順慶の人生

できごと

波乱の幼少期

筒井順慶は、1549年、元々は興福寺一乗院に属する有力衆徒であった戦国大名・筒井家に生まれます。しかし、1550年に父・筒井順昭が死去したため、わずか2歳の幼さで家督を継ぐことになりました。

当時の大和国は、筒井家や十市家など「大和四家」と呼ばれた諸将や興福寺勢力の力が強く、守護が存在しない国でした。そこに、1559年、三好家の家臣である松永久秀が侵攻を開始してきます。松永久秀は筒井氏の本拠・筒井城を取り囲むように信貴山城や多聞山城を築城し、筒井氏を牽制しました。

1562年、松永久秀は筒井氏と協力関係にあった十市遠勝と結び、1564年には筒井順慶の後見人を務めていた叔父・筒井順政が死去するなど、筒井家は四面楚歌の苦境に立たされました。

1565年には、松永久秀と三好三人衆が室町幕府将軍・足利義輝を暗殺する永禄の変を起こしますが、後に仲間割れします。筒井順慶は、三好三人衆と同盟を結び松永久秀に攻撃を仕掛けますが、逆に奇襲をかけられて敗北します。この時、松永久秀の戦いぶりを見た高田当次郎ら多くの国人衆が筒井順慶を見限り離れてしまいます。

この戦いで筒井城は陥落し、筒井順慶は布施城へと落ち延びていきました。

松永久秀との戦い

落ち延びた筒井順慶は、その後も三好三人衆との協力を続け松永久秀への反撃の準備を進めていました。

1566年、松永久秀が三好三人衆の本拠地・堺へと出兵し手薄になっていた所を突いて筒井城への攻撃を開始、ついに筒井城奪還を成功させ、和睦を結びます。しかし、以降も松永久秀との対立は収まらず、翌1567年には東大寺大仏殿を要塞化して松永軍への備えとします。

そこに松永久秀が攻め込み、東大寺大仏殿の戦いとなります。この戦いは約半年間続き、奮闘するものの筒井順慶が破れ、終いには東大寺大仏殿が再び要塞として使用されないよう、松永軍によって焼き払われてしまいました。

1568年、勢力を拡大させていた織田信長が1568年に足利義昭を擁立して上洛を果たし、これに反抗した三好三人衆は畿内から駆逐されます。これをチャンスとみた松永久秀は織田信長に接近し、足利義昭の直臣となります。

こうして織田信長の援助を受けた大軍が再び筒井城を侵攻し、筒井順慶は福住中定城へと敗走させられました。

織田信長の臣下として活躍する

1571年に筒井順慶が辰市城の戦いを起こして松永久秀を破ると、戦後、佐久間信盛・明智光秀の仲介で両者が和睦します。そして、筒井順慶は明智光秀の斡旋で、松永久秀も佐久間信盛の斡旋で織田信長の臣下に降ります。

筒井順慶は織田信長の元、1575年に長篠の戦い・越前一向一揆攻略と参陣し、武功を挙げていきます。1576年にはこれらの功績によって大和国支配を任され(正式な大和国守護就任は1580年)、明智光秀の与力となります。

1577年、かつての宿敵・松永久秀が織田信長に対して反旗を翻し、信貴山城の戦いとなります。松永久秀の裏切りは、1572年から発生しており、これが3度目となっていました。

織田軍は約4万もの大軍でこれを攻めますが、筒井順慶はその先鋒を務め、総大将・織田信忠の許可を取り自ら前線に立って攻撃をしかけました。また、松永久秀から信頼されていた森好久という人物を調略することにも成功しています。結果、松永久秀は敗北し自害しました。

松永久秀を討ち取った後も、織田信長の命を受けて1578年に播磨攻め、神吉城の戦い、1579年に有岡城の戦い、1581年に天正伊賀の乱と連戦して活躍しました。

しかし、1582年5月31日、盟友である明智光秀が本能寺の変を起こし、織田信長が自害に追い込まれます。

本能寺の変とその後

明智光秀は、親しい関係にあった筒井順慶に対し協力を要請します。筒井順慶は、当初はわずかばかりの援軍を明智光秀の元に送って布陣しますが、その後は郡山城に篭城して動かず、6月10日には羽柴秀吉への恭順を示す誓文を送っています。明智光秀からは、重臣・藤田伝五が派遣されて改めて協力が要請されますが、これを追い返して拒否、さらに筒井順慶が郡山城で切腹したという風聞を流します。

明智光秀は山崎の戦いで戦死し、その後筒井順慶は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に謁見します。筒井順慶は息子・筒井定次を人質として差し出し、羽柴秀吉に臣従しました。

1584年に入ると病に臥せるようになりますが、羽柴秀吉と徳川家康の間に小牧長久手の戦いが起こると、羽柴軍として参陣するよう命じられます。病気をおして伊勢・美濃と転戦した後、大和国に戻った筒井順慶は、程なくして病死しました。36歳でした。

筒井順慶の人柄・人物像

筒井順慶の人柄や人物像について説明します。

日和見主義者としての評価

本能寺の変の後明智光秀から協力を要請された筒井順慶は、明智光秀と羽柴秀吉のどちらに付くべきかを判断するために、洞ケ峠に布陣して羽柴軍と明智軍の戦いを傍観して動かなかったことから、「洞ケ峠の日和見」という言葉が生まれました。

そして筒井順慶は恩人である明智光秀を裏切ったばかりか、のらりくらりと返事をせずに明智光秀を困惑させた、優柔不断な日和見主義者であるという評価がされるようになりました。

しかし、実際に洞ケ峠に布陣したのは筒井順慶からの返答を待つ明智光秀であり、さらに近年の研究ではこの布陣は筒井順慶を待っていたからではなく、彼を牽制・威嚇するのが目的であったとも考えられています。

後世、いつのまにか洞ケ峠に居たのが明智光秀から筒井順慶であると入れ替わって伝わり、筒井順慶=日和見主義者というイメージが着いてしまいました。

僧侶出身の信仰心と教養人としての一面

僧侶出身であった筒井順慶は、1566年に筒井城の奪還を成功させてすぐに春日大社にお礼詣りに行っており、その時に得度して「順慶」と改名しています。また、1577年の信貴山城の戦いで宿敵・松永久秀を討ち取った後、その遺骸を達磨寺において手厚く葬ったというエピソードもあります。

大和国の寺院を手厚く保護してその領地も安堵しており、その信仰心の高さが伺えます。

また茶湯・謡曲・歌道などでも優れた才能を発揮した教養人であり、武辺者が多かった織田家臣団の中で明智光秀と親しくなったのも、両者ともに教養高く文化人としての側面があったために気が合ったからであると言われています。

筒井順慶の名言・エピソード

筒井順慶に名言やエピソードについて解説します。

「元の木阿弥」の語源

「一時良い状態になったものが、再び元の状態に戻ってしまうこと」を意味する「元の木阿弥」という言葉は、幼き日の筒井順慶に起こった以下のような出来事が語源とされています。

父・筒井順昭が死去した時、松永久秀はじめ周辺の諸侯に攻め入られぬよう、その死は隠蔽され、家臣達は声が似ている盲目の人物・木阿弥を代役として据えます。やがて筒井順慶が成長すると木阿弥の役目は終わり、筒井順昭の死も公表されました。

代役を務めている間の木阿弥は城内で贅沢な暮らしをしていましたが、その後は元の質素な暮らしに戻ってしまったそうです。

大和国での評判

東大寺の戦いの際には、筒井順慶は興福寺を通して東大寺への布陣の許可を申請していますが、寺側も積極的にこれを許容しています。それは、筒井順慶が元々興福寺党であったこともありますが、これまで松永久秀が寺の許可を得ずに布陣していたことや、彼により多くの寺領が侵攻されていたことなどから、大きな不満が蓄積していたからだと言われています。

この戦いについて、『多聞院日記』では「大天魔の所為と見たり」「(松永軍が大仏殿などを焼失させたことについて)言語道断」と書き残しており、大和国の人々、特に寺社勢力が松永久秀を大いに憎んでいたことが分かります。

そんな松永久秀と対局の関係にあり、僧侶出身でもある筒井順慶は、大和国の人々から大いに歓迎され、地元民からも高く評価されました。

1571年に筒井順慶が松永久秀への対抗として辰市城(現在城跡が幼稚園となっている)を築城した際、1・2ヶ月という速さでこれを完成させていますが、これを実現させたのは筒井順慶を支持する地元の人々からの大いなる経済的支援と工事への協力であったと考えられています。

1580年に正式に守護職に就任すると、筒井城から郡山城へと移った筒井順慶は、織田信長の指示のもと大和国一帯の検地を行なって石高の正確な把握にも努めています。

山崎の戦いの後羽柴秀吉からその遅い参陣を叱責されて筒井順慶が体調を崩すと、その話が大和国に広がって人々がその行く末を案じて焦燥したと言われています。1584年に筒井順慶が病に倒れた際には、『多聞院日記』に「為順慶祈祷」の記載が至る所に見られるように、大和国の多くの寺社で病気回復の祈願が繰り返し行われたことが分かります。

フィクションにおける筒井順慶

フィクションにおける筒井順慶を解説します。

信長の野望における筒井順慶

シリーズによっても異なりますが、筒井順慶のステータスは統率51、武勇48、知略77、政治81となっています。統率や武勇はあまり高くありませんが、大和国の善良な統治者としての実績からか、政治は81と高数値となっています。

小説における筒井順慶

「SF御三家」と称される筒井康隆氏によって執筆された『筒井順慶』は、著者が筒井氏の子孫であるという設定で現代視点から描かれた歴史ミステリー風SF小説・漫画であり、最期に筒井順慶が現代社会に登場する作品となっています。

筒井順慶は幼い頃から戦に追われながら家を守った武将だった

筒井順慶はわずか2歳で家督を継いでからというものの、宿敵・松永久秀と長きに渡って連戦し大和国の支配権を争い、織田信長の臣下に入ってからも各地を連戦し続け、最期も病気の身体を引きずって戦いに参陣するなど、休む暇なく戦いに明け暮れた人生を送りました。

そんな中、武勇と共に僧侶出身の信仰心と教養を兼ね備え、大和国の人々からも歓迎された筒井順慶は、激動の時代において風前の灯にあった筒井家を守りぬいた名将であると言え、後世本能寺の変での洞ケ峠でのエピソードにより定着してしまった日和見主義者という評価は、彼にとってあまりふさわしいものであるとは言えないかもしれません。