妻木煕子は明智光秀を支え続けた女性!疱瘡にかかっていた?妻木煕子の父とは?

妻木煕子は織田家に仕えた武将である明智光秀の妻で、光秀の浪人時代から苦楽を共にし、生涯に渡って夫を支え続けた人物です。

この記事では妻木煕子の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。妻木煕子がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ドラマなどフィクションの世界での妻木煕子など、様々な視点から解説していきます。

妻木煕子(つまきひろこ)の基本情報

妻木煕子(つまきひろこ)は、美濃国出身の戦国時代を生きた女性です。

 

明智光秀の妻となって浪人時代の苦楽からを共にし、織田家に仕えた後の光秀の活躍を影から支え続けた人物です。光秀との強い絆はその生涯に渡って決して揺らぐことはありませんでした。

妻木煕子の人生

できごと

生誕〜明智光秀との出会い

妻木煕子は美濃国の妻木氏の娘として誕生しますが、後世に伝わる史料は少なく、生年は1530年(亭禄3年)または1534年(天文3年)頃と言われています。また、妻木煕子は妻木氏の娘とされていますが、父となる人物情報も乏しく、妻木範煕あるいは妻木広忠が父親であると残されています。生家である妻木氏も明智氏と同様に美濃国の守護を務めていた土岐氏一族にルーツを持った家柄で、父とされる妻木広忠は後に明智光秀の家臣としても活躍しています。

妻木煕子は1540〜50年頃に明智光秀に嫁いだとされています。しかし、1556年には当時明智光秀が仕えていた斎藤道三と息子である斎藤義龍との間に争いが起き(長良川の戦い)、斎藤義龍に明智城を攻められた明智家は一族離散となってしまいます。妻木煕子と夫光秀は命からがら逃げ延びますが、領地を失い浪人の身となってしまいました。

苦難の浪人生活〜光秀の出世

領地を失い浪人の身となった明智光秀夫婦はその後越前国へと逃れ、貧しい生活を送りながらも子を産み、仲睦まじく暮らしていました。光秀は称念寺門前で寺子屋を開いたり、武士と兼業で医者をやったりすることで家計を支えたという逸話も残っています。このように武士として不遇の時代を過ごした明智夫婦ですが、その後明智光秀は越前国の朝倉家への仕官が叶うことになり、10年ほど朝倉家に仕えることになりました。その間に3男4女の子宝にも恵まれ、1563年には後の細川ガラシャとなる珠も生まれています。

その後さらに転機となったのは1568年、のちの将軍である足利義昭が自身の将軍擁立を促すために各地の武将に上洛を持ちかけようと朝倉義景にも頼ることになりました。そこで光秀と義昭は接触を持つようになり、光秀は動かない義景の代わりに織田信長を推薦することになります。そこからの光秀は、義昭と信長の関係を取り持つ形で両属の家臣となり大躍進していきます。

織田家の出世頭となった光秀を支え続ける

その後の光秀は織田信長の直臣となり、1570年の金ヶ崎の戦いの活躍を皮切りに1571年には比叡山焼き討ちの実行部隊として武功を上げ、近江国が与えられる大出世を遂げます。1573年には居城となる坂本城が完成し、その後内政などでも活躍した光秀は1575年には惟任の賜姓と従五位下日向守に任ぜられました。

1575年以降も各合戦で活躍を見せた光秀でしたが、1576年4月に天王寺の戦いで苦戦を強いられ、同5月には過労のため重病にかかってしまいます。一時は危篤寸前までいった光秀を妻である妻木煕子は寝る間も惜しんで看病し続け、祈祷などあらゆる手を使って夫の回復に務めました。その甲斐もあってか光秀は何とか一命を取りとめ回復することになります。

しかし、同年10月に明智夫婦に更なる困難が降りかかります。夫の回復のために必死に看病し続けた妻木煕子自身が今度は病にかかってしまいます。光秀は同じく看病に努め祈祷などあらゆる手を尽くした結果、一時は回復の兆しを見せましたが、同年11月に妻木煕子は帰らぬ人となってしまいました。享年42〜46歳と言われています。光秀への必死の看病が元で病にかかり死去したとされています。

妻木煕子の人柄・人物像

妻木煕子の人柄や人物像について解説していきます。

天下一の美女

妻木煕子は容姿端麗のとても美しい女性と伝わっており、「天下一の美女」と名高い妻木煕子を一目見ようと、かの織田信長さえも興味を持ったという逸話が残っています。

信長はある夜に近習と雑談していたところ、明智の妻が絶世の美人だという噂を聞きつけ、その真偽を確かめたくなった信長は妻木煕子を呼び出し、背後から抱きつこうとしたところ、妻木煕子が撃退してしまったというものです。その他にも娘である細川ガラシャ(明智珠)も戦国一の美女と名高い人物とされており、彼女の美人顔は母である妻木煕子譲りであったことが伺えます。

夫思いの良妻賢母

妻木煕子と明智光秀の夫婦仲はとても良好で、生涯に渡って夫を支えた良妻として有名です。

美濃を追われた後は浪人という武家としては非常に厳しい状況の立場に置かれながらも、三男四女の子を設け、夫を想い敬うことを決して忘れなかったと言われます。また光秀が織田家の家臣となり大出世を遂げ5万石の領主となった後は約1,000名を超す家臣団を裏方から支え、終生に渡って光秀の良き妻として尽くしたとされています。光秀が重病に犯されてしまった時には、昼夜問わず付きっきりで看病を行いました。その献身ぶりは回復した光秀がすぐに前線に復帰できたと言われた程です。

妻木煕子の名言・エピソード

妻木煕子の名言やエピソードについて解説していきます。

夫のために髪を売る

光秀と結婚後、長良川の戦いで美濃を追われた明智夫婦は越前国に逃亡し浪人となり、非常に貧しい暮らしを送ったとされています。

その後朝倉義景に仕えた光秀でしたが、相変わらず家計は苦しい状態が続き、そんな最中に連歌会の催しを光秀が担当することになります。酒宴の用意などに費用が入り用となって困り果てていた光秀ですが、それを見かねた妻木煕子が自身の美人と誉れ高い黒髮を切って、それを売ることで費用を工面したと伝わっています。

夫の必死の出世のために自らの髪をも厭わない姿勢は妻の鏡とされ、後にその出来事は「月さびよ、明智が妻の、咄せん」として松尾芭蕉が句として詠んでいることでも知られています。本能寺の変で光秀が逆賊扱いをされるようになっても、この逸話は良妻賢母の証として後世に受け継がれていきました。

結婚直前に疱瘡にかかる

妻木煕子は明智光秀と縁談が決まった後の嫁ぐまでの間に疱瘡にかかってしまい、この疱瘡により顔の左頬に大きな痘痕が残ってしまうという不幸に襲われます。

妻木煕子の父は光秀に申し訳が立たないということで、妻木煕子のよく似た妹の芳子を代わりに妻に当てがおうとしますが、それを知った光秀は頑なに断り、疱瘡の痕など全く気にする素振りもなく、妻木煕子を妻に娶りたいと申し出ました。光秀は外見に捉われることなく、妻木煕子の内面を見て魅力に感じていたと言われています。それを伝え聞いた妻木煕子は心底感動し、光秀に尽くし続けることを誓ったと伝わっています。

そんなピンチを乗り越えた二人だからこそ、絆を深め生涯に渡ってお互いを支え合うことが出来たのではないでしょうか。

フィクションにおける妻木煕子

フィクションにおける妻木煕子を解説していきます。

信長の野望における妻木煕子

信長の野望の一部シリーズで妻木煕子が武将として登場しています。能力値は統率57,武勇39,知略73,政治78と、光秀を支えた賢妻としての能力が評価されています。

ドラマにおける妻木煕子

妻木煕子は戦国時代をテーマとしてテレビドラマでも数々の作品に登場しています。近年のドラマでは2007年の「明智光秀〜神に愛されなかった男」では女優の長澤まさみさんが演じられ、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀を主人公としたドラマとなっており、妻の妻木煕子も登場シーンが多く見所のある作品となっています。女優は木村文乃さんが演じられており、二人の馴れ初めから婚姻後の夫を支える賢妻ぶりなど妻木煕子の魅力を存分に味わえるドラマとなっています。

妻木煕子は光秀を愛し、愛されながら支え続けた良妻

妻木煕子は明智光秀という後世に名を残した名将を妻として影から支え、生涯に渡って尽くし続けた女性でした。光秀も妻木煕子と婚姻後は側室を持たなかったとされており、二人がいかに仲の良いおしどり夫婦であったことが垣間見れます。

激動の戦国乱世であっても夫婦の絆を大事にしたその人物像は、後世に渡るまで人々の心に残り、愛し敬われていきました。