津軽為信は津軽地方を統一し、弘前藩の初代藩主となった人物です。陸奥国で大きな勢力を持っていた南部氏の家臣という身分から、巧みな戦略で勢力を付けていき大名へと成長していきました。
この記事では津軽為信の生涯を年表付きで分りやすく解説します。津軽為信がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける津軽為信など、様々な視点から解説していきます。
津軽為信の基本情報
本名 | 津軽為信(つがるためのぶ)別名:扇(幼名)、大浦弥四郎、大浦為信 |
生涯 | 天文19年(1550)~慶長12年(1608) |
時代 | 戦国時代~安土桃山時代~江戸時代 |
出身国 | 陸奥国 |
居城 | 大浦城→堀越城 |
主君 | 徳川家康→徳川秀忠 |
官位 | 従五位下右京亮、従四位下右京大夫 |
妻(正室) | 阿房良、栄源院 |
子 | 津軽信建、津軽信堅、津軽信枚、冨、兼子盛久室 |
津軽為信(つがるためのぶ)は戦国時代~安土桃山時代~江戸時代に生きた武将です。
現在の青森県西部に当たる津軽地方を支配した弘前藩の初代藩主です。
津軽為信の人生(年表付き)
年 | できごと |
---|---|
1550年 | 誕生 |
1567年 | 叔父・大浦為則の養子となり、大浦城主となる |
1571年 | 石川城主・石川高信を攻撃し自害に追い込む |
1578年 | 浪岡城主・北畠顕村を倒す |
1579年 | 六羽川の戦いに勝利する |
1588年 | 津軽地方の統一をほぼ完成させる |
1590年 | 小田原征伐に参加し、秀吉に謁見する |
1592年 | 朝鮮出兵中の秀吉へ陣中見舞いの軍を派遣する |
1594年 | 居城を大浦城から堀越城へ移す |
1600年 | 関ヶ原の戦いに東軍として参戦 |
1607年 | 京都にて死去 |
南部氏の一被官から津軽地方を治める大勢力に
津軽為信は天文19年(1550)に生まれます。出自については様々な説がありますが、陸奥国大浦城主であった大浦守信の子であるとか、陸奥国で古くから勢力を持っていた南部氏の支族である、久慈氏の出であるなどと言われています。永禄10年(1567)に叔父・大浦為則の養子となり大浦城主となります。元亀2年(1571)に石川城主の石川高信を攻撃し自害に追い込みます。石川高信は、南部宗家の家臣であり、石川城にて津軽地方の政治を任されていた人物でした。天正4年(1576)には同じく南部氏の家臣滝本重行が城代を務めていた大光寺城を落とし、天正6年(1578)には津軽地方の別勢力であった浪岡城・北畠顕村を倒します。
こうして敗れた勢力の諸将の多くは出羽国の安東氏のもとへ逃れます。津軽為信は安東氏との関係が悪化していき、天正7年(1579)に六羽川の戦いで両勢力が激突します。津軽為信方は一度は窮地に追い込まれ、為信本陣にいた旗本も多く討死します。その時、本陣にいた田中太郎五郎という人物が為信の身代わりとなって突撃、安東方は為信を討ち取ったと思い込み油断します。その隙をついて今度は為信方が反撃を開始し形勢を逆転させ、最終的に安東方を敗走させます。
その後、天正13年(1585)に油川城・田舎館城・横内城、天正16年(1588)に飯詰高楯城、というように津軽地方における南部氏配下の諸城を攻略し、津軽地方の統一をほぼ完成させます。
豊臣秀吉に津軽地方の領有を認められる
この当時、中央では豊臣秀吉が全国統一を進めている最中でした。津軽為信は津軽地方の統一のための戦をしながら、何度か豊臣政権への接近を試みていましたが、周辺勢力の妨害に遭っていずれも失敗に終わっていました。天正17年(1589)に家臣・八木橋備中を上洛、豊臣秀吉に謁見させ、名馬と鷹を献上します。天正18年(1590)の小田原征伐では、津軽為信自身が家臣18騎を連れて秀吉に謁見します。天正19年、豊臣秀吉から津軽為信に宛てられた朱印状の宛名が、それまでの「南部右京亮」から「津軽右京亮」に切り替えられたことから独立大名として公認されたとみられます。
文禄元年(1592)、朝鮮出兵のため肥前名護屋に在陣していた秀吉のもとへ陣中見舞いの軍勢を派遣し、翌年に上洛した際に正式に津軽4万石の安堵状を得ました。これにより津軽為信は正式に津軽地方を治める大名として認められることとなりました。また同じころに近衛家に接近して藤原姓を授かったり、情報収集及び藩財政発展の基地として京都・駿府・大坂・敦賀に屋敷を設けるなどをします。
弘前藩の礎を築く
慶長5年(1600)1月に右京太夫に任官されます。そして同年の関ヶ原の戦いでは、三男・信枚とともに東軍として参加します。一方で、嫡男・信建は大坂城の豊臣秀頼に小姓として仕えており、西軍につきます。この行動は真田家や九鬼家などと同様に、家中を二分することにより生き残りを図ったものと考えられます。関ヶ原の戦いの功により上野国大館2000石の加増を受けます。慶長8(1603)年に高岡(鷹岡)に新城を着工します。これが後に弘前城と改名します。(城の建設はなかなか進まず、完成は為信の死後1611年でした。)
慶長12年(1607)、京にて病に伏せていた嫡男・信建を見舞うために上洛をしますが、到着前の10月に信建は死去。為信自身も12月に京都で死去しました。
津軽為信の人柄・人物像
津軽為信の人柄や人物像についてまとめます。
当時から現在に至るまで続く高い評価
南部氏の一被官にすぎなかった立場から津軽地方一円を治める大名に成り上がったその手腕は、当時から『津軽一統志』などの記録の中で高く評価されています。現在も弘前城近くに銅像が建立されていたり、岩手県久慈市の「久慈秋祭り」で津軽為信を題材とする山車が出るなど、多くの人々に親しまれています。
藤原姓を買った?
津軽為信の先祖である大浦氏は近衛氏の落胤であるという伝承が存在していました。上洛した際為信は、元関白・近衛前久に金品や米を送ったうえで接近します。当時の公家は窮乏していたこともあり、その主張を受け入れて津軽為信は藤原姓を貰い受けました。
津軽為信の名言・エピソード
津軽為信の名言・エピソードについて解説します。
石田三成との関係
津軽為信は天正17年(1589)に家臣・八木橋備中を上洛、豊臣秀吉に謁見させた際、津軽地方の所領の安堵を受けます。これには石田三成による斡旋があったともいわれています。
その後の関ヶ原の戦いでは、津軽為信は東軍・徳川家康方につきましたが、長男は大坂城で豊臣秀頼に仕えており、西軍・石田三成方につきます。その時に共に豊臣秀頼に仕えていたのが石田三成の子・石田重成でした。関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、石田三成の居城である佐和山城が落ちたことが伝わると、石田重成は津軽信建の助けで津軽に逃れました。津軽為信は石田重成を保護し、家人として召し抱えたともいわれます。石田重成の子孫は杉山という姓に改姓し、弘前藩の家臣として存続していくことになります。
徳川家にとって宿敵の一族の者をわざわざ迎え入れたことには、かつて受けた恩に報いる気持ちがあったのかもしれません。
名城・弘前城を築く
江戸時代に入り弘前藩が成立すると、為信は当時鷹岡と呼ばれていた地域に築城を開始します。これが後の弘前城となります。為信はその完成を見ずに1608年に死去し、1611年に城は完成します。弘前城はその後、津軽地方の政治経済の中心地になります。そして現在に至るまで堀・石垣・土塁・など城郭の全容が原形をとどめており、現存12天守のひとつにも数えられています。
フィクションにおける津軽為信
フィクションにおける津軽為信を解説します。
信長の野望における津軽為信
シリーズによっても異なりますが、統率82、武勇72、知略95、政治93と、全体的に高い水準となっています。津軽地方を統一した実力が評価されてのものといえるでしょう。
ドラマにおける津軽為信
今のところ東北地方の戦国武将でドラマで取り上げられた例は、伊達正宗以外あまり見られません。織田、豊臣などの中央の争いから離れているため、登場機会がなかなかないようです。
津軽為信は強さと優しさの両方を持った人物だった!
津軽為信は周辺勢力を次々と制圧していき津軽地方を統一しました。その手腕もさることながら石田三成の子孫を自らの配下に受け入れるなどの懐の深さも併せ持っていました。こうした強さと優しさを併せ持った人物だったからこそ当時から現在に至るまで多くの人々に愛されてるのではないでしょうか。