鳥居強右衛門は忠義に厚い真の武士!身を呈して磔にあった最期や立派な墓とは?

鳥居強右衛門は戦国時代に奥平氏に使えた足軽です。歴史の表舞台に登場する機会は僅かではありましたが、命を懸けて主君と民を守った姿は武士の鏡として後世におけるまで語り続けられた人物です。

この記事では鳥居強右衛門の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。鳥居強右衛門がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ドラマやゲームなどフィクションにおける鳥居強右衛門など、様々な視点から解説していきます。

鳥居強右衛門の基本情報

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、三河国出身の戦国時代を生きた足軽です。

鳥居強右衛門は36歳という若さでその人生に幕を下ろしますが、彼の生き様は織田信長や徳川家康さえも感嘆させ、後の後世においても語り続けられたという太くて短い人生を全うした人物でした。

鳥居強右衛門の人生

できごと

生誕〜奥平氏に仕える

鳥居強右衛門(別名:鳥居勝商)は天文9年(1540年)に三河国に生まれ、当時奥三河一帯を治めていた奥平氏に仕えた人物です。奥平氏の家臣と記録されていますが、実際は直臣ではなく、陪臣という家臣のさらに下の家臣を指す又家来という身分の足軽であったと伝えられています。

鳥居強右衛門の生涯として残されている記録はほとんどなく、彼が歴史の表舞台に登場したのは有名となった1575年の長篠の戦いのみとなります。その生涯のほとんどは謎に包まれた人物でもあります。

鳥居強右衛門が仕えていた奥平氏は奥三河の国衆であり、近隣には有力大名が名を連ねていたこともあって、今川家や武田家、徳川家など様々な大名の味方については離れるといったことを繰り返していました。1560年の桶狭間の戦い以前は今川家に仕える立場でしたが、桶狭間の戦いで今川家が弱体化すると徳川家康に仕えることになります。

また甲斐の武田信玄の西上作戦に伴う侵攻を受けて武田家の配下にも降りますが、1573年の武田信玄死去に伴い、今後は徳川家より縁組の話をもらい、奥平貞昌と徳川家康の娘亀姫を婚姻させることにより再度徳川方につきました。

長篠の戦いで歴史の表舞台へ

徳川家と縁組をした後に奥平貞昌は三河国にある長篠城の守備を任されることになります。

そして奥平氏の寝返りを知った武田勝頼は激怒し、天正3年(1575年)の5月に長篠城に向けて1万5,000もの兵を率いて侵攻し長篠城一体を包囲します。奥平氏は約500の兵で長篠城を守備していましたが、武田軍が放った火矢が兵糧を蓄えていた倉庫に引火し、籠城に必要な食料を失ってしまいます。

当初は長期の籠城戦で援軍を待つ考えであった城内は一気に絶体絶命のピンチに追いやられます。このままでは数日後には落城してしまうという中で、最後の手段として奥平貞昌は徳川家康のいる岡崎城に援軍要請を出すことを決断します。しかし、城の周りは全て武田軍に取り囲まれており、援軍要請を出すにも非常に困難な状況に陥っていました。そんな状況下でこの大事な役目を請け負ったのが鳥居強右衛門でした。

鳥居強右衛門は14日の夜に城の周囲を流れている谷川から脱出することを試み、城の下水口から武田軍の包囲網を無事切り抜けます。15日の朝には城内に無事を伝えるために狼煙を上げて、15日中に岡崎城へ辿り着き、織田・徳川連合軍へ援軍要請を行うことに成功します。

また既に織田・徳川連合軍が長篠城への援軍を翌日にも出立する手筈を整えていたこともあり、鳥居強右衛門は朗報を知らせるために急ぎ長篠城へ引き返します。

しかし、16日の朝に城内に向けて上げた狼煙をきっかけに武田軍に見つかってしまい、鳥居強右衛門は捕縛されてしまいます。援軍が向かっていることを知った武田勝頼は城内にその情報が伝わり籠城戦が長引くことを危惧して、急ぎ長篠城を落とす必要があると判断しました。そして鳥居強右衛門に命を助ける代わりに城内に向かって援軍が来ないため、城を明け渡す旨の嘘の情報を伝えろと命令します。鳥居強右衛門は一旦は勝頼の命令に従う素振りを見せて、城に情報を伝えやすい見晴らし場所へと引き立てられます。

しかし、当初より自分の身を持って城内を守るべく決心をしていた鳥居強右衛門は、見晴らし場所から援軍がもう間も無く到着すること、それまで耐え忍ぶことを城内に向かって叫び、味方の士気を鼓舞しました。

これを受けた奥平貞昌を始めとする場内は歓声に湧き、援軍が到着するまでの間を凌ぐことに成功します。

味方を守るため、勇敢な最期を遂げる

決死の覚悟で味方を守った鳥居強右衛門は、怒りを露わにした勝頼によって、その場で磔の刑にされ殺されてしまいます。享年36歳の若さで大勢の命を守るために勇敢な最期を遂げました。

鳥居強右衛門の命を懸けた行動によって長篠城が守られたことを知った織田信長や徳川家康はその行動に感銘を受け、その死に報いるために新昌寺に立派な墓を建立しました。

その後奥平家はこの戦果を評価され、後々に渡って徳川家から好待遇を受けて長きに渡って存続しました。また、奥平貞昌は信長からも賞賛を受け「信」の字を与えられ「信昌」に改名したとも言われています。

鳥居強右衛門の人柄・人物像

鳥居強右衛門の人柄や人物像について解説していきます。

忠義心に厚い真の武士

鳥居強右衛門は上述の通り、味方の絶体絶命のピンチを守るために困難な作戦に自ら進み出て、命を投げ打ち多くの命を救った非常に勇敢な人物でした。

また足軽という低い身分で奥平氏の直臣ではなかったともされている中で、これだけの行動を起こせることにとても忠義心にも厚かった人物であったことが垣間見得ます。また敵軍である武田軍の中にも鳥居強右衛門の行動に感銘を受けて助命を求める家臣もいたと伝えられるなど、敵の心さえも動かした人間的魅力も備えた人物だったのではないでしょうか。

体力抜群、現代のトライアスロン選手

鳥居強右衛門はその忠義の心と勇敢さは元より、この長篠での作戦を成し遂げたということから大変体力のあった人物であったことが分かります。

まずは長篠城の周囲を流れている谷川を抜けるために14日の夜に城内の下水口から泳ぎだし、武田軍が川に仕掛けた鳴子網をかいくぐって約4kmに渡って泳いだと言われています。

その後は徳川家康のいる岡崎城まで約60km以上という道のりを走りきり、翌日15日の午後には到着したという言います。また帰りも同じくこの距離を走りきり16日朝までに長篠城まで帰還しているので往復で130km超の距離を走りきったことになります。当時36歳という年齢と戦で疲弊した身体を考えても驚異的なスピードと体力の持ち主だったということが分かります。

鳥居強右衛門の名言・エピソード

鳥居強右衛門の名言やエピソードについて解説していきます。

辞世の句

鳥居強右衛門には最後に残したと言われる辞世の句が伝わっています。

「わが君の命に代わる玉の緒を、何いといけん武士の道」

意味は「主君のために命を捨てることは、武士として本望だ」という意味になります。この句は長篠城を脱出する際に残した句と伝えられているため、当初より自らの命を投げ打ってでも家中を助ける覚悟で臨んでいたことが良く分かります。

鳥居強右衛門は実際は足軽という下級武士に当たりながらも、忠義という武士の心得を誰よりも重んじていた人物でした。

後世に遺したその魂

鳥居強右衛門の死を惜しんだ信長は立派な墓を建立し、主君であった奥平家は徳川家に重宝されることとなりました。

また残された鳥居強右衛門の子孫たちは奥平家より手厚い待遇を受けることになり、息子の鳥居信商は100石を与えられ後の関ヶ原の戦いにも従軍し、西軍の安国寺恵瓊を捕縛するという手柄も立てています。また強右衛門の名は通称として後の鳥居家代々まで受け継がれることになり、その家系は現在においても存続しています。

鳥居強右衛門が命を懸けて成し遂げた行為は、後世に渡るまで広く残ることになりました。太平洋戦争時には鳥居強右衛門の忠義の心は「戦陣訓」としても受け継がれており、またJR飯田線の鳥居駅は彼の最期の地にちなんで命名されています。

フィクションにおける鳥居強右衛門

フィクションにおける鳥居強右衛門を解説していきます。

小説における鳥居強右衛門

作家である池波正太郎さんの著書でタイトル「炎の武士」という鳥居強右衛門を題材にした小説が刊行されています。

その他にも金子拓さん著書の「鳥居強右衛門:語り継がれる武士の魂」という単行本もあり、鳥居強右衛門の詳細がより分かる本となっています。

鳥居強右衛門は武士の魂を持った日本一有名な足軽

鳥居強右衛門が日本史上に登場する機会は長篠の戦いの一回だけですが、その厚い忠義心と勇猛果敢な生き様は敵味方を問わず多くの人々の心を打ち、後々の後世に至るまで評価されることにとなりました。

その人生は36歳という短さで閉じてしまいますが、太く短くというまさに武士の信念を生き抜いた勇気ある人物でした。