鳥居元忠は「三河武士の鑑」と称された人物!家康との関係や伏見城での最期とは?

鳥居元忠は徳川家康に仕えた武将で、家康が幼い頃からの側近として数々の戦いに従軍し活躍した徳川家臣団の中でも最古参にあたる人物です。

この記事では鳥居元忠の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。鳥居元忠がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、フィクションにおける鳥居元忠など、様々な視点から解説していきます。

鳥居元忠(とりいもとただ)の基本情報

鳥居元忠(とりいもとただ)は、三河国出身の戦国時代〜安土桃山時代を生きた武将です。

徳川家康が人質時代の頃より仕えた最古参の武将にあたり、忠義に厚い人柄は「三河武士の鑑」として称された人物です。

鳥居元忠の人生

できごと

生誕〜家康の側近として活躍

鳥居元忠は松平家に仕える鳥居忠吉の三男として生まれました。父の忠吉は岡崎奉行などを務める重臣で、鳥居元忠は13歳という若い頃から松平家に奉公に出されており、まだ幼かった徳川家康が今川家に人質として送られた際も帯同しています。1555年には家康と同じくして元服を済ませ、1558年には家康と寺部城の戦いで初陣を飾りました。

1547年には長兄の鳥居忠宗が戦死し、次男も既に出家していたため、1572年の父忠吉の死去に伴い、鳥居家の家督を継ぐことになります。また家康の信頼が厚かった鳥居元忠は、1566年には「一手役」という戦場で先頭を切って戦いに参加する役目を担い、弟の鳥居忠広と共に「三河武士」と呼ばれて1570年の姉川の戦いや1572年の三方ヶ原の戦いなどに参戦し活躍しました。

徳川家重臣として各合戦で活躍

1572年、西上作戦で上洛を狙う甲斐の武田信玄が徳川家に侵攻する三方ヶ原の戦いが発生します。百戦錬磨の武田軍と対峙した徳川軍はその勢いに劣勢を極め、大敗を喫しています。この三方ヶ原の戦いで鳥居元忠は、斥候として敵陣に潜入する作戦を請け負っており、その際に敵の銃弾を足に受けてしまい、後々の歩行障害を追うことになってしまいました。また弟の忠広はこの戦いで徳川軍を退却するための殿を務め、討ち死にしています。

三方ヶ原の戦い以降、足に障害を負いながらも鳥居元忠は家康の厚い信頼は揺るがず、各合戦に参戦していきます。1575年に起きた日本史上初めて大体的な鉄砲隊を持ち込んだ合戦として知られる長篠の戦いでは、石川数正らと共に武田の騎馬軍団に対する馬防柵の設置をするなど活躍しました。

続いて家康と武田勝頼の間で行われた1581年の高天神城の戦いや、本能寺の変後に起きた1582年の天正壬午の乱にも参加し活躍しています。

家康に忠義を尽くした最期

その後時代は豊臣秀吉が天下に台頭する時代へと移り、鳥居元忠は1590年の小田原征伐にも参戦しています。小田原征伐では岩槻城攻めに参加し、戦後に家康が関東へ移封されると、下総国矢作城に4万石を与えられました。

豊臣秀吉が亡くなった後の天下を狙う家康は、1600年に上杉景勝が豊臣方に反逆を企てたとして、のちの関ヶ原の戦いに繋がる会津征伐を主張して各大名を率いて出陣すると、鳥居元忠に伏見城の防御を任せました。

そして、家康が出陣すると共に西軍方である石田三成が挙兵し、大坂城にいた前田玄以や増田長盛らは家康に対して反旗を翻すと、伏見城は関ヶ原の戦いの前哨戦の場として幕を開けることになります。

鳥居元忠は、西軍側の宇喜多秀家や大谷吉継などの大軍を相手に死を覚悟して、松平家忠・内藤家長ら約2300人と共に伏見城に立て籠もりました。強固に防御された伏見城は粘りを見せますが、大軍で押し寄せる西軍側の前についに落城し、追い込まれた鳥居元忠は自刃、他従軍した者も合わせて徳川方の800人が討ち死を遂げました。

しかし、この伏見城の戦いで約半月ほどの粘りを見せた結果、のちの本番となる関ヶ原の戦いへの西軍側の戦力展開を遅らせることに成功し、東軍勝利の大きな礎となりました。最後の最後まで家康に忠義を尽くした鳥居元忠は、享年62歳でその生涯を遂げました。

鳥居元忠の人柄・人物像

鳥居元忠に人柄や人物像について解説していきます。

人を思いやる強く優しい人柄

忠義者として数多くの合戦に参加し武功を挙げた猛将であった鳥居元忠ですが、一方で「じじ」と親しまれる人を思いやる優しい人柄の持ち主でもありました。

1580年の高天神城の戦いでは、鳥居元忠が率いる前線部隊に兵糧が届かずに餓死寸前の窮地に陥っていたいました。そこに一人の兵が近くの民家から飯をもらい鳥居元忠に差し出したところ、「お前たちこそ飯を食べたのか。一緒に苦労してこそ武功をあげられると思っている。共に餓死する覚悟だ」と語りました。これにより味方兵は感激して士気が上がり、のちの戦いで勝利を収めたと言われています。

家康の信頼厚き男

徳川家の家臣団は三備の軍制と呼ばれる体制を敷いており、家康の下に酒井忠次が取りまとめる東三河衆、石川数正が取りまとめる西三河衆、そして本多忠勝や榊原康政ら旗本先手衆と呼ばれる三つの組織に別れています。鳥居元忠はその中でも旗本先手衆に属していました。また家康直属の部隊である旗本先手衆の中でも、家康を護衛する馬廻り衆と旗本部隊の将として戦う旗本先手役があり、鳥居元忠は旗本先手役として絶大な信頼を寄せられ、数々の戦で先陣を任された人物でした。

鳥居元忠最期の戦いとなる伏見城の戦い前には、当初より多勢相手に捨て駒となることが分かりきった状況下で「会津は強敵だから殿(家康)は一兵でも多く連れて行ってください。伏見城は自分一人で大丈夫」と言い放ち、家康の天下取りのために自らの命を投げ打つ覚悟を伝えたと言われています。

実直で頑固者、そして誰よりも忠義心の高い三河武将の典型とした人物であったことが分かります。

鳥居元忠の名言・エピソード

鳥居元忠の名言やエピソードについて解説していきます。

「二君に仕える才覚はない」

鳥居元忠はその戦功や忠義の姿勢から数々の称賛を受けますが、その頑固さは筋金入りで、家康が鳥居元忠の戦功に対して感状を与えようとしたところ、「感状などは武士が別の主君に仕える際には役立つものだが、私のように家康様しか主君として考えていないような物には無用な物である」として頑なに受け取らなかったと言われています。

また、1586年には時の天下人である豊臣秀吉から朝廷の官位を賜る話をもらいますが、「某は才能もなく、秀吉公と家康公の両君の恩恵を受けて、二君に忠誠を尽くす術を知りませんし、その器量もございません」と固辞しています。義理高く、家康への忠義に溢れるエピソードとなっています。

鳥居元忠、決死の血天井

鳥居元忠の最期の決戦となった伏見城の戦いは、西軍4万に対して元忠軍はたったの2千と多勢に無勢な圧倒的不利な状況下でした。西軍側はこの伏見城を倒して、関東に出陣した家康を会津勢と挟み撃ちにする思惑があり、一方の家康側は相手を戦いに引きずり出すことと同時に、少しでも長く伏見城で相手の戦意を削りたいという考えがありました。結果として、7月19日に開戦したこの戦いはこれだけの兵力差がありながらも鳥居軍が粘りに粘り、13日も月日を費やす戦いとなりました。

鳥居元忠は軍団の統率が崩れることを防ぐために、少しでも寝返りそうな者については城外に出し、また駆けつけた援軍さえも入城することを拒むほどの徹底振りで、少しでも敵兵を足止めし、家康への負担を防ぐために尽力しました。

当時の鳥居元忠は足が不自由で、刀を杖代わりに指揮を奮っていたと言われています。最期は相手方の雑賀孫一(鈴木重朝)との一騎打ちの末に自刃を選びました。800名が亡くなったこの戦いの後、伏見城は2ヶ月以上放置されました。城内の床には激闘でついた血がこびり付き、いくら洗っても取れなかったと伝わっています。この床は鳥居元忠を始めとした戦死者を供養するために京都の各寺院の天井に奉らわれることになり、今も伝わっています。

フィクションにおける鳥居元忠

フィクションにおける鳥居元忠を解説していきます。

信長の野望における鳥居元忠

鳥居元忠の信長の野望における能力値は各シリーズにより異なりますが、統率70,武勇82,知略40,政治6と、家康の旗本先手衆として活躍した武勇が評価された能力値となっています。史実と同様に、ゲーム内でも忠義に厚い優秀な武将として表現されており、様々な状況下で活躍してくれる扱いやすい武将となっています。

ドラマにおける鳥居元忠

ドラマにおける鳥居元忠は、戦国時代や徳川家を題材としたドラマに度々登場しています。最近のドラマでは2000年のNHK大河ドラマ「葵 徳川三代」で、俳優の笹野高史さんが鳥居元忠役を演じられ、話題となりました。

鳥居元忠は主君に尽くした、男の中の男

鳥居元忠は、幼い頃から仕えた徳川家康に対して絶対なる信頼と忠義を尽くし、数多くの合戦で活躍した人物でした。

また、武士の心を誰よりも大事にしていた人物であり、死戦と分かりながらも主君の活躍を最期まで願い戦った姿は、戦国広しといえども、一番に名の上がる忠臣武将と言えるのではないでしょうか。