土岐頼純は帰蝶の夫だった?大河ドラマにも登場!土岐頼芸との関係は?

美濃守護の土岐頼純ですが、自身が生まれる前から父と叔父の守護を巡る争いがあり、父の死後は叔父と骨肉の争いを展開することになりました。結果的に土岐氏は美濃守護を追放され、斎藤道三に下剋上を許す結果になっています。今回は土岐頼純の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

土岐頼純の基本情報

土岐頼純の人生

できごと

生まれる前から骨肉の争い

土岐頼純は、土岐頼武の嫡男として生まれました。父:土岐頼武と叔父:土岐頼芸は守護の座を争い、結果的に土岐頼芸が守護になりますが、土岐頼武は守護争いの途上で亡くなっています。父の死後も土岐頼純は、土岐頼芸や守護代の斎藤道三と対峙しますが、次第に劣勢になっていきました。

1539年には、土岐頼芸と和議を結んでいますが、これは一時的なもので裏では斎藤道三による調略が進められていました。1543年以降は、居城の大桑城も落城し土岐頼純は朝倉氏を頼り、越前に亡命しています。

後ろ盾を得るも失敗

1544年8月、土岐頼純は朝倉軍と尾張の織田軍の支援の元で、美濃への再入国を企てます。一時は朝倉・織田連合軍が優勢でしたが、織田軍が斎藤道三に撃破されたこともあり、土岐頼純は朝倉軍と共に再び越前に引き揚げています。

美濃守護に就任するも急死

1546年秋、土岐頼純は再び、土岐頼芸・斎藤道三と和睦し、これには越前の朝倉孝景、尾張の織田信秀の室町幕府への働きかけや、近江の六角定頼の仲介があったそうです。9月、土岐頼純は大桑城に入城し、和解の条件として土岐頼芸の引退と土岐頼純の美濃守護就任が行われたとされています。斎藤道三の娘(帰蝶)との結婚も実現しています。

しかし、守護になって1年後の1547年11月17日に、土岐頼純は24歳で急死しています。斎藤道三の謀略にかかって殺されたと言われていますが、公式の記録がないため確証はありません。

土岐頼純の人柄・人物像

土岐頼純の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

土岐氏は源氏の末裔

土岐氏の始まりは、摂津源氏の源頼国の子孫が美濃土岐郡に土着し、館を構えたことが始まりでした。鎌倉時代は源頼朝の御家人となり、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画である「正中の変」にも土岐氏の一族が関わっていたとされています。

室町幕府では、美濃だけでなく尾張、伊勢の守護も土岐氏の一族が務めています。しかし、一族の間で争いが絶えず、美濃一国の守護に縮小していきました。最終的には守護代にまでのし上がった斎藤道三に(土岐頼芸が)追放され、土岐氏は守護の地位を追われています。

明智光秀は土岐氏の一族?

明智光秀を輩出した明智氏は美濃明智城を居城と知る武士で、土岐氏の一族と言われています。しかし、斎藤道三と斎藤義龍の内紛では、斎藤道三に味方したことから斎藤義龍に明智氏は滅ぼされていますが、明智光秀だけは落ち延びており、一族滅亡を免れています。

後に本能寺の変を起こす明智光秀ですが、その直前に行われた連歌の会で、「ときは今 あめが下しる 五月かな」に始まる歌を詠んでいます。これは「土岐氏の一族である自分が今こそ天下を治める」と解釈する見方があり、「とき=土岐氏」、「あめが下しる=天下を治める」とかけています。

他の出席者はこの歌を聞いてびっくりしたと言われていますが、この歌が世に知れ渡ると謀反の計画がバレてしまうので、解釈に無理があるのではないかという見方もあります。

土岐頼純の名言・エピソード

土岐頼純の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

帰蝶の最初の夫だった?

帰蝶(濃姫)は織田信長の正室として知られていますが、実は織田信長よりも前に結婚歴があり、その相手が土岐頼純だと言われています。これは土岐頼純が土岐頼芸・斎藤道三と和睦した際に、その証として1546年に、帰蝶が土岐頼純に嫁いだとされており、時に帰蝶は12歳だったと言われています。

しかし、土岐頼純が急死したことにより実家に戻り、その後実家に戻り、1549年に織田信長に嫁いだとされています。時に帰蝶は15歳でした。その後、1553年の正徳寺の会見(織田信長と斎藤道三が対面)以後は帰蝶は歴史の表舞台から姿を消しています。

帰蝶のその後ですが、①死亡説(桶狭間の戦い以前に亡くなった)②離縁説(織田氏と斎藤氏が敵対関係になったので離縁された)➂戦死説(本能寺の変で織田信長と共に亡くなった)④生存説(江戸時代まで生き残った)などがあります。帰蝶に関しては史料が少ないので、どの説も根拠にかけるところがあります。

土岐頼武・頼純は同一人物だった?

土岐頼武と土岐頼純は親子ですが、実は同一人物だったという説があります。「土岐家譜」という史料では土岐頼純の享年が49になっており、これは土岐頼武の死亡年齢とほぼ一致しています。また、土岐頼武が死んだという記録は残っておらず、さらに当時の文書において、土岐頼武・頼純はどちらも「土岐次郎」という名前で表現されています。

こういった情報から2人が同一人物だったという説が浮上しました。しかし、近年の研究で2人は別人だという認識が大勢を占めています。土岐頼純は斎藤道三に暗殺されたという見方がありますが、これは斎藤道三が油売りの商人から、実質的な美濃の太守にのし上がった過程を見ると、そう思いますよね。

しかし、斎藤道三暗殺説もはっきりとした根拠はありませんし、は娘婿になった人物を暗殺するとは考えにくい面もあります。でもそれができたから「美濃のマムシ」と呼ばれているのかもしれませんね。

フィクションにおける土岐頼純

フィクションにおける土岐頼純について、紹介したいと思います。

信長の野望における土岐頼純

土岐頼純ですが、信長の野望には登場していないようです。作品によるのかもしれませんが、土岐頼純のデータが見当たりませんでした。

ドラマにおける土岐頼純

ドラマには登場しなかった土岐頼純ですが、2020年大河ドラマ「麒麟がくる」には登場しています。しかし、すぐに亡くなってしまったので影が薄かったかもしれません。このドラマでは土岐頼純は帰蝶の最初の夫という設定になっていました。

土岐氏の子孫は江戸時代にも残った?

土岐頼純が生まれる以前から、父と叔父が家督争いをしており、父の死後は土岐頼純がその争いに加わることになりました。土岐氏は内部分裂が末に、斎藤道三に乗っ取られた形になってしまいました。美濃土岐氏は没落しましたが、土岐頼芸の子は旗本として江戸幕府に仕え、子孫は徳川吉宗の時代に幕臣になっています。

現在も岐阜県には土岐氏にちなんだ地名が残っており、土岐氏の遺構を偲ぶことができます。