土岐頼芸は「麒麟がくる」にも登場!鷹の絵で有名!息子は斎藤義龍だった?

美濃の守護大名:土岐頼芸。土岐家の長年にわたる兄との家督争いに勝ち、念願の美濃守護の地位を手にいれますが、今度は重臣の斎藤道三により美濃から追放されるという憂き目に遭います。以後は30年に渡り流浪の生活を送っています。

今回は土岐頼芸の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

土岐頼芸の基本情報

土岐頼芸の人生

できごと

兄との家督争いに勝利

土岐頼芸は、美濃の守護大名:土岐頼房の次男として生まれました。当時の美濃の情勢は重臣で守護代の斎藤利国の戦死により、斎藤家は衰退し、その庶流の長井家が台頭していたこともあり、不安定な時期でもありました。

父の土岐頼房は、兄:土岐頼武の廃嫡を考えるようになり、これにより頼武派と頼芸派が対立し、重臣たちも巻き込んだ家督争いに発展。1517年には合戦が起こりますが、頼芸派は敗れています。しかし、翌1518年に頼芸派は頼武を越前に追放し、敵勢力を一掃することに成功します。

その後、1519年に越前の朝倉孝景の支援を受けて、頼武派が美濃に侵攻したこともあり、頼芸派は再び敗れ、土岐頼芸は守護の座を追われたことで、一旦は決着しています。だが、1525年に土岐頼芸は再び挙兵し、美濃守護館を占拠し、1530年には兄:土岐頼武を追放し、実質的な守護の座を得ています。

この時、土岐頼芸は長井規秀(後の斎藤道三)を重用し、勢力維持を図ったとされています。

斎藤道三により追放される

しかし、土岐家の内輪揉めはこれだけでは終わりませんでした。兄の土岐頼武の子で、甥:土岐頼純が、朝倉家や六角家の加勢を得て挙兵し、戦果は美濃全土に広がりました。1536年に、土岐頼芸は勅許(朝廷の正式な認可)を得て、正式に美濃守護になっています。

この頃、対立していた六角家から娘を娶って和解し、美濃騒乱の終息に成功。1539年には対立していた土岐頼純とも和睦しています。しかし、1541年に重臣:斎藤道三が土岐頼芸の弟:土岐頼満を毒殺する事件が起こった為、今度は斎藤道三と険悪になり、対立していくことになります。

1542年、土岐頼芸は斎藤道三により、尾張に追放されています。その後、土岐頼芸は尾張の織田信秀の支援を得て、越前にいた土岐頼純と連携し、美濃守護に復帰しますが、斎藤道三と朝倉孝景が和睦。その和睦の条件が、土岐頼芸の守護退任ということから、甥:土岐頼純に守護を譲っています。

さらに1548年に、斎藤道三と織田信秀が和睦したこともあり、土岐頼芸は後ろ盾を失っています。1552年、土岐頼芸は斎藤道三により再び追放されることになりました。

30年ぶりに帰国し、亡くなる

美濃追放後の土岐頼芸は近江の六角家や、常陸などに身を寄せ、次いで上総の土岐為頼を頼り、最終的には甲斐の武田家に身を寄せています。このころには病気によって失明していたとも言われています。1582年の織田信長による甲州征伐の際、土岐頼芸は発見され、当時織田家家臣で旧臣の稲葉一鉄のはからいで美濃に帰還しています。

その半年後に、土岐頼芸は死去しています(享年81歳)。

土岐頼芸の人柄・人物像

土岐頼芸の人柄や人物像について、紹介したいと思います

文化人として知られていた

土岐頼芸は、文化人としても知られ、多くの作品を残しています。特に鷹の絵を得意とし、土岐頼芸の描いた鷹は、「土岐の鷹」として知られています。孫の土岐頼高も鷹の絵を得意とし、後に豊臣秀吉に仕え、徳川義直(徳川家康の九男、尾張藩の初代藩主)の御伽衆になっています。

斎藤道三について

斎藤道三は、土岐頼芸を追放して一代で美濃を平定(国盗り)をしたと言われていますが、実際は父:長井新左衛門尉との親子2代によるものと言われています。元々は、長井新左衛門尉が美濃で長井家に仕えたことが始まりで、武芸と才覚に秀でていたため、土岐頼芸に重用されるようになりました。

土岐頼芸の守護就任に貢献した長井新左衛門尉ですが、その後、病死(戦死とも言われる)し、斎藤道三が跡を継ぐことになります。斎藤道三は、以後力を持つようになり、守護の次のポジションにあたる守護代にまで出世し、土岐頼芸とも対立するこになりました。

斎藤道三は土岐頼芸を追放し、実質的な美濃の大名となりましたが、この国盗りの経緯から、息子:斎藤義龍が挙兵した際、道三側に味方する旧土岐家家臣団はおらず、1556年の長良川の戦いに敗れ、戦死しています。

土岐頼芸の名言・エピソード

土岐頼芸の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

斎藤義龍は土岐頼芸の息子なのか?

斎藤義龍は、斎藤道三の嫡男ですが、一部では土岐頼芸の息子と言われています。これは土岐頼芸の側室:深芳野が、1528年に土岐頼芸から斎藤道三に下賜されていることに由来しています。翌1529年に斎藤義龍が誕生してます。出生時期などから斎藤義龍の実父が土岐頼芸だとも言われていますが、これには根拠がありません。

後に、斎藤義龍は斎藤道三と対立していますが、「実父が土岐頼芸で、それを追放したのが斎藤道三だった」という説を斎藤義龍が信じたからだと言われていますが、これは江戸時代以降に創作されたとも言われています。

実際ところは、斎藤道三が斎藤義龍よりも、2人の弟を溺愛し、斎藤義龍を廃嫡しようとしていたと言われています。これに対し、斎藤義龍が2人の弟を殺害したことが、決定的な対立の原因だと見られています。

晩年は流浪の身だった?

土岐頼芸は、美濃を追放された後は、各地を放浪しています。最終的には甲斐の武田家に落ち着きますが、この時には失明していたと思われます。土岐頼芸は、甲斐の恵林寺で隠居生活を送っていたとされ、住職の快川紹喜は、美濃とゆかりのある人物でした。

しかし、1582年の甲州征伐で恵林寺は織田信長に焼き討ちにされ、快川紹喜も焼死しています。この時の辞世の句が「心頭滅却せば火も自づと涼し」という有名な一文だと言われています。恵林寺の焼き討ちにより、家を失った土岐頼芸ですが、旧臣の稲葉一鉄の助命嘆願により、美濃に約30年ぶりに帰国することができました。

その半年後に亡くなっているので、故郷に戻ったことで思い残すことがなくなったのかもしれませんね。

フィクションにおける土岐頼芸

フィクションにおける土岐頼芸についても紹介したいと思います。

信長の野望における土岐頼芸

能力値ですが、統率:44、武勇:28、知略:68、政治:62、となっています。斎藤道三の引き立て役のイメージがありますが、能力値もやや残念な印象を持ってしまいます。

ドラマにおける土岐頼芸

土岐頼芸が登場するドラマは多くはありませんが、2020年放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」に登場しています(演:尾美としのり)。ドラマの中では斎藤道三を嫌いながらも、息子の斎藤義龍を手なずけようとする、ずる賢い面も描かれています。

土岐頼芸は守護となるも、晩年は不遇だった

土岐頼芸は、長く続いた家督争いに勝ち、美濃守護となりました。しかし、重臣の斎藤道三に追放され、流浪の生活を送ることになるという不遇にも見舞われました。安定した時代は長くなかったと見て良いでしょう。