千々石ミゲルが棄教した理由と死因は?天正遣欧使節の目的とその後は?

九州のキリシタン大名がヨーロッパに派遣した天正遣欧使節。そのメンバーの中に千々石ミゲルという人物がいました。彼は帰国後もキリスト教の司祭になるべく勉学に励みますが、途中でキリスト教を棄教しています。

今回は千々石ミゲルの人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

千々石ミゲルの基本情報

千々石ミゲルの人生

できごと

若くして洗礼を受ける

千々石ミゲルは、肥前釜蓋城主の千々石直員の息子として生まれます。千々石直員(有馬晴純の三男)は肥前の大名:有馬家の分家を開き、千々石姓を用いていました。1577年に窯蓋城が落城すると、乳母に抱かれ戦火を逃れたと言われています。その後は大村家を継承していた伯父の大村純忠の元に身を寄せています。

1580年にポルトガル司令官のドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として洗礼をうけ、千々石ミゲルという洗礼名を名乗っています。同年、有馬のセミナリオ(イエズス会の神学校)で教育を受け始めます。

天正遣欧使節としてヨーロッパへ

1582年、宣教師:ヴァリニャーノは、有馬・大村両大名に日本の布教活動を知らしめるために、カトリック教会の総本山であるローマに使節を送りたいと提案します。ヴァリニャーノは原マルティノ、伊東マンショ、中浦ジュリアン、そして千々石ミゲルの4人の少年を選び、共にヨーロッパに渡っています(天正遣欧使節)。

この時、4人の少年は東洋からの使者としてローマ教皇:グレゴリウス13世、スペイン国王:フェリペ2世と面会しています。1590年に日本に帰国したおり、豊臣秀吉に拝謁。仕官を勧められますが、4人共、これを断っています。その後、千々石ミゲルは神学の道を志すべく勉学を続け、1593年7月25日に他の3人と共に、イエズス会に入会しています。

キリスト教を棄てる

しかし、千々石ミゲルは次第に神学への熱意を失い始めたことから、勉学が振るわなくなりました。元より病弱だったこともあり、マカオ留学(司祭教育の過程で必要だった)も延期を続けるなど、協会と距離を取り始めていました。欧州見学の際には、キリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表すなど、以前からキリスト教への疑問を感じていたという見方もあります。

千々石ミゲルは、1601年にキリスト教からの棄教を宣言すると、イエズス会から除名処分を受けています。名前も千々石清左衛門と改め、従兄弟の大村喜前(大村純忠の長男)が大村藩の初代藩主となると、藩士として召し出され600石の領地を与えられています。

棄教を検討していた大村喜前に千々石ミゲルは、「日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押ししています。また領内での布教を信じないように諭したりと反キリスト教の立場を取るようになりました。

教会でキリスト教を信じ続ける他の3人と違い、公然とキリスト教を批判する千々石ミゲルの影響もあり、宣教師の威厳は失われていきました。こういった出来事から後のキリシタン弾圧に繋がったという見方もあります。

その後、主君の大村喜前と不仲になり、藩政からは遠ざけられています。また新キリシタン派からも裏切り者として命を狙われています。晩年についてははっきりとした記録がないため、謎に包まれていますが、領内で隠遁生活を送り亡くなったと言われています。

千々石ミゲルの人柄・人物像

千々石ミゲルの人柄や人物像について、紹介したいと思います。

大名の血縁でエリートだった

千々石ミゲルの祖父は有馬晴純で大名になります。父親は城主ですが、伯父は大村純忠というこれまた大名です。有馬家と大村家は日本にまだ数が少なかったキリシタン大名として有名です。天正遣欧使節のメンバーに選ばれたのも、キリシタン大名の血縁者だったからという見方があります。

同じくメンバーに選ばれた伊東マンショも大友宗麟(キリシタン大名)の血縁者とも言われていますが、実際のところは、大友宗麟の妹の娘の夫の妹の子という、血縁者と言っていいのか分からないくらいレベルでした。それに伊東マンショは大友宗麟とは面識がなかったそうです。

ヨーロッパ出発の日に、母親が出港の直前まで泣いて止めたと言われていますが、千々石ミゲルは反対を振り切って旅立ちました。元々、千々石ミゲルは病弱だったようで、宣教師:ヴァリニャーノも「身体虚弱」と記録しています。健康面も含めて、母親が反対していたのも分かる気がします。

ヨーロッパ到着後は、かなりのストレスがたまっていたようで、「早く日本に帰りたい」と叫んでいたとも言われています。

ヨーロッパに日本を認知させた

天正慶欧使節の4人の少年は、職責を見事に果たしています。ヨーロッパから見たら本当にあるのか分からなかったのが日本でした。以前、イタリアの商人:マルコポーロが「東方見聞録」という書物で「黄金の国ジパング」と書き記していた記述はありますが、マルコポーロ自身は来日したことはありません。

それを聞いた元のフビライ・ハンが日本を攻めた(元寇)という見方もありますが、定かではありません。天正慶欧使節はヨーロッパに日本を認知させ、その後の日本とヨーロッパのパイプを築き、後に幕末や明治時代に多くの日本人がヨーロッパに渡っています。あまり知られていませんが、天正慶欧使節が日本の歴史に与えた影響は大きいように思えます。

千々石ミゲルの名言・エピソード

千々石ミゲルの名言やエピソードについて、紹介したいと思います。

なぜキリスト教を棄てたのか

千々石ミゲルがキリスト教を棄てた理由としては、「病弱で勉強についていけなくなった」「イエズス会への反発があった」などが言われています。どちらもありそうな理由ですが、はっきりとした根拠はありません。宗教を布教させて後に軍隊が入ってきて占領され植民地化していくのが、当時のスペイン・ポルトガルのやり方だったので、千々石ミゲルの見方はあながち間違ってはいません。

豊臣秀吉がバテレン追放令を出したのも、そういった話を聞いたことが影響していると言われています。

天正遣欧使節のその後は?

天正遣欧使節のメンバーの他3人はどういう運命をたどったのでしょうか?天正遣欧使節が帰国したころには豊臣秀吉が天下を統一し、最大の後ろ盾だったキリシタン大名はほとんどが亡くなっていました。それにバテレン追放令が発令され、キリスト教への風当たりが強くなっていました。

①伊東マンショ

帰国後に神学を学び小倉に拠点を構えますが、1611年に領主:細川忠興によって追放され、その後転々としますが、1612年に病死しています。

②中浦ジュリアン

帰国後は他の3人と同じように神学を学びますが、1601年に高等課程を学ぶためにマカオに移っています。その後日本に戻りますが、江戸幕府のキリシタン追放令もあり地下で布教活動をしています。その後、捕縛され、1633年に長崎で処刑されています。

➂原マルティノ

帰国後は他3人と同じように神学を学び、1601年にマカオに移っています。その後、日本では布教活動をしますが、1614年にマカオに追放され、1629年に亡くなっています。

フィクションにおける千々石ミゲル

フィクションにおける千々石ミゲルについて、紹介したいと思います。

信長の野望における千々石ミゲル

戦国武将ではないので、基本的には登場しません。しかし、「100万人の信長の野望」というモバイルゲームに期間限定ガチャで獲得できるという情報があります。能力値についてははっきりとは分かっていません。

ドラマにおける千々石ミゲル

千々石ミゲルが登場するドラマはありませんでした。しかし、小説や歴史番組で千々石ミゲルや天正遣欧使節が取り上げられています。

千々石ミゲルは大名の血縁者ながら晩年は謎

近年の発掘調査で千々石ミゲルの墓らしきものが出土していますが、本人のものかどうかは分かっていません。天正遣欧使節の4人が帰国後にバテレン追放令により、過酷な運命をたどっているのは間違いありません。

ただ、日本とヨーロッパの繋がりは彼ら抜きにしては語れないと思います。