武田義信の能力について!実は有能だった?父との確執と弟への嫉妬とは?

武田信玄の後継者は武田勝頼ですが、それは長男の武田義信が亡くなったため、武田勝頼が後継者とならざるを得なくなったという事情があります。今回は武田義信の人生を年表付きで解説し、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

武田義信の基本情報

武田義信の人生

できごと

武田家の後継者として生まれる

武田義信は、武田信玄の嫡男として生まれました。母は、三条夫人(武田信玄の正室)です。1550年、13歳の時に元服し、武田氏と同盟関係にあった駿河の今川義元の娘を正室に迎えています。1553年には、武田氏歴代では初の室町幕府将軍の足利義輝より、足利将軍家及び清和源氏の通字の「義」の偏諱を受け、「義信」と名乗るようになりまました。

川中島の戦いでも活躍

1554年、信濃佐久郡の知久氏攻めで初陣を経験し、この初陣で知久氏の反乱を鎮圧すると、小諸城も降伏させ、内山城の軍勢を率いて落武者三百人を討ち取っているなど大活躍を見せています。1558年、武田信玄が信濃守護に任命された際には、「准三管領」としての待遇を受けています。1561年の第四次川中島の戦いでも武功を挙げたと言われています。

この時の武田義信の戦いぶりはすさまじく、武田軍を蹴散らし休んでいる上杉謙信の本陣を襲撃し、不意をつかれた上杉謙信の旗本の過半数が逃走し、上杉謙信も防戦一方だったそうです。この時は上杉軍の応援が駆け付けたこともあり、武田義信は撤退しています。

義信事件とは?

武田・北条・今川の三家は、1554年に互いの家に娘を嫁がせたことにより、同盟を結んでいました(甲相駿三国同盟)。しかし、桶狭間の戦いで今川義元が戦死したことにより、武田信玄は駿河進出へと方針を転換したと言われています。

武田氏は領国に海がなかったこともあり、日本海を目指していたという説もありますが、駿河を目指した方がが甲斐からは遥かに近いこともあったようです。武田義信は正室が今川義元の娘だったこともあり、この方針に反対。

1564年に飯富虎昌(武田義信のもり役)らが武田信玄の暗殺(追放だとも言われている)を計画していたことが露見し、1565年、飯富虎昌は謀反の首謀者として処刑されています。この計画を密告したのが飯富三郎兵衛(飯富虎昌の弟、後の山県昌景)だと言われています。

武田義信も同年に正室と離縁させられ、甲府の東光寺に幽閉されたことにより、後継者としての地位を失っています。1567年に、東光寺にて30歳で亡くなっています(自害したと言われています)。

武田義信の人柄・人物像

武田義信の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

武田信玄との確執は以前からか?

武田信玄は、自身が父親から愛情を受けられなかったこともあり、子供へは愛情を注いでいたようです。武田義信が今川義元の娘と結婚した際には、国を挙げての祝賀と称し、足利義輝から偏諱を受けた際も「我より太郎(義信)は果報も何も上なり」と大喜びしています。この時は武田義信が次期当主であると誰もが思っていました。

しかし、桶狭間の戦いで今川義元が戦死したとこにより、結果的に武田義信の運命が変わっていきました。最初の父子の衝突が1561年の第四次川中島の戦いでした。この戦いは5回に渡る川中島の戦いの中でも一番の激戦で、上杉謙信が武田本陣に乗り込んできて、武田信玄に切りつけたとも言われています。(川中島古戦場にも2人の銅像があります)

戦いの後、武田信玄は「このまま優勢で終わるために、深追いはせす撤退する」としましたが、武田義信は「撤退する上杉軍を追撃するべき」と口論になったようです。戦いは痛み分けに終わりましたが、武田軍も、武田信繁(武田信玄の弟)や山本勘助(武田家重臣)を失うなど被害は甚大でした。

「状況に応じて冷静な判断をとるべき」と大将の在り方を解く武田信玄と、血気にはやる武田義信は一歩も引かず、武田義信の方が武田信玄を激しく非難したとも言われています。甲陽軍鑑によれば、武田義信について「利根(りこん)すぎる」という記載があります。

意味は「賢いこと」、「利発なこと」とありますが、第二の意味として「口賢い(くちがしこい)」とい使い方があります。この言葉は、第二の意味での使い方が多く、現代風に言うと「頭がよいために理屈をこねる」、つまり「理屈っぽい」とあまりいい意味ではありません。

この時から、父子の確執が表面化したとのではないかとも思えます。

弟がひいきされていたのが気に入らなかった?

第四次川中島の戦いの翌年に、武田信玄は四男の勝頼に家臣団をつけ、信濃高遠城主にしています。勝頼は諏訪四郎勝頼と名乗っていたので、成人すると武田家家臣の扱いになります。武田義信からすると後年は自分の家臣になるわけです。

しかし、まだ武功を立てた訳でもない勝頼がすんなり城主になることが、武田義信からすると気に入らないわけです。勝頼の母の諏訪御寮人はこの時には亡くなっていたこともあり、孤独な勝頼に向ける武田信玄の愛情が、武田義信からすると「えこひいきしている」と見えたのかもしれません。

武田義信の名言・エピソード

武田義信の名言やエピソードについても、紹介したいと思います。

武田義信は後継者としては失格だったのか?

武田義信は後継者としての資質がなかったため、廃嫡されたという説もありますが、そういった記載の文献はありません。合戦の際は、手柄を立てるなど非常に勇敢な面もありました。単に、今川氏侵攻を狙う信玄派と、従来どおりの今川氏との同盟関係を維持する義信派に武田家中が割れてしまったと見た方が良いかもしれません。

後に武田信玄は織田信長と同盟(武田勝頼の正室に織田信長の養女を迎えた)していますが、これは対今川氏対策ではなく、国境を接したための調整だというと見られています。ただ、武田義信や今川氏はそう受け止めなかったことが、「義信事件」と招いたという可能性が指摘されています。

武田義信死後の武田氏は?

武田義信の死後、武田信玄は駿河に侵攻して、以後これを領有するようになりました。1573年に武田信玄が亡くなると、諏訪勝頼が武田勝頼と復姓し、武田家当主となりました。しかし、武田勝頼は元々は諏訪氏の後継者になることが前提だったこともあり、武田家の運営に苦労しています。

結果、度重なる外征をするようになり、1575年の長篠の戦いでの大敗に繋がったという見方もあります。1582年に武田氏は滅亡していますが、これは武田勝頼の力量だけでなく、武田信玄が武田勝頼を正式な後継者としなかったことにも原因があると言われています。(武田勝頼は陣代という仮の当主だった)

この背景には、後継者だった武田義信の死が大きく関わっており、急遽、武田勝頼を後継者にしなければいけなくなった武田信玄の事情もありました。

フィクションにおける武田義信

フィクションにおける武田義信についても、紹介したいと思います。

信長の野望における武田義信

能力値ですが、統率:65、武:58、知略:38、政治:48、とお世辞にも優秀とは言えません。武田家中は能力の高い武将が多いので、ゲーム上では目立たないかもしれません。

ドラマにおける武田義信

武田氏関連のドラマに武田義信も登場しています。NHK大河ドラマ「武田信玄(1988年)」では武田義信を堤真一さんが演じていますが、父:武田信玄役の中井貴一さんとは実年齢3歳違いの親子役でした。このドラマでも父子の確執が描かれており、当時は若手俳優だった2人のシリアスな演技も話題になりました。

もし武田義信が生きていたら?

武田義信が自害せずに生きていたら、武田勝頼がしたような度重なる外征もする必要もなかったのかもしれません。しかし、織田信長との国力差を埋めることは難しく、次第に武田氏がジリ貧状態に陥っていったかもしれません。

武田信繁が生きていたら武田氏の未来も変わったと言う歴史ファンの人は一定数いますが、武田義信についてはあまり聞きませんが、実は有能だったという説はありますので、今後の研究で新たな人物像が出てくることを期待しています。