武田信虎は妊婦の腹を裂いたとも言われる暴君?その功績は見直されつつある

武田信虎は名将・武田信玄の実父であり、甲斐国を統一する偉業を成し遂げた一方で、後に武田信玄により追放されたことから暴君としての悪評を受けることが多い人物です。

この記事では武田信虎の生涯を年表付きでわかりやすく解説します。武田信虎がどのような人物であったのか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける武田信虎など、様々な視点から解説していきます。

武田信虎の基本情報

武田信虎(たけだのぶとら)は甲斐国出身で戦国時代を生きた武将です。

武田氏第18代当主となりその勢力を拡大させましたが、後に嫡男・武田晴信によって強制的に隠居・追放されました。

武田信虎の人生

できごと

武田家内紛の中で誕生する

武田信虎が誕生する前の1465年、祖父・武田信昌が甲斐国守護代・跡部景家を破って実権を掌握すると、1492年には武田信昌の嫡男で武田信虎の父・武田信縄が家督を相続します。しかし、武田信昌が武田信縄の弟・油井信恵に家督を譲ろうと考え直したことで、武田家は武田信縄派と油井信恵派で対立します。

その後、一時的に両者は和睦して武田信縄が正式に家督を相続しますが、1507年に武田信縄が死去して武田信虎が家督を継ぐと、再び油井信恵派が反旗を翻すようになりました。

1508年の勝山城の戦いで両者はついに衝突しますが、武田信虎が勝利を治めて油井信恵を戦死させます。ここに、父の代から続いた武田家の内紛は一応の収束をみますが、油井信恵派で甲斐国都留郡を支配する国衆・小山田弥太郎はその後も抗戦し、坊峰合戦が勃発します。

この戦いでは当初小山田軍が優勢であったものの、深夜に奇襲をかける武田信虎の策が功を奏して勝利し、1509年には小山田氏を従属させることに成功しました。

甲斐国統一

この頃の甲斐国は、国衆がそれぞれの領地を独立して治めていた群雄割拠の状態にあり、甲斐国各地で戦乱が続いていました。

一方で隣国の駿河国では今川氏親が、信濃国では諏訪頼満が勢力を拡大させており、1509年に諏訪氏が侵攻を開始して甲斐国の有力な国衆であった今井氏の江草城を攻略するなど、その影響力が強まっていました。

甲斐国西郡の大井信達や河内領の穴山信綱は今川氏の傘下へと降り、武田信虎はこれを受けて1515年、今川氏の後ろ盾を得た大井氏の居城・富田城を攻めますが敗北し、1516年には今川氏の本格的な甲斐国侵攻を招きます。

その後も武田信虎と今川氏親は争いを続けますが、1517年に和睦を成立させ、今川氏は甲斐国を撤退しました。こうして強大な今川氏の力が無くなると、国衆達とも和睦を結び、1520年には大井信達の娘・大井の方を正室として迎え、1521年には穴山信綱の子・穴山信友に自身の娘を嫁がせています。

前1519年には今井信是も武田信虎に降伏しており、ここに武田信虎の甲斐国統一が成し遂げられました。

こうして甲府に躑躅ヶ崎館の建設を開始すると、有力国衆に対して甲府への集住を命じました。栗原信重・今井信是・大井信達らはこれに抵抗しますが、間も無く武田信虎に撃破され、その配下に降りました。

甲斐国衆を手中に治めた武田信虎は、再び今川氏との争いを再開し、1521年に今川氏に付いていた富士氏との戦い、飯田河原の戦い、上条河原の戦いと今川軍を撃退すると、1522年には今川氏を駿河国へと駆逐させることに成功しました。

北条氏・諏訪氏との戦い

父・武田信縄の代より武田氏と上杉氏は同盟を結び、度々北条氏と争っていますが、1520年過頃から武田信虎は北条氏綱との抗争を激化させ、1524年に北条氏領地の相模国・武蔵国へと侵攻します。

1526年には梨の木平で北条軍を破りますが、以降も一進一退を繰り返す硬直状態となりました。

同じ頃信濃の諏訪頼満とも戦を繰り返していますが、1528年の神戸・堺川合戦では敗北し、1531年には武田信虎に反発した栗原兵庫・今井信元らの家臣達が諏訪軍へと寝返ります。しかし、1532年までにはこれらを撃破し、1535年に諏訪頼満と和睦を結びました。

甲斐国追放

1536年に以前の宿敵・今川家内で当主が急死してその後継を巡ってお家騒動が発生すると(花倉の乱)、武田信虎はこれに介入して今川義元を支援します。この家督争いは今川義元の勝利に終わり、武田信虎と今川義元は同盟を結び、娘の定恵院を今川義元の正室とするなど親交を深めました。

この同盟によって今川氏と北条氏の間で締結されていた相駿同盟は破綻し、北条氏による駿河侵攻が開始されると、武田信虎は今川氏に援軍を送ってこれを支援しています。

1541年、信濃国で勃発した海野平の戦いに勝利し、信濃国から凱旋途中にあった武田信虎は、武田晴信を一足先に甲斐国に戻らせ、自身は駿河国の娘婿・今川義元を訪問します。

しかし、武田晴信は国境を封鎖して甲斐国に入れないようにし、武田信虎を駿河国において強制的に隠居させました。この時武田家譜代家臣達の多くが武田晴信に味方しており、武田信虎に対抗する術はありませんでした。

その後は出家して今川義元の保護を受けながら過ごしますが、1558年頃から京都に生活の拠点を移し、将軍・足利義輝に在京前守護として奉公するようになります。永禄の変で足利義輝が暗殺された後は織田信長によって報じられた足利義昭に仕えています。

やがて足利義昭と織田信長の仲が決裂すると、武田晴信は信長包囲網を結成して対抗、西上作戦を開始しますが、その途中の1573年に死去してしまいます。この死によって信長包囲網は瓦解し、足利義昭も京都から追放されました。

足利義昭に仕えていた武田信虎は三男の武田信廉に引き取られて信濃国・高遠城へと移り、ここで翌1574年に81歳で死去しました。

武田信虎の人柄・人物像

武田信虎の人柄や人物像について説明します。

『甲陽軍鑑』における評価

武田信虎には、戯れに妊婦の腹を裂いたというエピソードが真しやかに語られるほど極悪非道のイメージが付いており、江戸時代に成立した武田氏の戦略・戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』においても、粗暴で傲慢、諫言した家臣を度々手打ちにした暴君であると記されています。

しかし、これは武田晴信が父を追放したことについて正当化するため、ないし武田晴信の功績・治世を讃えるために増長して書かれた部分が多く、全ての記述を真実と考えることは出来ないと考えられています。

寺社や文化財を破壊したというエピソードもありますが、ある程度は度重なる戦の中で戦火に巻き込んでしまったものもあると考えられますが、武田信虎は甲府整備にあたり、大泉寺など多くの寺社を創建しており、また1522年には身延山久遠寺を参拝するなど、決して信仰心の薄い人物ではなかったようです。

また、甲府の街を整備したり、数々の戦を繰り返したことで甲斐国が安定・繁栄していった一方で、これらが領民にとっては重い負担となりその恨みを買ったために、武田信虎の悪評がもたらされたのではとも考えられます。

子供達との関係

武田信虎には武田晴信以外に多くの子があり、娘達を穴山氏・大井氏ら甲斐国の国衆や、今川義元に嫁がせるなどして外戚関係を構築するために利用しています。

しかし、度々娘婿である今川義元と正室となった定恵院の元を訪問していたようで、娘を思いやる父親らしい一面も垣間見得ます。

一説では、武田晴信が父を追放した理由は、武田信虎が次男の武田信繁を偏愛し、武田晴信を疎んで廃嫡しようとしたからとも言われており、武田晴信との関係は良好でなかったものと考えられる一方、その他の子供達とは関係がよかったようで、三男の武田信廉は武田信虎の肖像画を作成させています。

追放後の武田晴信による甲斐国支配や甲相駿三国同盟の締結などの外交政策にも口を出さず、積極的に介入しようとした形跡も見られないことから、不和説のある嫡男・武田晴信の才能も認めており、追放されたことに対する深い恨みもそこまで持っていなかったのではないかとも考えられます。

武田信虎の名言・エピソード

武田信虎の名言やエピソードについて解説します。

追放後の生活

甲斐国を追放された武田信虎ですが、今川義元の保護の元滞在した駿河国では、「御舅殿」と呼ばれて今川一門よりも上位に置かれるなどの高待遇を受け、1543年には京都南方を遊覧、高野山や奈良も遊歴するなど穏やかに過ごしています。

京都にて将軍に仕えた頃は公家の山科言継や、同じく公家で文化人として知られる飛鳥井雅教や万里小路惟房らとも交流を持ち、武田氏前当主として恥ずかしくない教養の高さを発揮しています。

1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討死し、武田家と今川家の関係が悪化して武田晴信が駿河侵攻を開始すると、武田信虎は新しい当主となった今川氏真の身を案じて京都と駿河国を往復したと考えられています。

長尾為景の鷹

上杉謙信の父・長尾為景は、ある時同盟を結んでいた相模国の北条氏綱に鷹を2羽贈ろうと、使者を越後国から甲斐国を通って相模国へと派遣します。

この使者が甲斐国通行に際して武田信虎に挨拶すると、武田信虎から「鷹を1羽置いていけ」と命じられたため、1羽を武田信虎に献上し、残った1羽を北条氏綱に贈ることとなりました。

甲斐国で足止めをくらった使者は予定より随分おくれて相模国にたどりつきますが、そこで北条氏綱に贈られた鷹の方が武田信虎の元に残した鷹よりも若いことが判明します。

これに不満をもった武田信虎は、「若い鷹の方と交換してほしい」と要求しました。北条氏綱はこれに応じたものの、長尾為景に対して手紙で愚痴をこぼしており、その手紙が現在でも残っています。

フィクションにおける武田信虎

フィクションにおける武田信虎を解説します。

信長の野望における武田信虎

シリーズによっても異なりますが、武田信虎のステータスは統率87、武勇89、知略75、政治62となっています。名将・武田信玄の父である武田信虎も、全体的に高数値の並ぶステータスとなっていますが、武田信玄と比較すると全ての項目で劣った数値となっています。

ドラマにおける武田信虎

ドラマに登場する武田信虎は、『甲陽軍鑑』に記された悪評の通り、人望のない暴君として描かれることが多くなっています。

2007年の大河ドラマ『風林火山』では俳優の仲代達矢さんが演じ、心の底では武田信玄の才能を認めながらも対立し、主人公山本勘助の恋人・ミツを戯れに殺害してその恨みを買い、家臣や領民たちからも徐々に反感を買って人望を失う様子が描かれました。

武田信虎は甲斐国繁栄の基盤を作り上げた再評価されるべき人物

武田信虎が生まれた時代は、甲斐国内だけでなく生家・武田家も混乱の最中にあり、そのような苦境の中で武田宗家統一・そして甲斐国統一を成し遂げた武田信虎には、非常に優れた軍事力と知性があったと考えられます。

当時荒廃していた甲府を城下町として整備し、市場や寺社を設けて当時としては画期的な都市を築き上げました。このような武田信虎が築いた基盤があったからこそ、のちの武田信玄の活躍もあったと言えます。

追放後も桶狭間の戦いや永禄の変といった天下の大騒動を乗り越えながら、京都や駿河国において前武田家当主としての尊厳を保ちながら逞しく生き抜き、81歳という長命を全うしました。後世の悪評を全て事実であると考えず、改めて武田信虎の功績を見直すと、甲斐国発展をもたらした名君であると評価し直すことができるでしょう。