武田信繁は名補佐役!逸話や家訓、エピソードについて!

武田信繁は、武田信虎の息子として生まれ、武田信玄は4歳上の兄にあたります。武田信玄の影にかくれていますが、その後の武田家の発展に大きく貢献しています。後に書かれた教訓状も江戸時代以降も語り継がれています。

官職の左馬助の中国名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれていますが、息子の武田信豊も典厩を名乗ったため、武田信繁を「古典厩」、武田信豊を「新典厩」と区別して言うこともあります。

今回は武田信繁の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介していきたいと思います。

武田信繫の基本情報

武田信繁の人生

できごと

父親に溺愛されるも、兄に従う

武田信玄は、甲斐の大名:武田信虎の次男として生まれました。実は武田信繁には兄が3人いましたが、2人の兄が早くに亡くなっています。残った兄の1人が武田信玄でした。その為、武田信玄が長男、武田信繁が次男と定義されていることが多いです。

生母(大井の方)が兄の武田信玄(晴信)と同じだったこともあり、兄弟仲は良好でした。しかし、武田信虎は嫡男である武田信玄と折り合いが悪く、次男の武田信繁を溺愛し、跡継ぎにしようと考えていました。

そんな中、武田信虎は今川家に嫁いだ娘(武田信玄の姉)と孫(今川氏真)の顔を見に行くという理由で、駿河に赴きます。その隙に武田信玄は、国境の門を閉じさせ武田信虎を追放してしまいます。以降、武田信虎が甲斐の地を踏むことはありませんでした。新たに武田信玄が武田家当主になると、武田信繁もこれに従います。

信濃侵攻戦で活躍

文書では確認されていませんが、1551年に武田信繁は、武田氏の庶流である吉田氏を襲名したと言われています。このころに武田信玄の嫡男であった武田義信が元服しており、武田義信が武田宗家の後継者であることを明確にする意図があり、後継者争いをさける狙いがあったとされています。

このころ、武田信玄は信濃侵攻を本格化しており、村上義清などの信濃の豪族や越後の上杉謙信(長尾景虎)との戦いも本格化していきますが、武田信繁は武田信玄の家督相続のころから、一門衆の筆頭クラスの扱いで、武田信玄の補佐役として信濃経営に従事しています。

甲陽軍鑑(武田氏の記録)によれば諏訪侵攻において、武田信繁は大将を務め、宿老の板垣信方とともに出兵。高遠頼継の反乱を鎮圧するなど活躍していました。また、武田信繁が対外交渉の場にも登場していたという記録も残っています。

川中島の戦いで討死

1551年以降は武田軍は北信濃に侵攻し、村上義清と戦っています。その後、村上義清を始めとする北信濃の豪族が隣国:越後の上杉謙信(長尾景虎)に助けを求めたことから、武田軍と上杉軍の戦いが本格化していきます。川中島の戦い(武田軍VS上杉軍)は1553年から1564年の間に計5回行われ、1561年の第四次川中島の戦いが、一番の激戦だと言われています。

この戦いでは武田軍の軍師:山本勘助が武田軍を別動隊と本隊に分け、別動隊が上杉軍の本陣(妻女山)を奇襲し、上杉軍を平地に追いやり、そこを本隊と別動隊で挟み撃ちにする「啄木鳥(きつつき)戦法」が採用され、実行されます。

しかし、上杉謙信はこの作戦を見破り、武田軍に奇襲される前に下山し、霧に紛れて武田軍本隊の前に出現。勢いに勝る上杉軍が合戦を優位に進め、武田信玄と上杉謙信が直接刃を交えたエピソードまで残っています。

危機的状況にあった武田軍を守るために、武田信繁は奮戦しますが、上杉軍の猛攻を前に討ち死にしました(享年:37歳)。山本勘助も乱戦の中で、討ち死にしています。その後、武田軍の別動隊がかけつけ、劣勢になった上杉軍は退却し、勝負は痛み分けに終わっています。

武田信繁の人柄・人物像

武田信繁の人柄や人物像を紹介してきたいと思います。

「真の副将」として高い評価

現代に伝わる「武田二十四将」で、武田信繁は副大将に位置付けられています。これはナンバー2のポジションで、武田家内部での評価が高かったことを証明しています。高評価の理由は、武田信繁が戦場以外でも活躍していたことが挙げられています。

当主である武田信玄の意思を伝える役目を務めたり、対外的には礼状を発行するなどの交渉役も担っていたこともあり、武辺者だけの存在ではなかったようです。また、和歌を嗜むなどの教養を持ち合わせており、公家衆などとの交流もあったようです。

惜しまれた早すぎる死

川中島の戦いで、武田信繁は討ち死にしましたが、武田信玄は遺体を抱いて号泣したと伝えられています。また、武田家の重臣たちもその死を惜しみ、武田信繁が生きていたら、後年の武田信玄と武田義信の対立はなかったとも言われています。敵将である上杉謙信にもその死を惜しまれたという話も残っています。

嫡男の武田信豊に残した99箇条にわたる「武田信繁家訓」は江戸時代の武士の心得として広く読み伝えられており、江戸時代の儒学者:室鳩巣は、「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と絶賛しています。

この「武田信繁家訓」ですが、第一条に「お屋形様に対して、未来永劫、逆意を抱かないこと。屋形様は信玄のこと」と、武田信玄の絶対服従を解いていますが、これは武田信繁が兄:武田信玄への愛情の現れとして読み取ることもできます。

武田信繁の名言・エピソード

武田信繁の名言やエピソードについて紹介していきます。

兄を立て、忠節をつくす

父親の武田信虎は、嫡男の武田信玄ではなく、武田信繁を寵愛していました。1538年の正月に武田信虎は、武田信玄に盃を許さず、武田信繁には盃を許したと伝えられています。武田信繁は、この時14歳でありましたが、増長することななく、あくまで兄の武田信玄を立てることに終始しています。

その姿勢は生涯にわたって続き、自身が元服する際、武田信玄と同時に元服を進められますが、「兄の許可なく元服はしない」旨の起請文を出し、この話を辞退しています。後の武田信玄の許可を得てから、元服したと言われています。

武田信繁は物心つくころから、兄:武田信玄に尊敬の念を持っていたと言われており、家臣にも「武田信玄公は、兄ではなく武田家の当主。私が信玄公の弟であるとか、信玄公の弟の家臣団であるなどとおごり高ぶってはならない」と話していることから、長幼の序を重んじていたことが伺えます。

「長幼の序」とは、中国の儒教の「弟が年長者である兄を敬う」などの考え方で、戦国時代は、後継ぎは長男で、それ以外はその家臣になって仕えることが原則とされていましたが、兄弟で後継者争いが起こっているケースは多くありますが、こうした行動が、武田家内部での信頼を高めていったとも考えられます。

真田信繁は武田信繁にあやかって名付けられた

真田幸村というのは、現代に伝えられている名前で、正しくは真田信繫と言われています。これは父親の真田昌幸が、名副将として呼び声が高かった武田信繁から名前をもらい、後に誕生した息子に「信繁」と名付けたと伝えられています。

ちなみに武田信繁が討ち死にした第四次川中島の戦い(1561年)に真田昌幸(当時は武藤喜兵衛と名乗っていた)は、武田信玄の側近として出陣していたと言われていますので、何らかの接点があったかもしれません。

フィクションにおける武田信繁

フィクションにおける武田信繁について紹介していきます。

信長の野望における武田信繁

武田信繁の能力値ですが、統率:86、武勇:74、知略:79、政治:80と非常に高水準でバランスが良いです。武田家は武田信玄の能力値が異常なくらい高いので、陰に隠れがちですが、文武両道に優れた武将と言えるでしょう。

ドラマにおける武田信繁

武田信繁を主人公にしたドラマはありませんが、武田信玄を描いた大河ドラマの「天と地と(1969年)」、「武田信玄(1988年)」、「風林火山(2007年)」などに登場しています。ドラマでも武田信玄の右腕の武将として、描かれています。

武田信繁は文武両道に優れたナンバー2

武田信繁は、武田信玄の影に隠れてはいますが、文武両道の名将と評価があります。後におこる武田信玄と武田義信の対立や、長篠の戦いでの敗北も武田信繁が生きていたら、防げたかもしれません。

後に江戸時代にも教訓状が伝えられていることから、周囲からの信頼が高かったのは言うまでもありません。武田家の屋台骨を支えた武将とも言えるでしょう。