武田信勝は甲斐武田家最後の当主!その評価と辞世の句とは?

武田信勝は戦国時代に甲斐の大名として全国に名を轟かせた甲斐武田家(武田信玄・勝頼の血筋)の最後の当主であった人物です。名門武田家に生まれ、将来を渇望されながら、その生涯はわずか16歳というとても短い人生を終えた武将です。

この記事では武田信勝の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。武田信勝がどのような人物であったのか、どのようなエピソードを残しているのか、ドラマやゲームなどのフィクションにおける武田信勝など、様々な視点から解説していきます。

武田信勝の基本情報

武田信勝(たけだのぶかつ)は信濃国出身で、戦国時代に生きた武将です。

祖父は武田信玄、父親は武田勝頼、母親は織田信長の養女である龍勝院という戦国切っての有力血筋に生まれました。武田信勝は戦国一の名門と言われた甲斐武田家の実質上の最後の当主に当たる人物でもありますが、その生涯はわずか16歳と短く、惜しまれつつその一生を終えた武将となります。

武田信勝の人生

できごと

名門武田家の嫡子として誕生

武田信勝は1567年に後の武田家第20代当主となる武田勝頼(当時は家督相続前のため諏訪勝頼)の長男として諏訪高遠城で誕生します。

武田信勝の母は尾張の織田信長の養女である龍勝院で、当時良好な関係を築きたかった武田・織田両家による政略結婚で武田勝頼の元に嫁いできました。そのような背景もあって、武田信勝という人物は武田信玄と織田信長という戦国切っての両覇者を祖父に持つという非常に稀有な血筋の武将であったことが分かります。

武田家と織田家の関係性は勝頼と龍勝院の婚姻の他に、信長の嫡男である信忠と信玄の娘である勝姫の婚姻など非常に友好的関係を保っていました。しかし、その後の両家は信長の比叡山焼き討ちなどで関係が悪化していきます。将軍足利義昭の信長征伐の発令もあって信玄も西上作戦を決行し、信長の盟友である徳川家康を攻め立てます。そんな最中であった1573年に、信玄が上洛の志半ばで病没してしまいます。

常勝武田軍の異変

1573年に信玄を失った武田軍は、拠り所であった支柱を失ってその勢いを徐々に落としていってしまいます。

天正3年(1575年)には、初めて大体的な戦で鉄砲を用いたことで有名な「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に敗北を喫してしまいます。武田軍は累計1万人以上の死傷者をだし、赤備えの騎馬軍団として戦国の世に名を馳せた常勝軍団であっても鉄砲という新しい文明には勝てなかったという時代の変化を感じさせる戦いとなりました。またこの戦いにおいて、武田軍は信玄の代から軍団を支えた山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、高坂昌澄などの名将を次々に失います。

武田家はこの長篠の戦いを機に弱体の一途を辿っていきます。

追い込まれた武田家、常勝軍団の最期

前述の長篠の戦い以降、織田・徳川軍の攻撃はますます激化していきました。1575年6月の光明城陥落を皮切りに、諏訪原城や岩村城など対西国に対する重要拠点を次々に失い、状況はさらに悪化していきます。

武田家は領国の再建に向けて外交政策に注力することになり、上杉家の後継問題に仲介する形で上杉との甲越同盟を結ぶ一方で、長年の同盟相手であった北条家との関係は悪化してしまい甲相同盟が破綻となるなど、難局な状況は変わらずに一進一退を極めます。

そんな最中であった1579年に武田信勝は13歳で元服を迎えます。しかし徳川・北条軍からの反攻は収まらず、追い込まれた勝頼は織田信長に和睦を求めますが、これも失敗に終わります。

1582年、武田勝頼・信勝親子は新しく拠点を移そうとしていた新府城を捨てて逃亡を図りますが、家臣の裏切りもあって進路を塞がれてしまいました。織田軍の追ってに追われ万策尽きた勝頼・信勝一行は天目山で自害することを選び、ここに戦国の雄武田家は滅亡することになります。武田信勝は弱冠16歳という短い人生を終えました。

武田信勝の人柄・人物像

祖父信玄からの評価

信玄没後の武田家は第20代当主として息子の勝頼が継ぎますが、実は勝頼は武田信勝が成人するまでの代理当主として見られており、武田家の次期正式当主として指命を受けていたのは信勝の方だったと言われています。

信玄は亡くなる直前に「武田信勝を次期武田家の当主にし、元服するまでの間を勝頼が後見人として代わりを務める」という遺言を残しており、このことから信玄が勝頼よりも武田信勝を評価し、当主としての期待を見出していたことが窺えます。

当主は勝頼ではなく武田信勝にという信玄の思惑はある意味で正しかったことを物語っており、勝頼が代理就任後の武田家に生じた亀裂はあまりにも早く、家中を立て直す間もなく弱体化の一途を辿っていきました。

信玄亡き後の正式な後継者

史実では勝頼が武田家の第20代当主となっていますが、前述の通り信玄が正式に後継者としたかったのは武田信勝でした。

事実長篠の戦い以降、武田家の状況が悪化してからは勝頼は外交政策を重視し、佐竹義重を仲介人とした織田家への和睦要請時には武田信勝を武田家当主とするという条件を設けつつ交渉に挑んでいます。勝頼自身も信玄と戦場を共にし、直接の教えを受けている人物なので期待はされていましたが、あくまでも当主としてではなく武田の代理継承者としてであったことが分かります。

実際に武田信勝が武田家21代当主として就任したのは武田家が終焉を迎える間際となりました。

武田信勝の名言・エピソード

武田信勝の名言・エピソードについて説明していきます。

武田信勝最期の天目山棲雲寺は武田家由来の地

武田信勝が最期を迎えた天目山にある棲雲寺ですが、実はこの棲雲寺は武田信勝を最後とする甲斐武田家滅亡の以前にも同家が一度滅亡しているという遺恨の地でもあります。

一度目の滅亡というのは応永24年(1417年)の出来事で、当時甲斐の守護代であった武田信満が室町幕府に追い詰められて最後の地に選んだのが天目山棲雲寺のあった木賊山という地でした。その後復興した武田家が165年の後に最後の地としたのも棲雲寺周辺となり、武田家の歴史を語る上で外せないゆかりのある場所となっています。

信勝死後の武田家は宗家の血筋は途切れてしまいますが、後に巡り巡って武田信勝の従兄弟にあたる伊豆武田家が高家と認められ存続していきます。

武田信勝の辞世

武田信勝はわずか16歳という若齢で亡くなったこともあり、後世に伝えられるエピソード等はあまり残されていません。その中でも武田信勝の辞世とされている句がいくつか残されています。

まだき散る 花と惜しむな遅くとも つひにあらしの春の夕暮れ

この句は「この春の夕暮れに私は死という旅に出てしまいますが、決して散るのが早すぎる花だとは惜しまないでください。遅かったとしてもいずれは春の嵐に吹き飛ばされるのですから」という意味になります。

名門武田家に渇望されながら若くして命を遂げていった心情が良く分かる辞世となっています。

フィクションにおける武田信勝

フィクションにおける武田信勝を解説していきます。

ドラマにおける武田信勝

武田信勝が目立って登場するようなドラマは生涯が短かったこともあってあまりありませんが、1988年の武田信玄を主役とした大河ドラマ「武田信玄」には、俳優の黒田勇機さんが武田信勝役として登場しています。

信長の野望における武田信勝

シリーズによっても異なりますが、信長の野望「戦国立志伝」の武田信勝は、統率75、武勇67、知略77、政治72と統率や知力に秀でており、短い生涯ながらも平均〜平均上の能力となっています。

武田信勝は名門武田家の誇りを胸に若き生涯を終えた武将

武田信勝は戦国切っての名門軍団武田家に生まれ、武田信玄の正式な後継者として期待された人物でした。信玄没後の武田家の弱体化でその日の目を見ることはついにありませんでしたが、若くして武田の誇りを持って一生を遂げた武将であったと言えるでしょう。

武田信勝の生まれた1567年は伊達政宗や真田幸村など、後の日本史上に名を残した武将が多く誕生した年でもあります。もし状況が異なり、武田信勝が武田家の当主として采配を振るう時代が来ていたならば、真田幸村を家臣として従えて伊達政宗と天下をかけて争うなんてという未来も訪れていたのかもしれません。