武田勝頼と言えば、「武田家を滅亡に追いやった愚将」というイメージがありますが、最近の研究では「武勇に優れた将」という評価に変わってきています。今回は武田勝頼の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。
武田勝頼の基本情報
本名 | 武田勝頼(たけだかつより)、諏訪勝頼(すわかつより) |
生涯 | 天文15年(1546)~天正10年(1582) |
時代 | 戦国時代~安土桃山時代 |
出身国 | 信濃国(もしくは甲斐国) |
居城 | 高遠城(信濃)→躑躅ヶ崎館(甲斐)→新府城(甲斐) |
主君 | 武田信玄 |
官位 | 大膳大夫 |
妻(正室) | 龍勝院(織田信長の養女)、北条夫人(北条氏康の六女) |
子 | 信勝、勝親、貞姫 |
武田勝頼の人生
年 | できごと |
---|---|
1546年 | 誕生 |
1555年 | 母:諏訪御寮人が亡くなる |
1565年 | 龍勝院を正室に迎える。この年に兄:武田義信が自害し、後継者と定めれる。龍勝院は1571年に死去 |
1567年 | 嫡男:武田信勝が誕生 |
1572年 | 西上作戦に参加し、三方ヶ原の戦いなどに参戦 |
1573年 | 父:武田信玄が亡くなり、武田家当主となる |
1574年 | 東美濃に侵攻し、明智城を奪取 |
1575年 | 長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北。北条夫人を新たに正室に迎える |
1578年 | 御館の乱で上杉景勝が勝利。この結果、北条氏政と断交 |
1581年 | 居城を新府城に移す。遠江高天神城が落城し、国人衆の離反が相次ぐ |
1582年 | 甲州征伐が始まり、敗北が続く。追い詰められ、天目山の戦いで自害(享年:37歳) |
幼少期について
武田勝頼は甲斐の戦国大名:武田信玄の四男として生まれました。母は武田信玄の側室:諏訪御寮人で、当初は諏訪氏を継ぐ予定でした。武田信虎(武田勝頼の祖父)の時代には、武田氏と諏訪氏は同盟関係にありましたが、武田信玄が当主になると、同盟関係が破綻し、武田氏は諏訪氏を滅亡に追い込んでいます。
武田勝頼の幼少期については史料は少なく、乳母やもり役がいたのかも疑問視されています。諏訪御寮人を側室に迎えることに武田家中でも反対の声があったこともあり、武田勝頼の幼少期はあまり恵まれてなかったように思えます。
家臣から当主へ
1562年に、武田勝頼は諏訪氏の名跡を継ぎ、諏訪四郎勝頼(武田氏の家臣扱い)と名乗っています。「頼」は諏訪氏の通字ですが、武田氏の通字である「信」がないことから、この時点では武田氏を継ぐものではありませんでした。後に、信濃高遠城主になり、1563年に初陣を果たしています。その後は武田信玄の軍事作戦の多くに加わっています。
1567年に武田家嫡男の武田義信(武田勝頼の異母兄)が、武田信玄の駿河侵攻作戦に反対したために、自害したことにより、武田家の継承者になりました。1573年に武田信玄が病死すると、諏訪勝頼から武田勝頼へと復姓し、武田氏第20代当主となりました。
滅亡へ
武田信玄の死により、窮地を脱した織田信長は機内周辺の敵対勢力を各個撃破していき、1573年には足利義昭を京都から追放しています(室町幕府の事実上の滅亡)。また、武田信玄が存命中には守勢だった織田・徳川軍が逆襲に転じたために、武田勝頼は外征を開始しています。
1574年に東美濃の明智城を攻略し、1575年には三河の長篠城を攻めますが、後詰にやってきた織田信長・徳川家康連合軍と激突します。この戦いで武田軍は多くの重臣を失うなどの損害を被り、敗北(長篠の戦い)。以降、武田勝頼は三河・遠江での影響力を失っていきました。
長篠の戦いでの敗戦後、武田勝頼は国力の増強に務めますが、御館の乱(1578年)における北条氏との断交などもあり、周囲を織田・徳川・北条に囲まれるという苦境に陥ることになりました。1581年に本拠地を躑躅が崎館から新府城に移しますが、高天神城の落城もあり影響力の低下は避けられず、離反する国人も増えていきました。
1582年2月に、一門衆の木曽義昌が織田信長に寝返ったことで、織田・徳川・北条による武田攻めが始まりました(甲州征伐)。これらの侵攻に対し、武田勝頼は抵抗らしい抵抗ができず、新府城も放棄することになりました。
武田勝頼は重臣:小山田信茂の岩殿城に逃げ込もうとしますが、小山田信茂の裏切りにより退路を断たれ、織田軍の追撃もあり、嫡男の武田信勝と正室:北条夫人と共に、自害しました。(享年37歳)。これにより、甲斐武田氏は滅亡しています。
武田勝頼の人柄・人物像
武田勝頼の人柄や人物像について、紹介したいと思います。
武田勝頼の評価について
武田勝頼と言えば、「武田を滅亡に追いやった愚将」というのが旧来の評価でした。「甲陽軍鑑」での武田勝頼は「強すぎる大将」と言われており、慎重さに欠け特定の家臣を寵愛し、武田家滅亡の原因を作ったとする評価が存在しています。これが武田勝頼が愚将という評価に繋がっているようです。
ところが、敵にあたる上杉謙信・織田信長は武田勝頼のことを「武勇に優れた将」として警戒しています。織田信長は家督相続時の武田勝頼については軽く見ていたようですが、1574年の東美濃侵攻で明智城を奪われると高く評価するようになったと言われています。
長篠の戦いは、織田・徳川軍のワンサイドゲームと思われがちですが、実際は武田軍の退路を断ち、突撃せざるを得ないようにした織田信長の作戦勝ちの面もあり、実際の戦闘では織田・徳川軍もそれなりの損害を出しています。
武田氏滅亡の原因は、武田信玄が武田勝頼を正当な後継者とせず陣代(仮の当主)としたことに原因があるという見方もあります(具体的には武田信勝が成人するまでの繋ぎの当主)。この不安定な地位により信玄時代の重臣から軽く見られがちだった武田勝頼が、軍事作戦を繰り返したことで国力の消耗を招いてしまったとも言えます。
北条氏との関係について
武田氏と北条氏は、先代の武田信玄・北条氏康の時代には同盟関係にありました。しかし、武田信玄の駿河侵攻により、敵対関係になりますが、北条氏康は自らの死に際し、息子の北条氏政に「武田と再び同盟をするように」と遺言しています。
この遺言に従い、北条氏政は武田信玄と再び同盟し、1572年の武田信玄の西上作戦には、一部の北条軍が援軍として加わっています。武田信玄の死後も同盟関係は続き、1575年に武田・北条の同盟関係の強化として北条夫人(北条氏政の妹)が武田勝頼(前の正室がなくなったため再婚)の正室になっています。
しかし、上杉謙信の死後、養子の上杉景勝と上杉景虎(北条氏政の弟)との間で御館の乱が勃発。北条氏政は上杉景虎支援を武田勝頼に要請し、当初は武田勝頼も景虎支援でした。しかし、武田勝頼は景勝方と景虎方の和睦を模索し、一時は成立しますが、後の破綻。結果的に上杉景勝が勝利し、上杉景虎が自害するという結果に終わりました。
この結果に北条氏政は武田勝頼を恨み、同盟関係を破棄。変わりに織田信長・徳川家康と同盟し、武田包囲網を形成するに至っています。全方面を敵に囲まれた武田勝頼が窮地に陥ったのは言うまでもありません。
武田勝頼の名言・エピソード
武田勝頼の名言やエピソードについても紹介したいと思います。
北条夫人と武田信勝について
武田勝頼は、1565年に織田信長の養女:龍勝院を正室に迎えています。これは政略的な同盟で当時は武田信玄と織田信長の関係は良好でした。龍勝院は1567年に武田信勝を出産していますが、4年後の亡くなっています。
その後、武田勝頼は北条氏政との同盟の強化のため、14歳の北条夫人を新しい正室として迎えています。つまり、北条夫人と武田信勝は実の親子ではありません。武田勝頼と北条夫人が20歳近くの歳の差夫婦で、むしろ北条夫人と武田信勝の方が年が近いという家族関係でした。
後に、北条氏政との関係が険悪になると、武田勝頼は北条夫人を実家に帰そうとしますが、北条夫人はこれを拒否し、武田勝頼と運命を共にする道を選び、武田氏の安泰を願い、武田八幡宮に願文を寄付しています。この願文は現存しています。
3人は運命を共にし、武田氏は滅亡しています。山梨県の景徳院には武田勝頼の墓の両隣に、北条夫人と武田信勝の墓が並んで残っています。武田勝頼の肖像画に、北条夫人と武田信勝が並んで描かれていることから、家族仲は良好だったのではないでしょうか。
子孫について
武田氏は滅亡しており、武田勝頼の直系の子孫は断絶しています。しかし、後に武田氏は徳川家康によって再興されています。これは武田勝頼の次兄:竜宝の系譜だと言われています。一方で武田勝頼には貞姫という娘がおり、松姫(武田勝頼の妹)と共に武蔵国八王子に逃れたとされ、後に旗本:宮原義久の正室になっており、嫡男:晴克(はるかつ)を出産しています。
宮原家は明治維新まで存続していますが、貞姫については記録が少ないため、実際のところはどうだったのかは分かっていません。
フィクションにおける武田勝頼
フィクションにおける武田勝頼について、紹介したいと思います。
信長の野望における武田勝頼
能力値ですが、統率:87、武勇:89、知略:66、政治:55となっています。軍事面では活躍ができそうですが、内政面だとイマイチな印象です。
ドラマにおける武田勝頼
武田勝頼を主役にしたドラマはありませんが、武田氏関連のドラマには登場しています。どうしても悲劇の武将としての描き方になるので、明るいイメージがないですよね。
武田の最大版図は勝頼時代
長篠の戦いでの敗北、御館の乱での外交の失敗などで縮小しているイメージがありますが、武田家最大版図は勝頼時代です。武田勝頼は、評価が変わってきた武将の1人とも言われていますので、これから新しい発見があることを期待したいと思います。