立花道雪は大友家の大黒柱で「鬼道雪」と呼ばれていた?雷に撃たれた逸話とは?

大友家の重臣として活躍していた立花道雪ですが、実は本人は立花道雪と名乗ったことは一度もありません。大友家は九州の名家で最大勢力を誇っていましたが、龍造寺家や島津家との争いに敗れたことで、やがて勢力に陰りが見えてきます。しかし、立花道雪は最後まで主家の為に力を尽くしています。

今回は立花道雪の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

立花道雪の基本情報

立花道雪の人生

できごと

誕生

立花道雪は、大友家の一族である鎧岳城主(豊後)戸次親家の次男として生まれています。兄が早逝したため、嫡男として育てられています。幼くして母を亡くし、父も病床にあったため継室(父の後妻)に育てられました。元服前の14歳の時に父の名代として出陣し、兵力で勝る敵軍に勝利しています。これが立花道雪の初陣と言われています。

1526年に、父:戸次親家が亡くなり、家督を相続し、元服し、親守(ちかもり)・親廉(ちかかど)と名乗りますが、後に主君の大友義鑑から偏諱を賜り、鑑連(あきつら)と改名しています。1535年と1541年に、相次いで反乱が起こりますが、立花道雪は主君の命令を受け、これを鎮圧しています。

諸勢力との戦い

1550年2月、大友義鑑は嫡男:義鎮(後の大友宗麟)を廃嫡し、三男:塩市丸を後継者にしようとしたことから反発が起き、大友義鑑は義鎮派の家臣から襲撃を受けます(二階崩れの変)。数日後に大友義鑑はこの時に受けた傷が元で亡くなります。この際、立花道雪は大友義鎮の家督相続に力を尽くし、塩市丸派の家臣の追討を行っています。

1553年、41歳になった立花道雪は養子を迎え、戸次家の家督を譲り隠居しています。しかしその後も前線で活躍していることから前線から退いた形跡はありません。その後も大友家の重臣として各地を転戦し、特に筑前・豊前方面で毛利軍との戦いに力を尽くしています。

こうした功績から1561年には大友宗麟の補佐役である加判衆と、筑後国方分・守護代に任命されています。大友家と毛利家の北九州争奪戦は、10年以上続きました。

大友家の衰退

1578年に、大友宗麟は日向に侵攻し島津軍の討伐を企画。立花道雪はこの方針に反対しますが、大友宗麟は日向侵攻を強行。結果的に、大友軍は島津軍に大敗を喫し、以後、大友家は衰退していきます(耳川の戦い)。立花道雪は戦後、大友宗麟や重臣たちを痛烈に批判しています。

1584年に肥前の龍造寺隆信が沖田畷の戦いで、島津家久に敗れ討死しています。これにより、九州は「島津一強」になります。耳川の戦い以後は、大友軍は島津軍に対し守勢に回らざるを得ず、島津方に鞍替えする勢力が続出しますが、立花道雪は大友家のために力を尽くしています。1585年、立花道雪は陣中で病にかかり、73歳で病死しています。

立花道雪の人柄・人物像

立花道雪の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

義に厚い武人だった

道雪というのは法号で、「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。武士も一度を得たならならば、死ぬまで主君を変えず、尽くすことが本懐である」という心情に由来していると言われています。立花道雪は大友家に仕え、死ぬまで大友家のために働いたことから、義に厚い武人として評価されています。

敵将であった龍造寺隆信も「武を好み、文を親しむ当代きっての良将であった」と評価しており、当時の記録も「真の仁義の勇士とは、鑑連(道雪)の様な者のことを言うのだろう。真に武士の手本とすべき者である」と評されています。

その他、甲斐の武田信玄が立花道雪との対面を望んだという話や、毛利軍が敵将だった立花道雪を恐れていたという逸話もあります。

立花家の名跡を継ぎ、大友家の大黒柱に

1571年、大友宗麟は戸次鑑連を筑前の守護職に任命し、そして立花家の名跡を継がせ、立花城督を命じています。大友宗麟は2度反逆した立花家を嫌っており、そんな主君の手前もあり、立花道雪自身は立花道雪と名乗ったことは一度もなく、生涯、戸次鑑連、戸次道雪と名乗っていたとされています。ただ、後世で、戸次鑑連、戸次道雪よりも立花道雪の名が定着したため、そう呼ばれていると伝えられています。

ちなみに城督とは軍の支配・指揮権の一切を任された地位にあたり、城主よりも権限が大きいと言われています。

立花道雪の名言・エピソード

立花道雪の名言やエピソードについても、紹介したいと思います。

輿に乗り、指揮を執っていた

立花道雪は若い時(35歳のころ)、下半身不随になったと言われています。時期は1548年6月5日ころで、炎天下で大木の影で昼寝をしていた立花道雪ですが、急な夕立で雷も落ちかかったが、立花道雪は持っていた太刀で雷を斬ったとされています。これにより立花道雪は下半身麻痺になってしまいますが、雷を斬った太刀は「雷切」と名が付いたと言われています。

以降は輿に乗って指揮を執っていたとされていますが、落雷で下半身不随になったという話が事実なのかどうかは分かっていません。立花道雪が「鬼道雪」と言われるほどの武勇の持ち主であったことから、創作されたエピソードだとも言われています。

立花宗茂は娘婿

立花道雪には跡継ぎの男子がいなかったため、1575年に一人娘の立花誾千代(ぎんちよ)に立花城督(いわゆる女性武将のような立場)を譲っています。これは主家の大友家にも許可をもらった上でのことで、戦国時代でもかなり稀な例として知られています。

1581年に、同じ大友家の宿老であった高橋紹運の長男であった統虎(むねとら)を養子に迎えています。誾千代と結婚後に高橋統虎は戸次統虎(立花宗茂は晩年の名)と名を改め立花家の家督を相続しています。夫婦の仲は良くなかったため、立花道雪の死後に二人は別居しています。1602年に立花誾千代は病にかかり、34歳で亡くなり立花道雪の血縁は途切れています。

立花宗茂は関ヶ原の戦いで改易になりますが、後に旧領の筑後柳河藩の藩主として返り咲いています。その後立花家は明治維新まで続き、廃藩置県後は華族に列されています。

フィクションにおける立花道雪

フィクションにおける立花道雪について、紹介したいと思います。

信長の野望における立花道雪

立花道雪の能力値ですが、統率:95、武勇:87、知略:87、政治:64と大友家だけでなく、全国的にもかなり高スペックだと思われます。政治以外が80後半より上なので、このクラスの武将ならゲームの中でも名将と言えるでしょう。

ドラマにおける立花道雪

立花道雪が道場するドラマは今のところありません。九州の武将を主人公にしたドラマが少ないため、大友、龍造寺、島津あたりの武将を描けば、立花道雪も登場してくるように思えます。

立花道雪は大友家に尽くした義将

立花道雪は家臣に対しても、配慮を欠かさず、酒を酌み交わしたり、時には武具を与えられたりもしました。部下が酒の席でした無礼も、部下が自身の侍女と密通した時も笑って許したとも言われています。そのため、家臣や部下が命がけで働いたとも伝えられています。

いまだドラマに取り上げられていないのが、不思議な武将でもあるので、今後取り上げられることを期待しています。