崇源院(於江与)は2代将軍徳川秀忠の正妻、3代将軍徳川家光の母として知られる女性です。将軍の妻として、大奥の設立に携わったり将軍の継承者をめぐるエピソードがある一方で、前半生は戦乱の荒波の中で生きてきました。
この記事では崇源院の生涯を年表付きで分りやすく解説します。崇源院がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ドラマなどフィクションにおける崇源院など、様々な視点から解説していきます。
崇源院の基本情報
本名 | 江(ごう)、小督(おごう)、於江与(おえよ) 別称:崇源院(すうげんいん) |
生涯 | 天正元年(1573)~寛永3年(1626) |
時代 | 安土桃山時代~江戸時代 |
出身国 | 近江国 |
居城 | 江戸城 |
主君 | 徳川秀忠 |
官位 | 従一位 |
夫 | 佐治一成、徳川秀勝、徳川秀忠 |
子 | 豊臣完子、千姫、珠姫、勝姫、初姫、徳川家光、徳川忠長、徳川和子 |
崇源院(すうげんいん)は安土桃山時代から江戸時代にかけて生きた女性です。徳川秀忠のもとに嫁ぎ、3代将軍・徳川家光や、後水尾天皇の皇后となる和子を出産しました。
崇源院の人生(年表付き)
年 | できごと |
---|---|
1573年 | 誕生 |
1582年 | 母・市が柴田勝家と結婚したため、越前北ノ庄城に移り住む |
1583年 | 賤ヶ岳の戦いで両親が自害。豊臣秀吉に引き取られる |
1583年頃 | 佐治一成のもとへ嫁ぐ |
1584年頃 | 佐治一成と離縁する |
1586~92年頃 | 豊臣秀勝のもとへ再嫁する |
1592年 | 豊臣秀勝が朝鮮出兵中に病死。寡婦となる |
1595年 | 徳川秀忠のもとへ再嫁する |
1604年 | 長男・徳川家光を出産 |
1616年 | 大坂の陣で姉の淀殿を失う |
1626年 | 死去 |
戦乱に翻弄された幼少期
崇源院は天正元年(1573)に、近江国の戦国大名浅井長政の三女として生まれました。母は織田信長の妹・市で、姉には豊臣秀吉の側室となる淀殿(茶々)、京極高次の正妻となる常高院(初)がいます。この姉妹が浅井三姉妹と呼ばれ、戦国時代を代表する女性として知られています。
その年に父・浅井長政は織田信長との対立の末、居城である小谷城を攻め落とされ自害、母・市と三姉妹は城から救出されて織田信長の保護のもと岐阜城に留まります。天正10年(1582)、本能寺の変により織田信長が死去すると、市は柴田勝家と再婚し三姉妹は柴田勝家の居城である。越前北ノ庄城に移り住みます。天正11年(1583)に柴田勝家は羽柴(豊臣)秀吉との賤ヶ岳の戦いに敗北、北ノ庄城は落城し、柴田勝家と市は自害、三姉妹は城を脱出して豊臣秀吉に保護されます。
2度結婚するも、長く続かず
この頃、崇源院は豊臣秀吉の意向により、織田信長の次男・織田信雄の家臣である佐治一成のもとに嫁いだといわれます。この婚姻状況は詳しい記録が残っておらずはっきりとしたとこはわかっていませんが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで佐治一成は織田信雄方について豊臣秀吉と敵対したことから、戦後に所領を追われ崇源院とも離縁したといわれています。
その後、崇源院は豊臣秀吉の甥で丹波国亀山城主の豊臣秀勝の元へ嫁ぎます。時期は不明ですが、天正14年(1586)~文禄元年(1592)の間と考えられています。豊臣秀勝は秀吉の統一事業に従い功績をあげ、信濃や甲斐を与えられますが、崇源院はそれらの所領には赴かず、京都聚楽第にあった秀勝の屋敷に居住していました。崇源院は豊臣秀勝との間に子どもをもうけますが、文禄元年(1592)に秀勝は朝鮮出兵へ従軍中に病死してしまします。
将軍の妻として
崇源院は文禄4年(1595)、のちに2代将軍となる徳川秀忠に嫁ぎます。徳川秀忠との間には、慶長2年(1597)年の千姫を筆頭に、3代将軍となる徳川家光、徳川忠長、和子など2男5女を儲けます。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣で姉の淀殿を失うと、崇源院は元和2年(1616)に養源院で淀殿と豊臣秀頼母子を弔います。この養源院は、淀殿が浅井長政の供養のために建立した寺院で、元和5年(1619)に養源院が火災で焼失したときは崇源院が願い出て、元和7年(1621)に幕府によって再建されました。
崇源院は寛永3年(1626)の死去。遺体は江戸・増上寺に埋葬されました。
崇源院の人柄・人物像
崇源院の人柄や人物像についてまとめます。
様々な場で活躍した子どもたち
崇源院は徳川秀忠との間に2男5女の子を儲けました。長男として三代将軍の徳川家光(幼名:竹千代)、次男に徳川忠長(幼名:国松)。長女の千姫は豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂の陣で豊臣家が滅亡したのちに姫路新田藩主・本多忠刻に再嫁します。末妹の和子は後水尾天皇の皇后となります。その他の娘たちも貴族や藩主などに嫁いでいきました。
また、前夫・豊臣秀勝との間に完子という女児を儲けています。完子は公家の九条幸家のもとに嫁ぎました。九条幸家は後に関白に就任し、崇源院を通じて徳川家と縁付いていたことから京都の公家と江戸の武家の橋渡しを行う重要人物となりました。
長男・竹千代(徳川家光)よりも次男・国松(徳川忠長)を贔屓した?
崇源院は長男の竹千代を粗雑に扱う一方、次男の国松を可愛がり将軍の座に就かせようとしたというエピソードがありますが、その様な記録は存在せず、後世に創作されたものであるようです。このようなエピソードが生まれるに至った背景として、徳川家光の乳母であった春日局の存在があると思われます。春日局は乳母であると共に、大奥を築きあげた人物でもあります。将軍の実母と将軍の乳母という関係性から、覇権争い、女同士の争いといった物語を後世の人々が創っていき、そのなかで国松を可愛がる実母・崇源院VS竹千代を支える乳母・春日局というエピソードができていったと思われます。
崇源院の名言・エピソード
崇源院の名言・エピソードについて解説します。
「崇源院」という名は死後に贈られた!
「崇源院」という名は死後に送られた諡号です。幼名および通称は「督(ごう)」でした。また、「ごう」という音に、崇源院の生地である近江もしくは江戸にちなんで、「江」という字を宛てて、文書に記されることもありました。
発掘された崇源院の遺体
崇源院の墓は東京都港区、東京タワーのそばに立地する増上寺にあります。ここには徳川将軍15人のうち、6人が葬られており、夫の徳川秀忠の墓もここにあります。戦後に行われた発掘調査で崇源院の遺骨が発掘され調査したところによると、小柄で華奢な身体であったようです。また、増上寺に葬られた将軍一門の中で唯一崇源院だけが火葬されていたようです。
フィクションにおける崇源院
フィクションにおける崇源院を解説します。
ドラマにおける崇源院
戦乱に翻弄された浅井三姉妹として、将軍の正室として、大奥のトップに君臨する女性として様々な作品に登場し、泉ピン子さん、高島礼子さん、かたせ梨乃さんなど著名な方々が演じています。
2011年の大河ドラマ「江 姫たちの戦国」では、崇源院が主人公として取り上げられ、その一生にスポットがあてられました。上野樹里さんが崇源院役を演じて話題となりました。
崇源院は波乱を乗り越えて、将軍の妻にのぼりつめた!
崇源院は、前半生では住んでいた城が落城に追い込まれ両親を失うなど、波乱に満ちていましたが、最終的には将軍の妻として君臨することとなります。同時代に生きた女性の中では最も成功した人物だったということもできるのではないでしょうか。
崇源院は遺されている記録が少なく、人物像や性格、容姿などについては謎に包まれています。その分フィクションで描かれる際にはは創作の余地が大きく、描かれ方を見ていくことも楽しみのひとつになると思います。