島津貴久は島津の英主と称えられた!?逸話や人物像とは?

島津氏の歴史は鎌倉時代に征夷大将軍の源頼朝に薩摩の守護を命じられていた島津氏は、わずか6歳の島津忠久から始まったとされています。そこから戦国時代の中期から後期にかけて、力を付けていき九州地域を支配する直前まで迫っていた島津氏。

その島津氏の礎を父だった島津忠良と共に、島津氏の基礎を構築していき数多くの戦場でその名を轟かせていきました。しかし島津貴久が生まれた時には、島津一門が独立するなど家内でも不安定な状況でしたが、島津貴久によって島津宗家の立て直しを図っていきます

今回は島津四兄弟の父だった島津の英主「島津貴久」について生涯や逸話紹介していくとともに分りやすく解説していきます。

島津貴久の基礎情報

島津貴久の情報をみていきましょう。

島津貴久の出身

島津貴久は、中興の祖と呼ばれた島津忠良の長男として薩摩国の田布施亀ヶ城で誕生します。幼少期は虎寿丸または、又三郎などと呼ばれ島津忠良が僧侶だったこともあり学問には秀でていた幼少期を送っていたようで頭の回転が早かったと伝えられています。

島津貴久の一生

できごと

島津氏内部の弱体化

島津貴久が生まれた1500年ごろは、島津一門同士で内紛が発生している状況で島津貴久父の島津忠良は島津家の分家にあたる伊作家の出身でした。周辺の豪族と戦っていましたが、一国人衆でしかなかった島津忠良は豪族による度重なる攻撃によって衰退。

なんとか島津分家に力を借りながら、領土を守っているところで島津宗家の当主が次々と早死にしてしまいます。跡目を継いだ島津宗家十四代当主の島津勝久も、若年だったこともあり島津家の基盤が弱体化していく最中にありました。

この状況に目を付けたのが島津分家五代当主の島津実久で、姉と婚姻関係にあった島津勝久から政権を執り島津宗家の当主になろうと画策していきます。島津実久の動きを阻止するために島津勝久は島津家の有力分家だった伊作家を多く起用していきました。

島津宗家の後継者となる

島津忠良は島津勝久からの依頼によって島津宗家の舵執りを任せられ、島津貴久を島津勝久の養子にすることで島津宗家の基盤を固めようとしていきます。島津忠良の行動に反発をしてきた島津実久でしたが、既に島津勝久と島津忠良の案により島津貴久を島津宗家十五代当主にすることが決定していました。

島津宗家を自身のものにしたい島津実久は、島津宗家に反旗を翻し島津宗家に起用されていた実久方の将を味方に引き入れていきます。情報を聞いた島津忠良は直ぐさま兵を挙げて鎮圧に向かうことになり、島津貴久は清水城で身構えていきました。

島津実久に加担した南薩摩の豪族たちにより、谷山城を攻略され一宇治城・日置城も島津実久に攻略されてしまいます。この間に島津勝久を諜略していた島津実久。窮地に陥っていた島津貴久は、命も辞さない覚悟で城を守る予定でしたが家臣の園田氏に説き伏せられ僅かな手勢を引き連れて清水城を脱しました。

島津分家との決着

諜略されてしまった島津勝久でしたが、老中との対立が深刻化していき島津勝久を島津宗家から排除する動きが強まっていきます。島津宗家が内部的に争っている間に、薩摩南部を掌握していた島津忠良と島津貴久。

島津実久と実久を擁立する老中たちによって遂に追放されてしまった島津勝久は、頼みの綱として島津忠良と島津貴久親子と手を結んでいきます。1536年に鹿児島を発ち伊集院城を奪取し、1538年に加世田城そして1539年には市来の戦いで島津実久隊を打ち破っていきました。

紫原の戦いで島津実久に勝利すると島津実久は島津貴久に降伏していき、島津宗家の跡継ぎと守護職の地位に返り咲き島津家を戦国大名まで登りつめていきます。

島津貴久の人物像

島津貴久がどんな人物だったかを紹介します。

父から島津の志を受け継ぐ

偉大だった父の島津忠良によって衰退の一途を辿っていた島津家をみごと再興することに成功します。初陣を果たすのが、19歳と戦国時代では決して早いほうではなくむしろ遅い方だった島津貴久でした。

南郷城の城主だった桑波田栄景は元々、島津貴久側の味方でしたが島津実久に加担したことで敵対することになります。南郷城で父と共に奇襲攻撃を仕掛けていき瞬く間に南郷城を攻略してしまいました。初陣で奇襲攻撃を仕掛けた武将は、数少なく幼少期から身に付けた学問のおかげもあったことや父の考えを近くにみていたからこそ奇襲を為し遂げることができたことでしょう。

島津四兄弟の父

島津の名といえばいまでは四兄弟の名が知れ渡っていますが四兄弟全員、島津貴久を父としても国主として一目置いている存在だったとされています。そして父島津貴久が生きているうちに成しえなかった旧領を兄弟のそれぞれの良さをしっかりと活かして薩摩・大隅・日向の三州を島津家の領土に戻すことに成功しました。

四兄弟の活躍も島津貴久の軌跡が無ければ、名を天下に響かせることもできなかったことでしょう。

島津貴久の逸話

島津貴久の逸話について紹介していきます。

最新武器だった鉄砲をいち早く使用

1543年にポルトガル船が種子島に漂着してしまい、大隈国種子島の国人衆だった種子島時堯は乗船していた商人が火縄銃を売っていました。この武器に興味をもった種子島時堯は、二丁の火縄銃を買い撃ちかたと火薬の調合方法を学び主君だった島津貴久に火縄銃の取り扱いを伝授していきます。

その後に種子島時堯が火縄銃の撃ちかたの技術を身に付け、量産することに成功し島津貴久が1549年の伊集院氏が守っていた加治木城を攻略する際に日本で初めて戦で火縄銃を使用された記録が鉄炮記に残されていました。戦で使用された火縄銃の威力は凄まじく多くの武将が、入手していき刀の接近戦と弓矢の遠距離戦が主流だった日本の戦に圧倒的な威力をもった火縄銃が投入されていくこになります。

大隈国で大勝

薩摩国の守護代として認められ始めた島津貴久でしたが、鎌倉時代の時に島津領土では無くなってしまった大隈国を何とか島津家の領土とするべく兵を挙げて侵攻を開始していきました。大隈国は古くから多くの国人衆が居た国だったため九州を統一するうえでは、領土拡大の妨げになっている国。

妻との婚姻関係のあった肝付氏が加治木城で籠城し多くの豪族から攻撃を仕掛けられるも、必死の防戦で抵抗していましたが落城寸前に陥っている状況でした。肝付氏の窮地を救うべく祁答院良重の住む岩剣城に攻撃を仕掛け加治木城の包囲網を解こうと思い立ちます。

島津貴久自らが指揮を執り、子の島津義久と島津歳久を先鋒隊として天然要塞だった岩剣城をみごと攻略し首を五十余り討ち取りました。

フィクションでの島津貴久

ドラマやゲームなどの島津貴久を紹介します。

戦国布武における島津貴久

ステータスは平均的で、攻撃84・防御28・計略82・兵力82と際立った能力がなくスキルの威力は高いものの攻撃力があまり高くないためそこまでの威力を発揮できません。史実と異なり島津の基礎を築いた人物とは少々かけ離れたキャラとなっています。

父から学びそして子たちに島津の意志を受け継がせた島津貴久

島津家の歴史は鎌倉時代まで遡り、島津家を守るべく宗家と分家に分けて島津の名を強めていく予定でしたが一枚岩になることができず家中で争っていた島津家でした。状況一変させたのが島津忠良と島津貴久で、島津家を繁栄させるためにあらゆる手を尽くして本来あるべく島津家へと戻していきました。

再興した島津家を一躍飛躍させたの子供たちで、豊臣秀吉・徳川家康と大規模な大名とも駆け引きを行い島津の名を広めていくことになりました。一枚岩の家にした礎を作っていたのは島津貴久でもあり脈々と受け継がれてきた島津の意志を次の世代へと繋げ受け取った島津四兄弟が後世に強い影響を与えることができたことでしょう。