下間頼廉は戦に強い僧侶!鉄砲集団「雑賀衆」との関係も!

下間頼廉は、石山合戦において約10年にわたり織田信長と戦った人物です。僧侶でありながら「大坂左右大将」と称されるほど武勇にたけ、いくつもの戦場に赴き戦います。また、高い戦闘能力を持っていたことで有名な鉄砲傭兵「雑賀衆」とも手を組み、織田信長に抵抗しました。石山合戦で降伏したのちは一向一揆治めることに尽力し、本願寺の発展に努めます。

この記事では下間頼廉の生涯を年表付きで分りやすく解説します。下間頼廉がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける下間頼廉など、様々な視点から解説していきます。

下間頼廉の基本情報

下間頼廉は摂津国出身の戦国時代・安土桃山時代・江戸時代に生きた僧侶です。

本願寺の宗主顕如に仕え、顕如が亡くなった後にはその子・准如に仕えました。

できごと

代々本願寺の坊官を務めてきた家系に生まれる

下間頼廉は、1537年に下間頼康の子として生まれました。下間氏は代々本願寺の坊官(寺院の最高指導者の家政を担当する人物)を担当してきた一族でした。下間氏一族の多くが本願寺をはじめ一向一揆の指導者として活躍しています。下間頼廉は、本願寺第11世宗主の顕如に仕えました。

最後まで織田信長に抵抗

1570年に石山合戦が勃発します。この戦いは天下統一を目指す織田信長に対して、顕如を中心とした一向一揆が石山本願寺に立てこもって抵抗したもので、10年間にわたり断続的に戦いが続けられました。戦いの中で石山本願寺は、延暦寺・浅井氏・朝倉氏・武田氏などとともに、いわゆる「信長包囲網」を形成し織田信長を苦しめました。下間頼廉も石山本願寺軍の武将として織田信長軍と戦います。鉄砲傭兵集団雑賀衆の鈴木重秀(雑賀孫一)とともに「大坂左右大将」と称されました。

下間頼廉は石山本願寺での籠城戦だけでなく、柴田勝家と上杉謙信が戦った手取川の戦いに参戦するなど、織田信長に抵抗をします。しかし、織田信長は抵抗する勢力を徐々に平らげていき、最後に残った石山本願寺も1580年に織田信長に降伏します。降伏の講和条約には顕如の側近3人が署名をしており、下間頼廉はその一人でした。このことからも下間頼廉が石山本願寺側の重要人物であったことを窺うことができます。

長く本願寺に仕える

講和後は顕如に従って本願寺を退去します。そして各地で織田軍に対して抵抗を続けていた一向一揆への説得を行い、反乱を治める役割を果たします。また、豊臣秀吉や徳川家康から、一向宗徒を軍として貸してほしいと依頼された際もそれを退けるなど、戦とは一定の距離を置くような姿勢をとります。

1590年、豊臣秀吉は奥州仕置を行い、奥州の諸領主に対して所領の安堵や没収などの処置を行います。豊臣秀吉による、強引な大名の再配置は多くの不満と軋轢を生み各地で一揆が発生します。下間頼廉は一揆の中核をなす浄土真宗寺院と緊密に連絡を取り、奥州の騒乱が畿内に波及しないよう努めました。

石山合戦後、顕如は一時期紀伊国に逃れていましたが、赦免されて1585年に大阪に天満本願寺が建立されます。下間頼廉も本願寺の経営に携わり、1589年には豊臣秀吉から宅地を与えられ、本願寺町奉行に任じられます。1591年に本願寺は京都に移転、翌年に顕如が死去すると、その子どもの教如と准如による対立が発生し、最終的に准如による西本願寺と、教如の東本願寺に分裂します。下間頼廉はその渦中で最終的に准如側につき、その後の一貫して西本願寺に仕えました。

1626年に死去、90歳という大往生でした。

下間頼廉の人柄や人物像についてまとめます。

戦術に卓越した人物

下間頼廉は、石山合戦では一向一揆方の司令官として織田信長軍と戦いました。石山本願寺はのちに豊臣秀吉により大坂城が建設された地であり、天然の要害といえる地です。下間頼廉はそこに籠城して抵抗するだけでなく、各地に赴き織田信長軍と戦いました。1576年の天王寺の戦いでは小早川隆景とともに木津砦を防衛し、織田信長方の将・原田直政を討ち取るなどの功績をあげました。

主人への義理堅さ

下間頼廉は本願寺の坊官として、顕如が死去するまで彼に仕えました。顕如が各地に赴く際も同行している記録が多くあります。また顕如の死後は、その子どもで西本願寺の住職となった准如に仕え、生涯にわたって支持し続けます。一貫して一人の主人に仕える姿勢から義理堅い人物であるといえるでしょう。

下間頼廉の名言・エピソード

下間頼廉の名言やエピソードについて解説します。

知略家の一面

1576年に加賀一向一揆の司令官を務めていた七里頼周が門徒に対して非道な振る舞いをした際には、門徒から下間頼廉へ、七里頼周を弾劾する文書が送られました。それに対して下間頼廉は行いを改めることを求める文書を発しました。

また、石山合戦後は各地の一揆を治めるよう動くなど、戦略だけでなく知略にもたけた人物であったといえるでしょう。

鉄砲傭兵部隊「雑賀衆」

雑賀衆は紀伊国に拠点を置いていた鉄砲傭兵で、高い軍事力をもつことで有名でした。その雑賀衆の指導者の一人が鈴木重秀で、諸説ありますが「雑賀孫市」も彼のことを指しているといわれています。下間頼廉自身も本願寺一の砲術の使い手であったといわれます。石山合戦ではこの鈴木重秀と下間頼廉とが中心となって織田信長に抵抗しました。

フィクションにおける下間頼廉

フィクションにおける下間頼廉を解説します。

信長の野望における下間頼廉

シリーズによって異なりますが、ステータスは統率92、武勇95、知略90、政治24、義理77、相性52と、統率や武勇などがかなり高い数値を誇っています。プレイヤーの中でも人気が高く、ゲームから下間頼廉という名前を知る人も多いようです。

ドラマにおける下間頼廉

下間頼廉を扱った、もしくは登場したドラマや小説は今のところ見られないようです。ゲーム等により知名度も上がってきており、雑賀孫市はしばしば小説やドラマなどで取り上げられます。下間頼廉の物語が語られる日も遠くないように思えます。

下間頼廉は一貫して本願寺を守り続けた僧侶だった

下間頼廉は、強さだけでなく知力の高さや義理堅さを兼ね備えた人物でした。そして常に自らの主人である本願寺の存続させることに尽力してきました。

石山合戦の間は織田信長という時の権力者に対して、本願寺を守るために徹底的に戦いました。一方石山合戦後は、新たな権力者・豊臣秀吉の下で、一向一揆を治めて為の説得をしていくことになります。一見すると矛盾しているようにも見えますが、本願寺を守る・長く存続させていくという考えは一貫しているように見えます。

西本願寺は京都市民からは「お西さん」という愛称で親しまれる存在です。また、境内は国の史跡に指定され、桃山文化を代表する数多くの文化財を有しており、人気の観光スポットの一つとなっています。下間頼廉の活躍は、煌びやかな桃山文化の発展の一翼を担ったともいえるでしょう。