清水宗治は備中高松城主を務めた武将!最期の姿は豊臣秀吉も絶賛する

清水宗治は毛利家に使えた武将で、特に備中高松城の戦いでの活躍とその最期の姿が語られることの多い忠義心に溢れる人物です。

この記事では清水宗治の生涯を年表付きでわかりやすく解説します。清水宗治がどのような人物であったか、どのようなエピソードを残しているのか、アニメやドラマにおける清水宗治など、様々な視点から解説していきます。

清水宗治の基本情報

清水宗治(しみずむねはる)は備中国出身で戦国時代を生きた武将です。

はじめ石川久武に仕えましたが後に離反し、その後は毛利輝元に仕えました。

清水宗治の人生

できごと

毛利氏家臣となるまで

清水宗治は、1537年、清水宗則の次男として誕生します。この頃の備中国は、毛利氏の後ろ盾を得た戦国大名・三村家親がほぼ全域を統一しており、清水家の主君であった石川久武は、三村家の重臣を務めていました。

しかし、1566年に三村家親が宇喜多直家により暗殺されると、翌1567年に三村家親の子・三村元親が明善寺合戦を起こし宇喜多直家と戦います。石川久武に従って清水宗治もこれに参戦したと思われますが、この戦いで三村軍は大敗を喫します。

1568年に勢いづいた宇喜多直家が備中に侵攻すると、当時安芸国を拠点としていた毛利元就がこれに対抗して戦います。その後、1574年に毛利氏と宇喜多氏は同盟を結びますが、これに怒った三村元親は毛利氏との縁を切り織田信長との内通を開始しました。

毛利家の家督を継いでいた毛利輝元は、同年三村元親に対して小早川隆景を総大将とする8万の大軍を派遣し、備中兵乱が始まります。

清水宗治はこの時に石川久武のもとを離反し、毛利軍として参戦します。戦いは毛利氏の勝利に終わり、かつての主君・石川久武はこの戦いで自刃しています。清水宗治はこの武功によって備中高松城主としての地位を与えられ、以降毛利氏の家臣として活躍していくことになります。

織田信長・羽柴秀吉の中国征伐

毛利氏の家臣となった清水宗治は、小早川隆景の配下として毛利氏の中国路平定に従軍し、大友氏や尼子氏、大内氏残党らとの戦いにおいて武功を挙げ、毛利家内での立場を高めていきます。

1576年頃から、織田信長の中国地方への侵攻が始まり、第一次・第二次木津川口の戦いと、毛利氏対織田氏の戦いが連続するようになり、清水宗治も毛利軍として奮闘したと思われます。

1579年に毛利氏方であった宇喜多直家が織田信長方へと離反し、1580年には2年間続いていた三木合戦が、後世「三木の干殺し」と称される羽柴秀吉による凄惨な兵糧攻めにより終結します。織田信長の天下統一のために残された直近の課題は毛利氏の征伐となり、羽柴秀吉を総大将とする中国征伐が本格化していきます。

1581年には鳥取城での戦いが勃発し、羽柴秀吉は「三木の干殺し」に続いてこの戦いにおいても兵糧攻めを行います。(「鳥取の飢え殺し」と称される)

兵糧が尽きた鳥取城内では餓死者が多発し、ついには人肉喰いをする者も出始める悲惨な状況となり、城を守っていた吉川経家は自らの命と引き換えに城兵や村民の助命を嘆願し、戦いが終結しました。

備中高松城の戦い

続く1582年、羽柴秀吉は次なる標的として清水宗治の守る備中高松城に攻め込みます。清水宗治は、堅城であり難攻不落と言われた備中高松城に籠城しますが、羽柴軍は黒田孝高の発案により、水攻めという戦国史上に残る奇策を講じます。

城を取り囲む堤防をわずか12日という短期間で築きあげ、さらに梅雨時期であったことも重なって、備中高松城はすぐに孤島と化します。清水宗治は毛利家より援軍が不可能であるため降伏せよと伝えられますが、自分の命を城とともにしたいとこれを拒否します。

そして同年5月31日に本能寺の変が勃発し、6月3日にこれを知った羽柴秀吉は、一刻も早く明智光秀を討伐するために、6月4日、毛利氏への和睦をもちかけます。その条件は、備中高松城の明け渡し、毛利氏の領地の一部を割譲すること、毛利氏から人質を差し出すこと、そして清水宗治の切腹でした。

この時、清水宗治含め毛利軍は本能寺の変の勃発を把握していませんでした。しかし、既に備中高松城内は疲弊しており、「三木の干殺し」「鳥取の飢え殺し」のような悲劇となることが、目前に迫ってきた状況にありました。

清水宗治は、自分の命を引き換えに城内の者の命が助けられるならばと、切腹を決め、毛利軍と羽柴軍の和睦が成立します。清水宗治は羽柴秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を催した後、身なりを整えて、小舟に乗って羽柴軍本陣まで漕ぎ出で、盃を交わします。そして舞を披露した後、兄や弟らと共に自害しました。46歳でした。

清水宗治の人柄・人物像

清水宗治の人柄や人物像について説明します。

毛利家での評価と上月城の戦い

石川久武を裏切って毛利家家臣に加わった清水宗治でしたが、非常に真面目な性格であったとされ、忠誠心厚く精励し、小早川隆景をはじめとする毛利氏首脳陣から深く信頼されるようになりました。

備中高松城は中国地方防衛における重要な拠点であり、その城を一任されたことからも、毛利家中でいかに清水宗治が高い評価を受け信任されていたかがわかります。

小早川隆景に従って参戦した1578年の上月城の戦いの最中には、備中高松城内に居た清水宗治の子・清水景治が織田信長と通じた家臣により誘拐されそうになる事件が発生します。誘拐犯である家臣は、息子を返して欲しければ戦いから手を引けと要求してきました。

しかし、清水宗治は「武士の子として生まれたからには、息子も自分がどうすべきかわかっているはずである。今ここを離れては、主君に迷惑がかかる。もし私が戦場を離脱するようなことになれば、その時は源三郎(=清水景治)もろとも殺して構わない」と言い放ち、戦いを続けました。

これを聞いた小早川隆景が清水宗治を説得して帰城を許すと、清水宗治は息子を取り返した後、再び上月城に戻って戦い、武功をあげたと言われています。

のちにこの清水景治は、主君の毛利輝元より、「父宗治は古今稀に見る素晴らしい武将だった」と記された書簡を受け取っています。

豊臣秀吉からの評価

備中高松城の戦いでの和睦が成立し、いち早く明智光秀討伐に向かいたかった羽柴秀吉ですが、「清水宗治の死を見届けるまでは出発出来ない」と、清水宗治の切腹が終わるまでその出発を遅らせています。

そして小舟で舞を踊ってから潔く切腹した清水宗治の姿に深く感動し、のちに小早川隆景と再開した際には「清水宗治は古今武士の明鑑なり」と賞賛し、度々備中高松城の戦いについて語り合ったと言われています。

備中高松城水攻めの開始前にも、蜂須賀正勝らを通して、降伏すれば備中一国を与えると持ちかけており、また戦後には清水宗治の子・清水景治を自らの直臣とし知行1万石を与えようとするなど、羽柴秀吉がいかに清水宗治を高く評価していたかがわかります。

なお、清水景治は、父と同じく最後まで毛利家家臣として貢献したいと、この申し出を拒否しています。

清水宗治の名言・エピソード

清水宗治に名言やエピソードについて解説します。

辞世の句

清水宗治は、「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」と辞世の句を残しています。

清水宗治の最期の姿は、羽柴秀吉はじめ多くの人々から賞賛されて、この時の作法が切腹の基本となり、「切腹=武士としての誇り高い死に方」という考えが定着するとうになったと言われています。

一説では、この辞世の句は、後に長州藩士として存続した清水家が、家名を高めるために後から製作した歌であるともされています。

清水景治への遺言

備中高松城での切腹の前日、清水宗治は小早川隆景の元に人質として入っていた幼い息子・清水景治へ「身持ちの事」という遺言を残しています。

「恩を知り慈悲正直にねがいなく 辛労気尽くし天に任せよ」

「朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつつしめ」

「談合や公事と書状と意義法度 酒と女房に心みたすな」

というたった3行の短い遺言ながら、切腹させられることに対する恨みは微塵も感じられず、ただ息子の将来を想う父親としての気持ちが読み取れるものとなっています。

ごうやぶ遺跡と胴塚

備中高松城三の丸総門の傍あたりには、清水宗治の舟を追った家臣達が「一足先に三途の川でお待ち申し上げております」と互いに刺し違えて殉死した場所があり、現在は「ごうやぶ遺跡」と名付けられて史跡となっています。

また、切腹した清水宗治の胴体が舟に乗って本丸に帰ってきた際、それを迎えた家臣や身内の者達は押さえ切れぬ涙を流しながら、池の下丸と呼ばれる地に手厚く埋葬したと言われ、その地が清水宗治胴塚として残っています。

その墓穴に臨んだ介錯人の国府市佑は、ここで自害し清水宗治の後を追ったと言われています。

フィクションにおける清水宗治

フィクションにおける清水宗治を解説します。

信長の野望における清水宗治

シリーズによっても異なりますが、清水宗治のステータスは、統率83、武勇77、知略69、政治50となっています。

清水宗治は毛利家の忠臣であり最期の姿は多くの武士から尊敬された

清水宗治の当初の主君・石川久武に対する裏切りは、石川家の主君・三村家の状況を考慮すると、清水家を存続させるためにもやむを得ない決断であったのではないかと推測出来ます。

そしてその後は、毛利氏家臣として厚い忠義心を発揮してその中国支配に貢献しており、特に備中高松城の戦いにおいては、主君から降伏するよう説得されても城とともに最期まで戦いたいと拒否するなど、その義理堅く勇敢な性格が垣間見得ます。

そして見事に切腹を果たした最後の姿は、正に勇敢で誇り高い武士の姿そのものであり、切腹は武士の美学であるという新しい常識を定着させ、多くの武士に尊敬された名将であると高く評価することができるでしょう。