島津義久は弟たちや家臣に信頼された大将!エピソードや逸話について!

島津四兄弟の長男:島津義久ですが、自身は本国からほとんど出ず、3人の弟や家臣たちを各地に派遣して、勢力を拡大していきました。隠居後も発言力を有し、島津家が江戸時代以降も大名として存続するために力を尽くしました。

今回は、島津義久の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言や逸話について紹介したいと思います。

島津義久の基本情報

島津義久の人生

できごと

誕生

島津義久は、島津家15代当主:島津貴久の嫡男として生まれました。幼少期は大人しい性格だったようですが、祖父の島津忠良(日新斎)は、島津義久に総大将の徳が備わっているとして期待していました。元服直後は祖父と同じく忠良と名乗り、その後は義辰(足利義輝から偏諱)、義久と改名ています。

1554年に島津義久は初陣を果たすと、1570年には島津家は薩摩統一を果たしています。この間の1566年に、島津家は、父:島津貴久が隠居し、島津義久が当主になっています。その後は、大隅と日向にも勢力を拡大し、1573年に大隅を統一し、1576年には日向の伊東氏を破っています。

強敵を破り九州統一へ

日向の伊東義佑は豊後の大友宗麟の元に亡命。大友宗麟は1578年に大軍を率いて日向に侵攻し、ここに島津軍と大友軍の全面対決が始まります。兵力においては大友軍が島津軍を凌駕していましたが、団結力に勝る島津軍は「釣り野伏」という戦法を使い、大友軍を次々と破っていきます。大友軍は退却し、以後大友家は衰退していきます(耳川の戦い)。

1580年、島津家と織田信長との間で交渉が開始されています。これは織田信長が毛利家討伐に大友家を参戦させるため、敵対していた大友家と島津家を和睦させる目的があったと言われています。最終的に島津家は織田信長を「上様」と認めて大友家との和睦に応じています。しかし、1582年の本能寺の変で織田信長が亡くなったため、大友軍の毛利攻めは実現していません。

大友家の衰退に並行して、肥前の龍造寺隆信が台頭し、島津家と龍造寺家の間にも緊張関係が生まれます。1584年に島津義久は弟:島津家久を総大将として島原に送り、龍造寺家から離反した有馬家の救援に向かわせました。

戦況は龍造寺軍が圧倒的に優位でしたが、島津家久は湿地帯に龍造寺をおびき寄せ、これを破りました(沖田畷の戦い)。龍造寺軍は当主:龍造寺隆信や重臣が数多く討ち死にし、後に島津軍の軍門に下っています。

その後も島津軍は勢力を拡大し、九州統一も目前になっていましたが、1587年に豊臣秀吉の大軍の前に敗れ、後に島津義久は降伏。この時に剃髪して名を龍伯と改めています。この時に弟の島津義弘に家督を譲ったとされていますが、形式的なものだったとも言われています。島津家は領地を削られ、領有が認められたのは、薩摩・大隅と日向の一部でした。

隠居後も発言力を有していた

豊臣政権下では、島津家は朝鮮出兵などで活躍しています。この頃は島津義久が表舞台に出た形跡はほとんどなく、豊臣家も弟の島津義弘を当主として扱っていたと思われます。1600年の関ヶ原の戦いには島津義弘・忠恒が西軍として参戦。東軍の勝利後に九州の諸大名により、薩摩攻めが計画されますが、これは中止になっています。

1602年に島津義久は、甥の島津忠恒(のち家久に改名)に当主の座を譲り、隠居したとされていますが、以降も江戸幕府と書面でのやりとりをするなど死ぬまで発言力を有していたと言われています。1604年に大隅の国分城に移り住み、1611年に79歳で病死しています。

島津義久の人柄・人物像

島津義久の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

弟たちを信用して本国で待機

島津四兄弟は、3人の弟(義弘、歳久、家久)が前線で戦い、島津義久は本国からでなかったというイメージがありますが、1578年の耳川の戦いには島津義久も参陣しています。この戦いは島津軍と大友軍との決戦だったので、大将自ら参戦せざるを得なかったのかもしれません。大友宗麟はこの戦いには参戦しておらず(正確には後方に待機していた)、大友軍は結束を欠いていました。島津軍の勝利は結束力の賜物だったように思えます。

島津忠良は、「島津家中興の祖」とも呼ばれており、富国強兵と共に、4人の孫の適性も見抜いていました。この見立て通りに、島津四兄弟が動いたことが後の島津家の勢力拡大に繋がったとも言えます。

徳川家康からは高評価

徳川家康は島津義久に興味があり、島津豊久(島津義久の甥)を大坂に招き耳川の戦いの顛末を聞いたそうです。島津豊久が話をし、退室した後で徳川家康は家臣に「いやはや、島津義久はかねて聞いていたよりも恐ろしい大将である。いにしえの楠木正成に勝るとも劣らない采配ぶりだ」と感心したと言われています。

また、徳川家康から合戦での手柄話を聞かれた島津義久は「弟たちや家臣たちを派遣して、合戦をさせて勝利をおさめただけなので、自分の働きなどは一つもない」と答えています。これを受け徳川家康は、「自ら手を砕くことなく勝利を得ることこそ、源頼朝に並ぶ大将の道」と、こちらも感心していたと伝わっています。

島津義久の名言・エピソード

島津義久の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

肖像画のエピソード

島津義久は、自分の部屋に歴史上の大悪人の肖像画を飾っていました。不思議に思った家臣にその理由を尋ねられると、島津義久は「良い行いは自分がしようと思えばできる。だが、悪い行いは知らずのうちにしてしまうものだ。常にこの連中の顔をみて、こいつらと同じ真似はするまい、そう心掛ければ道を誤ることはない」と答えています。

またこの時代に武将にしては珍しく、島津義久本人の肖像画は残っていません。その為、容姿に関しては不明なことが多く、島津義久の肖像画の代わりとして木像が使われています。

末弟:島津家久への気遣い

島津四兄弟の中で、末弟の島津義久だけは母親が正室ではない上に、高貴な身分ではありませんでした。ある日、兄弟4人で馬に乗って出かけていた時に、島津歳久が「こうして様々な馬を見ていると、馬の毛並みは母馬に似ています。人間も同じでしょうね」と言いました。

島津義久は言いたいことを察し、「母に似ることもあるが、一概にそうとも言い切れない。父馬に似る馬もある。人間も同じようなものだと言っても、人間は獣ではなく心の徳がある。学問で徳を磨けば、不肖の父母よりも優れ、また怠れば、父母に劣る人間になるだろう」と答えました。

これを聞いた島津家久は以来、学問と武芸に励み、片時も無益に過ごすことはなく、数年のうちに文武に優れた武将となり、島津四兄弟の優劣はなくなっと言われています。

フィクションにおける島津義久

フィクションにおける島津義久について、紹介したいと思います。

信長の野望における島津義久

信長の野望における能力値ですが、統率:83、武勇:63、知略:84、政治:92、と内政力が高めです。しかしながら、統率も80以上なので、軍事面でも出番がありそうです。

ドラマにおける島津義久

幕末の西郷隆盛や大久保利通などが登場するドラマはありますが、戦国時代の島津家や島津義久が登場するドラマはありません。九州地区の戦国武将が登場するドラマは少ない気がするので、ドラマにするけっこう面白い気がします。

島津義久は弟たちや関心に信頼された大将

島津義久は関ヶ原の戦いの後は、徳川家康と交渉し、島津家の存続に成功しています。約250年後には、島津家は薩摩藩として明治維新の立役者となります。これは幕末の藩主:島津斉彬が西郷隆盛や大久保利通などを登用したことに影響しています。

戦国時代とは関係がないように思えますが、戦国時代の島津家四兄弟の躍進や、幕末の薩摩藩の台頭は独自の教育システムに由来しています。島津四兄弟の場合はシステムというより、祖父の島津忠良の教育によるものによるかもしれません。

株式会社:島津製作所は、大名家の島津家の血縁はありませんが、創業者の祖先が島津義弘が家紋と島津姓を与えられたと言われています。今後、大名としての島津家にスポットがあたることを期待しています。