柴田勝家は鬼柴田のあだ名を持つ猛将!妻はお市の方で最期は豊臣秀吉に破れる

柴田勝家は織田家譜代家臣として織田信長に仕えた北陸の雄であり、最期は豊臣秀吉に破れ、お市の方と悲劇的な最期を迎えたことでも有名です。

この記事では柴田勝家の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。柴田勝家がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける柴田勝家など、様々な視点から解説していきます。

柴田勝家の基本情報

柴田勝家(しばたかついえ)は、尾張国出身で、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。

織田信秀の死後、はじめは織田信長の弟・織田信勝に仕えましたが、後に織田信長に鞍替えしました。

柴田勝家の人生

できごと

織田信勝時代

柴田勝家の生まれや若年期については、はっきりとわかっていませんが、1522年頃、尾張国で柴田勝義を父として誕生したと言われています。

織田家に仕え始めた年代もはっきりしていませんが、織田信長の父・織田信秀の時代には既に重臣となっており、1551年に織田信秀が死去したあとは、織田信勝に家老として仕えました。

織田信勝は織田信長と同じく、織田信秀正室・土田御前を母とする弟でありましたが、土田御前は「尾張の大うつけ者」と呼ばれた織田信長に対して、品行方正な振る舞いで礼儀正しい織田信勝の方を偏愛したと言われています。

織田信秀は生前、自身は末森城を本拠地としながら、那古野城を織田信長に与え、共同で領国統治を行う二元体制を敷いていました。織田信秀が死去すると、父に変わって織田信勝が末森城に入り、織田家内は2派閥に分裂した状態となりました。

この頃の織田家は、織田宗家の清洲織田家と、織田信長・織田信勝が所属する庶流の織田弾正忠家が、織田家の実権を巡って対立しており、1552年、萱津の戦いで両者が衝突します。

柴田勝家は大将格で出陣し、清洲織田家の実権を握っていた坂井甚介の首と共に30騎の首を討取る武功を挙げ、この戦いを勝利に導きました。

こうして織田宗家との戦いを共に戦った織田信長と織田信勝でしたが、両者の対立関係は続いたままでした。

織田信長は美濃国斎藤道三の娘・帰蝶を正室に迎え同盟を締結していましたが、1556年に長良川の戦いで戦死しており、前1553年には傳役であった平手政秀が自殺するなど、織田信長を取り巻く環境は悪化していました。

柴田勝家や林秀貞は、織田信長では織田弾正忠家をまとめられないと考え始め、代わりに織田信勝を擁立しようと画策します。

こうして1556年、稲生の戦いとなり、柴田勝家は約千人の軍を率いて出陣します。柴田勝家の奮闘により、織田信長の重臣・佐々孫介などを討ち取ることに成功しますが、後に逆転され、最終的に織田信長軍が勝利します。

戦後、土田御前の取りなしによって織田信勝は助命されますが、柴田勝家や林秀貞も織田信長に謝罪し忠誠を誓うことで許されます。

助命された織田信勝はその後も謀反を計画しますが、柴田勝家は戦後織田信勝を見限っており、「織田信長が病に臥している」と騙して清洲城に呼び寄せ、そこで織田信長により誅殺されます。

『信長公記』によれば、柴田勝家が織田信勝を見限った原因は、稲生の戦いの後、若衆の津々木蔵人を重用し、柴田勝家を蔑ろにしたからだと言われています。

織田信長に再重用される

織田信勝の死後、織田信長の家臣となった柴田勝家でしたが、織田信勝方の重臣であったことから暫くは重用されず、桶狭間の戦いや美濃平定戦では参陣を命じられませんでした。

しかし、1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと、再度重用されるようになっていきます。

織田信長が畿内の覇権を巡って争った1568年の観音寺城の戦い(対六角義賢)や、同年の勝竜寺城の戦い(対三好三人衆)では、森可成らと共に先鋒として出陣して勝利し、その後京都における行政を担当するほど信頼されました。

1569年から開始した伊勢侵攻で北畠氏と争った後、1570年に浅井長政が織田氏から離反すると、柴田勝家は近江国・長光寺城に配され、同年6月、観音寺城の戦いの敗北の後体勢を立て直した六角義賢を再び戦いました。(野州河原の戦い)

続いて浅井・朝倉・六角軍と衝突した姉川の戦い、三好三人衆と石山本願寺勢と衝突した野田城・福島城の戦いと連戦しました。姉川の戦いで敗北した浅井・朝倉軍の残党は比叡山延暦寺と結んで志賀の陣が勃発し、その後の比叡山焼き討ちにも参加しました。

野田城・福島城の戦いを端緒に開始され、以降1580年まで続く本願寺勢力との戦いですが、1571年に長島一向一揆が発生すると、柴田勝家も主に美濃衆を主力とした軍隊を率いて出陣します。この戦いは敗北に終わりますが、柴田勝家はその殿を務めています。

北ノ庄城主となるまで

上洛して間も無くしてから、将軍・足利義昭と織田信長の関係は悪化の一途を辿っており、1573年についに足利義昭が今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反織田信長の意志を示しました。

柴田勝家は明智光秀らと共に両城を攻撃してこれを陥落させた上、和睦を拒否した足利義昭に対する脅しのため、幕臣や支持者が居住していた上京全域の焼き討ちを行いました。

しかし、足利義昭は反織田信長の姿勢を崩さず槇島城にて挙兵し、柴田勝家はここで7万という大軍を率いて総攻撃を仕掛け、これを降伏させました。その結果足利義昭はついに京都から追放され、ここに室町幕府が滅亡を迎えたのでした。

同年、浅井・朝倉軍の残党と一乗谷城の戦いに先手として出陣して朝倉義景を自害に追い込み、続く小谷城の戦いで浅井長政を自害させ、ついに両氏を滅亡させました。

なお、小谷城の戦いで先鋒を務めたのは、急速に台頭してきた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)でありました。

その後、第二次長島一向一揆討伐戦や、高屋城の戦い、長篠の戦いにも参陣し、織田家重臣として武功を上げていきます。そして、1575年、朝倉氏滅亡後の越前国八郡49万石を与えられ、北ノ庄城入城を果たしました。

北陸の抑えとして

こうして北ノ庄城主となった柴田勝家は、北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治らの与力を付けられます。

1577年、隣国加賀に上杉謙信が侵攻を開始すると、柴田勝家はこれと対峙することとなります。しかし、軍議において援軍に来た羽柴秀吉と対立し、羽柴秀吉が織田信長の許可なしに戦線を離脱してしまいます。

これによって足並みが乱れ、七尾城などを陥落された後、手取川の戦いで上杉軍に大敗を喫しました。

1580年には、織田信長と本願寺顕如の間で講和が締結されたため、長年に渡った本願寺勢との戦いが収束することになりましたが、加賀を代表に北陸方面の本願寺勢力はいまだ勢力を保持しており、両者の講和を受けてさらにその活動を活発化させました。

これに対して柴田勝家は一向一揆の司令塔・金沢御堂を攻め滅ぼし、軍を北加賀・越中境まで進めて一向一揆衆を制圧、加賀平定を果たします。

その勢いのまま能登国・越中国にも進出を果たし、同時期に織田家の重臣・佐久間信盛が本願寺攻略の不首尾などを原因として失脚したため、柴田勝家が織田家家老の筆頭となりました。

1581年に織田信長が行なった京都御馬揃えでは「北陸衆」と呼ばれたグループの先頭として、前田利家らを率いて参列しています。

1582年3月、織田信長の命を受け、柴田勝家は上杉氏の魚津城への攻撃を開始します。

3ヶ月の戦いの末、6月3日に魚津城は陥落し上杉方の守将13人が自刃して勝利しますが、その前日6月2日に本能寺の変が発生しており、織田信長が明智光秀の軍勢を前に横命していました。

柴田勝家は魚津城落城の時点でこの事件を知らず、数日後報を受けて直ちに全軍撤退して北ノ庄城に戻りますが、上杉勢による妨害もあり、到着したのは18日となっていました。

この時すでに中国大返しを行なった羽柴秀吉が6月13日の山崎の戦いで明智光秀を討ち取っており、主君の仇討ちを果たすことが出来ませんでした。

賤ヶ岳の戦い

織田信長の死後、6月27日に後継と領地の分配を決定するため、清洲会議が開催されます。集まったのは、柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興の4人の重臣でした。

織田家の後継については、次男・織田信雄と三男・織田信孝が互いに主張したために対立しましたが、柴田勝家は織田信孝を支援しました。

ところが、山崎の戦いを制した羽柴秀吉の発言力は強く、結局織田家の跡取りは、織田信長と共に本能寺の変に散った長男・織田信忠の子、三法師に決定しました。

領地の再分配については、柴田勝家は越前国を安堵のうえ、羽柴秀吉の領地であった長浜城と北近江3郡12万石の割譲を受けることとなりますが、一方の羽柴秀吉はこれまでの丹後国を安堵のうえ河内国と山城国の加増を受け、その合計の石高は柴田勝家を逆転することとなりました。

清洲会議の結果、これまで織田家重臣筆頭であった柴田勝家の発言力低下が露わとなり、これと変わって羽柴秀吉が重臣筆頭にのし上がることとなりました。

会議終了後、羽柴秀吉は織田信長の葬儀も主催し、その後継者としての地位を世間に示しました。手取川の戦いの前から対立していた柴田勝家と羽柴秀吉の不仲は益々強まり、それぞれが派閥を形成し、一触即発の雰囲気が高まっていきました。

なお、清洲会議において柴田勝家は諸将の承諾を受けて織田信長の妹で浅井長政の正室であったお市の方と結婚しています。

この結婚についてはお市の方が羽柴秀吉を嫌って自ら望んだ、柴田勝家の不満を抑えるために羽柴秀吉が両者をとりもった等諸説ありますが、8月に2人は婚儀を挙げました。

1583年、柴田勝家と手を結んでいた滝川一益が伊勢国長島城で挙兵すると、羽柴秀吉はこれを受けて出兵しますが、柴田勝家も佐久間盛政・前田利家らを率いて近江国にむけて進軍します。

羽柴秀吉は長島城に1万程の軍勢を残して、5万程の軍勢を近江国に向かわせて、ついに賤ヶ岳の戦いが勃発します。

両軍共に強固な砦を築き、戦況は硬直状態となりましたが、前年に羽柴秀吉に降伏させられていた織田信孝が再び挙兵して岐阜城下に進軍すると、羽柴秀吉は伊勢、美濃、そして近江賤ヶ岳の三方面を囲まれる窮地となります。

羽柴秀吉が賤ヶ岳に兵力を残して美濃にも進軍、大垣城へと移ると、これをチャンスと見た柴田軍の重鎮・佐久間盛政の進言により柴田軍は総攻撃を開始します。

これによって羽柴軍の中川清秀を討取るなどの戦功が挙がりましたが、柴田勝家が退却の命令を下しても佐久間盛政はこのチャンスを逃すまいとしてこれを聞かず、前線への着陣を続けました。

しかし、ここで大垣城にいた羽柴秀吉が「美濃大返し」を行なってわずか5時間で賤ヶ岳へと戻ると、柴田軍の優勢は止まり、両軍の激戦となりました。

この激戦の最中に、柴田軍についていた前田利家が突如戦線を離脱してしまいます。前田利家の離脱により柴田軍は混乱に陥り、ついに軍勢が崩れ、柴田勝家は北ノ庄城へと退却することを決定しました。

無事北ノ庄城にたどり着いた柴田勝家でしたが、間も無く城を羽柴軍に囲まれ、ここでお市の方と共に自害しました。62歳でした。

『毛利氏文書』には柴田勝家の最期について、

「天主の最上の九重目に登り上がり、総員に言葉をかけ、勝家が”修理の腹の切り様を見て後学にせよ”と声高く言うと、心ある侍は涙をこぼし鎧の袖を濡らし、皆が静まりかえる中、勝家は妻子などを一刺しで殺し、80人とともに切腹した。

寅の下刻(午後5時)だった。勝家は十字切りで切腹し、侍臣の中村聞荷斎を呼び介錯させた。これに殉死するもの80余人。聞荷斎はかねてから用意した火薬に火をつけ、天主とともに勝家の一類はことごとく亡くなった」

と記しています。

柴田勝家の人柄・人物像

柴田勝家の人柄や人物像について説明します。

無骨な性格

織田家随一の無骨者であったと言われる柴田勝家には、「鬼柴田」という渾名があり、柴田勝家自身も、「自分は信長公に仕えて今に至るまで、戦功およそ24度に及ぶから、誰々が出世したといっても心許ないことだ」と語っていました。

数々の戦において主力となり目覚ましい活躍をした柴田勝家は、「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」と織田家臣4将を表した小唄ができる程でした。

この小唄の意味は、木綿のように地味だが実用的で重宝する羽柴秀吉、米のようになくてはならない存在の丹羽長秀、勇猛で突撃に掛かる強い柴田勝家、退却戦が上手い佐久間信盛、というものです。

その無骨な性格は私生活にも現れており、60歳でお市の方を正室として迎えるまで、正式な結婚をしたことがありませんでした。(柴田勝里と柴田勝忠は庶子)

ルイス・フロイスによる評価

織田信長に仕えた宣教師ルイス・フロイスは、著書『日本史』の中で、柴田勝家について以下のような評価を記しています。

「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」

「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」

また、『日本報告』の中では、賤ヶ岳の戦いに敗北した柴田勝家が、離反した家臣に対して恨み言を言わず、最後まで付き添った家臣たちには生き延びることを許し、むしろそれを喜んだこと、今生においてはこれまでの家臣たちの愛情に報いるすべが無いと嘆いたと記しており、柴田勝家の温情ある人柄を讃えています。

柴田勝家の名言・エピソード

柴田勝家の名言やエピソードについて解説します。

瓶割り柴田

1570年、六角義賢と争った長光寺の戦いの前哨戦として、当時柴田勝家が守っていた長光寺城で戦いがあったと言われており、この戦いでの逸話が、「瓶割り柴田」と言う柴田勝家の渾名の由来となっています。

長光寺城を囲んだ六角義賢が、郷民から「長光寺城内は水が出ず、後ろの谷から水を引いて来ている」と聞きつけ、家臣に命じて水源を止めさせました。

水止めを受けた柴田勝家は、城内に残っていた水瓶3つを並べて、家臣たちに「このままでは渇して死ぬのが目に見えている。力のある内に必死の戦いをしよう」と呼びかけます。

そして3つの水瓶を割ってしまい、後に退けぬ状況を作り上げ、戦意の沸騰した柴田軍が見事六角軍を大敗させたのでした。

越前国統治

柴田勝家と言えば無骨で戦に生涯を捧げた武将のイメージがありますが、1576年に越前国を与えられたあとは、その領国支配においても優れた手腕を発揮しています。

壮大な天守閣を持つ北ノ庄城を築城して城下町を築き上げ、朝倉氏滅亡後に路頭に迷っていた商人や職人達を呼びよせ、商業を活発化させました。

北陸街道の整備、寺社の保護、橋架工事(足羽川にかかる「九十九橋」)、刀狩りも行なって領国整備・治安維持に努め、1577年には検地も行なっています。

治安維持を目的に定めた「北庄法度」や、荒廃した農村を復興させるための農民への掟書も発令しています。

前田利家への言葉

前田利家にとって柴田勝家は、与力として配属されてからの上司であり、北陸で苦楽を共にした仲で、前田利家は日頃柴田勝家を「親父様」と呼ぶ信頼関係にありました。

その一方で、羽柴秀吉とは2つしか年が違わず、織田信長から「猿(=羽柴秀吉)」、「犬(=前田利家)」と呼ばれて可愛がられた大親友でありました。2人の正妻同士(芳春院と北政所)も仲が良く、大変親しい関係を持っていました。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と羽柴秀吉の板挟みとなった前田利家ですが(一説では、事前に羽柴秀吉の調略があったとも)、戦いの終盤、柴田勝家を裏切り、敗戦に追い込んでしまいます。

戦後、2人は府中城で対面しますが、柴田勝家は前田利家を責めず、数年来の骨折りを謝して「羽柴秀吉と仲が良いのだから必ず降るように。私のことを思って再び道を誤ってはならない」と語ったと言われています。(『加賀金澤前田家譜』より)

フィクションにおける柴田勝家

フィクションにおける柴田勝家を解説します。

信長の野望における柴田勝家

シリーズによっても異なりますが、信長の野望における柴田勝家のステータスは、統率94、武勇96、知略54、政治64となっています。

無骨者・鬼柴田の渾名通り、統率や武勇で高数値を誇りますが、一方で知略や政治などは低い数値となっています。

ドラマにおける柴田勝家

織田信長の重臣として、また羽柴秀吉のライバルとして、柴田勝家はこれまで多くの大河ドラマに登場しています。

2002年の『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』では、俳優の松平健さんが演じ、前田利家からは「親父様」と慕われ、勇猛で誠実な人物として描かれました。

2020年の『麒麟がくる』では、俳優の安藤政信さんが演じており、インタビューでは

「歴代の役者さんたちが演じてこられた柴田勝家像は、線の太い、男くさいイメージが強かったと思いますが、太いナタを振り下ろす豪快なイメージというよりは、研ぎ澄まされたナイフで鋭く切り込んで勝家をお見せできればと考えています。」

と語っています。

柴田勝家は鬼柴田の渾名通り数々の戦いで活躍した無骨者の織田家重臣だった

フィクションで描かれるイメージ通り、柴田勝家は数々の戦いで主力軍を務め、武功を重ねた勇猛な武将でした。

桶狭間の戦いや美濃平定戦を除いては、織田信長の主要な戦いのほとんどに参加しており、知略の明智光秀・羽柴秀吉らと並び、柴田勝家も織田信長の天下取りの偉業に、その実直な武力をもって多大なる貢献をしました。

生涯を戦に捧げ、男らしくいかにも武士らしい「無骨者」な柴田勝家でしたが、賤ヶ岳の戦いでの敗戦後の辞世の句、

「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ やまほととぎす」

そしてこれを受けたお市の方の辞世の句

「さらぬだに 打ちぬる程も夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」

という歌には、数々の戦功で織田家の重臣に成り上がりながら、悲劇的な最期を遂げた柴田勝家と、運命を共にしたお市の方の悲運がひしひしと感じられ、今でも私達の胸を打つものがあります。