千利休は天下人に愛された茶人!茶室や茶道具の改革も行なった侘び茶の完成者

千利休は織田信長・豊臣秀吉という天下人に仕えた茶人であり、日本史を代表する文化人の一人に挙げられます。また、最期は豊臣秀吉によって切腹を命じられたことでも有名です。

この記事では千利休の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。千利休がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける千利休など、様々な視点から解説してきます。

千利休の基本情報

千利休(せんのりきゅう)は和泉国出身で、戦国時代から安土桃山時代を生きた茶人です。

元は商人の生まれであり、武野紹鴎に師事して茶の湯の道に入り、46歳頃から織田信長、そして豊臣秀吉に茶頭として仕えました。

千利休の人生

できごと

誕生から初めての茶会を開くまで

1522年、千利休は和泉国・堺の商人、田中与兵衛を父として誕生します。千利休の幼名は田中与四郎と言いました。田中家は魚屋を営んでおり、また倉庫業も営み、塩魚を扱う商人達に倉庫を貸す「問」だったとされています。

父・田中与兵衛は堺でも高名な豪商・文化人であり、店の跡取りである千利休にも教養を身につけさせるため、16歳頃から茶の湯を学ばせました。

最初は同じく堺に住んでいた豪商で、茶人として名を馳せていた北向道陳に師事しますが、千利休が18歳の時、近くに住んでいた武野紹鴎に彼を推薦します。武野紹鴎は、「侘び茶」の創始者であるとされる村田珠光の孫弟子であり、その影響を強く受けていた茶人でした。

こうして、これ以降は武野紹鴎に師事するようになった千利休は、後に「術は紹鴎、道は珠光より」と説いたように、武野紹鴎の影響を強く受け、侘び茶完成への道を歩んでいくこととなります。

19歳の時、父と祖父を相次いで亡くし、この頃の実家の経営状態はとても厳しかったようで、祖父の七回忌は無財のために法要が出来なかったという日記が残っています。しかし、その後に三好氏の御用商人となって再び財を成しており、商人としても成功を収めています。

茶道の面でもその才能を大いに開花させており、23歳の時に初めての茶会を開きます。この茶会で千利休は村田珠光が使用していた名物「珠光茶碗」を使用しており、この時既に、若くして一流の茶人となっていたことが伺えます。

織田信長との出会い

1568年、足利義昭を奉じて上洛してきた織田信長は、商業都市・堺を自らの直轄地とします。

この頃より、織田信長は「名物狩り」と呼ばれる著名な茶道具の収集を趣味とし、また「御茶道御政道」と称されたように、茶の湯を政治的に利用していました。

堺が織田家直轄地となる過程で、46歳になっていた千利休は今井宗久・津田宗及とともに織田信長の茶頭(=茶の湯の師匠)として召抱えられます。

彼らは三人とも堺の豪商であると同時に、高名な茶人でした。織田信長には、彼らから茶を習うと共に、堺の商人と結びつくことでその財力を利用したいという思惑がありました。1575年に、千利休は越前一向一揆征伐に向かう織田信長に対して鉄砲玉の調達を行なっており、茶道以外でも献身していたことがわかります。

勿論、茶頭としても活躍しており、1573年、1575年の織田信長主催の京都の茶会で活躍したほか、1574年に京都相国寺で開かれた茶会には、堺の豪商9人と共に招かれたという記録が残っています。

織田信長は家臣の中でも許された者にしか茶会の開催を許しておらず、その許可を得ることは家臣にとって非常に名誉のあることでした。こうした状況下で、織田信長の茶頭である千利休も自然と尊敬を集め、茶人としての名をさらに著名なものにしていきました。

豊臣秀吉の茶頭となる

1582年の本能寺の変で織田信長が倒れると、千利休は豊臣秀吉に仕えるようになります。

豊臣秀吉は織田信長以上に茶の湯に熱心な人物であったので、彼がこの時名を馳せていた千利休に弟子入りすることは、ごく自然なことでありました。

本能寺の変の2ヶ月後には豊臣秀吉を訪ねており、この時に茶室の造築を命じられます。千利休はこれを受けて茶席は二畳、全体の広さをみても四畳半大という狭小の茶室「待庵」を完成させます。

藁すきの草庵風であり、まさに侘び茶の精神に通じる、枯れた趣のある、不足の美を体現する茶室でありました。

1583年、近江坂本城で豊臣秀吉が開いた茶会で初めて茶堂を務め、翌1584年に大阪城内に茶室を造るなど、豊臣秀吉の元で大いに活躍を果たします。

そして1585年、豊臣秀吉が関白となると、その就任の返礼として正親町天皇を招き禁中茶会が開催されます。千利休は高名ながらも身分は商人であり、そのままでは参内出来ないため、ここで「利休」の居士号が与えられます。

こうしてこの禁中茶会を取り仕切った千利休は、茶人としての名を全国に轟かせました。同じ年、豊臣秀吉は千利休に「黄金の茶室」を造らせます。

この茶室は3畳ほどの小さなものでしたが、壁から天井まで全て金張りされ、障子には赤の紋紗が張られるという大変派手派手しいもの茶室でした。これは以前千利休が造った「待庵」とは対極的なものでありました。

この茶室は1586年に年頭の参内で御所に運ばれ、正親町天皇に披露されています。(その後は大阪城、名古屋城へと運び込まれました)

1587年、豊臣秀吉が九州平定を成し遂げると、その決勝会兼権力の誇示を目的として、北野天満宮にて史上最大の茶会「北野大茶湯」が開かれます。

この茶会には大名や公家を招いただけでなく、茶の湯の執心の者であれば町人や百姓まで参加が許されました。この茶会で千利休は主管を任され、茶会初日には千人にも及ぶ参加者で賑わいました。

しかし、翌日には一時中止と発表され、結局その後も再開されないまま終了しました。肥後国で一揆が発生したためというのが通説ですが、「豊臣秀吉の自己顕示欲が1日で満たされたから」「豊臣秀吉が茶を立てるのに疲れてしまったから」など、諸説存在しています。

北野大茶湯の後、千利休は聚楽第内に屋敷を構えることを許され、3千石の禄を賜るなど出世を果たし、さらにこの頃には政事にも大きく関与するようになっていました。

千利休は1575年頃から堺を支配した会合衆の一員にもなっており、商業都市・堺に集まる情報や人・物・金を掌握する権力者としての側面も持ち合わせていました。

それに合わせて茶の道で豊臣秀吉と心を通じあわせていたので、次第に政治面でも頼れる相談役となっていったと想像できます。大友宗麟が大阪城を訪ねた際には、豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(=千利休)に」と忠告を受けるほど、千利休の立場が強まっていました。

1590年、小田原征伐の最中に千利休の一番弟子であった山上宗二が豊臣秀吉によって殺害されると、千利休と豊臣秀吉の関係は目に見えて悪化します。

これ以前より、千利休は茶の湯を政治の道具・権力の象徴として使う豊臣秀吉に嫌気がさしており、その政事にも苦言を呈することが増え、二人の距離が開くようになっていたと言われます。

そして1591年1月に開かれた茶会において、千利休は豊臣秀吉が黒色嫌いなのを知りながら、「黒は古き心なり」と黒楽茶碗を差し出します。このことが豊臣秀吉の逆鱗に触れたのか、千利休は突如堺への蟄居を命じられました。

建前上の理由は、千利休が参禅していた大徳寺の山門に、木造の千利休像を置いたことが罪とされました。(大徳寺は豊臣秀吉も訪問していたので、主君を上から見下ろすのは不敬だとされた)

そして京都に呼び戻された千利休は切腹を命じられ、70年の生涯を閉じました。

千利休の人柄・人物像

千利休の人柄や人物像について説明します。

武将と千利休

千利休には沢山の弟子がいましたが、その中でも特に高弟の者達が「利休十哲」と呼ばれます。その中には細川忠興、織田優楽斎、高山右近、古田織部という有力な大名が含まれており、彼らとの間に様々なエピソードを残しています。

豊臣秀吉は茶の湯を権力の象徴にしようと、「秘伝の作法」というものを作り、これを教えられるのは豊臣秀吉と千利休のみであると定めます。

ある時、千利休が織田優楽斎にこの秘伝の作法を教えますが、「秘伝の作法よりもっと重要な極意が存在する」と告げます。織田優楽斎がそれは何かと問うと、「自由と個性なり」と答え、秘伝などと言うもったいぶった作法はさして重要ではないと説きました。

千利休の蟄居が決まったとき、多くの弟子達は豊臣秀吉の怒りを恐れ、京都から離れることになった千利休の見送りに来ませんでした。しかし、細川忠興と古田織部だけはやって来て、師匠を涙ながらに見送り、彼らはその後も千利休の命を救うために奔走しています。

古田織部は千利休から「人と違うことをせよ」と教えられており、千利休とは対照的な「破調の美」と呼ばれる道具を用い、新たに織部流を創設しました。その弟子には徳川秀忠や伊達政宗もおり、将軍や大名の茶の湯として確立していきました。

侘び茶の完成者

一般的に、侘び茶を創始したのが村田珠光、発展させたのが武野紹鴎、そして完成させたのは千利休であると言われています。

侘び茶の完成者=千利休というイメージは、『南方録』などの後世の資料によって大きく演出されてきたものであると考えられていますが、千利休は特に豊臣秀吉の時代において、様々な面で侘び茶の発展や新しい価値観の構築に貢献しています。

本能寺の変で織田信長とともに多くの名物が失われており、千利休は自ら楽茶碗や竹花入などの茶道具を創作するようになりました。

千利休が創作した楽茶碗は無骨さや素朴さを持つ手びねりの器であり、装飾性が無く侘び寂びを感じさせる枯れた美しさを有しています。これらは従来の舶来品に変わって人気を得るようになりました。

千利休は名物を尊ぶ従来の価値観を否定しており、楽茶碗に代表されるような「利休道具」は、名物や唐物などに比べると決して高価なものではありませんでした。

茶室についても画期的な変革を行なっており、草庵茶室の創出がその代表として挙げられます。これまで4畳半を最小としていた茶室よりさらに小さく、庶民の間で用いられていた2・3畳の茶室をとりいれました。

そして「囲い」と呼ばれる窓を取り入れ(これまでは障子による採光だった)、これにより必要な場所だけを照らし、暗くしたいところは暗いままにすることが可能になりました。

茶室に付属する庭「露地」の価値も高め、これまで単なる通路に過ぎなかったところを、積極的に整えてもてなしの空間へと変えました。

そして千利休最大の貢献とされるのが、「運び点前」の普及です。

運び点前とは、茶道具を前もって飾って置かず、すべて茶室に運びいれることから点前を始める作法です。運び点前では、茶を点てることを「主」で、茶道具はそのための手段として「従」とされました。

織田信長が名物狩を行なったように、これまで重きを置かれていた茶道具よりも、心を通じあわせるための「茶を点てる」という行為自体に重きを置いたのでした。

千利休の名言・エピソード

千利休の名言やエピソードについて解説します。

利休七則

「茶は服のように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく冬は暖かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」

ある弟子に茶の湯の真髄とは何かと問われたときの千利休の言葉です。

これを聞いた弟子は、それくらいのことなら分かっていますと答えますが、これに対して「もしこれらのことが出来たら、私はあなたの弟子になりましょう」と続けました。当たり前のことこそ大切であり、以外と皆これが出来ていないということです。

そしてこの言葉の裏には、

茶は服のように=心をこめて、炭は湯の沸くように=本質を見極めて、

夏は涼しく、冬は暖かに=季節感をもって、花は野にあるように=いのちを尊んで、

刻限は早めに=心にゆとりをもって、降らずとも雨の用意=柔らかい心をもって、

相客に心せよ=互いに尊重しあって、という意味が込められていると考えられています。

利休の美学

武野紹鴎の元に侘び茶を学び、不足の美、禅の思想に通じる茶を重要視した千利休ですが、その美意識を伺えるいくつかのエピソードが残っています。

初夏のある日、千利休は豊臣秀吉を「朝顔が美しいので茶会にお越しください」と誘います。

満開の朝顔を楽しみに訪れた豊臣秀吉ですが、庭の朝顔は全て刈り取られていました。不審に思いながら茶室に入ると、床の間にたった一輪の朝顔がいけてありました。一輪ゆえにその朝顔の美しさは大層際立っており、この美学に豊臣秀吉も脱帽したと言われます。

また、秋季には、千利休は庭掃除をした最後に音葉をパラパラと撒きました。弟子がせっかく掃除したのになぜですかと尋ねると、「秋の庭には落ち葉があるほうが自然でよい」と答えました。

切腹の理由

千利休が切腹を命じられた理由については、現在でもはっきりとしていません。

一般的には、「待庵」と「黄金の茶室」の対比に見られるように、茶道に対する考え方で対立していたから、というのが知られていますが、その他にも諸説存在します。

安価の茶器類を高額で売り払って私腹を肥やした疑いを持たれた、堺の権益を守ろうとしたために疎まれた、徳川家康と結んで暗殺を企てていたなど、その理由は様々に語られています。

いずれにせよ、蟄居を命じれた千利休は、前田利家や北政所らの「詫びれば今回の件は許されるだろう」という助言も断り、結局豊臣秀吉に謝罪することなくそのまま京都を離れています。

このことから、豊臣秀吉と千利休の間には、理由はなんにせよ埋められないほどの深く、複合的な対立があったのではないかと推測されます。

フィクションにおける千利休

フィクションにおける千利休を解説します。

漫画における千利休

千利休が登場する漫画作品には、山田芳裕著『へうげもの』、2013年の映画『利休にたずねよ』公開に合わせて漫画化された(映画脚本:小松江理子、作画:RIN)『コミックス版利休にたずねよ』などがあります。

このうち『へうげもの』は第14回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞しており、2011年にはアニメ化されています。

主人公は千利休の高弟・古田織部ですが、千利休の登場回数も非常に多く、感情を表に出さない大柄な男で、その泰然とした様子が歴戦の武人にも畏怖の念を抱かせるほどの人物として描かれました。

この作品中では豊臣秀吉と組んで明智光秀を利用して織田信長暗殺の黒幕となり、のちに豊臣政権の打倒も試みた様子が描かれており、最期はわざと豊臣秀吉の意向に反して自分を貫き、古田織部の介錯により切腹を果たしたとされました。

千利休は高名な茶人でありながら豪商・政治相談役としての側面も持ち合わせていた

千利休と言えば著名な茶人として織田信長・豊臣秀吉に重用された人物としてのイメージが強いですが、重用された理由は彼の茶人としての才能が高かったからだけではなく、千利休が堺という大都市で強い権力を持つ豪商であったことも深く関係していました。

豊臣秀吉の元では政治相談役のような役割も務めており、一介の茶人にとどまらない活躍・出世を果たしています。

千利休が完成させた「侘び茶」では、禅の思想を大切にし、人と人の心の結びつきや心の静寂に重きを置いていました。このような茶の道を通して、豊臣秀吉が千利休を茶の師匠として以上に心を寄せて頼るようになったのは、至極自然なことであるように思えてきます。

千利休を瞬間的な怒りによって切腹に追い込んだ豊臣秀吉でしたが、その後そのことを深く悔やんだと言われています。

千利休を「内々のことは宗易に」と評した豊臣秀長も、千利休切腹前に死去しており、豊臣秀吉を精神的にも支えてきたこの二人を失ってから、豊臣秀吉の行動は冷静さを失ったものが多くなっていきます。

彼にとって、千利休の存在がいかに大きかったかが伺えます。

千利休の死後、その思想や茶道の教えは多くの弟子たちによって受け継がれていきます。千利休の嫡男・千道安と後妻の連れ子であった千少庵は、その後許され、この内千少庵の系統が現在にまで繋がっています。

時代を代表する茶人となりながら最期は無念の切腹を遂げた千利休でしたが、その教えは現在まで残って尊敬を受け、日本だけでなく海外でもその名を知られています。