佐竹義宣は戦国切っての世渡り上手!律儀な性格と革新的な家臣登用も行った人物!

佐竹義宣は戦国時代に常陸国一帯を治めていた佐竹家の第19代当主です。父は鬼義重とも呼ばれた戦国の雄佐竹義重で、父の影響を受けながらも戦国末期の乱世において佐竹家を存続させるために奮闘した人物です。

この記事では佐竹義宣の生涯を年表付きで分かりやすく説明していきます。佐竹義宣がどのような人物であったのか、どのようなエピソードを残しているのか、ゲームやドラマなどフィクションにおける佐竹義宣など、様々な視点から解説していきます。

佐竹義宣(さたけよしのぶ)の基本情報

佐竹義宣(さたけよしのぶ)は戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた大名です。佐竹家19代当主として豊臣秀吉や徳川家康に使え、戦国乱世を生き抜き、出羽国久保田藩の初代藩主となった人物です。

佐竹義宣の人生

できごと

生誕〜豊臣政権の主軸へ

佐竹義宣は元亀元年(1570年)に佐竹義重の嫡男として常陸国の太田城で誕生します。1586年には元服を済ませ、佐竹家配下の壬生氏が北条氏へ寝返った際の討伐に初陣として出陣しています。

また1586年から1590年の間には早くも父義重から家督を相続します。当時の佐竹家は北方に位置する伊達家と南奥州の覇権をかけた争いで劣勢を極めていたことから、早くから豊臣秀吉と通じ上杉景勝ら近隣大名とも親交を深め体制を整えていました。

1589年、豊臣秀吉は北条氏討伐のために小田原征伐の出陣命令が佐竹義宣にも下ります。伊達政宗との交戦を即座に中止することで、1590年には1万の軍勢を率いて小田原へ進軍し、北条方の城を落として秀吉から高い評価を受けます。

1595年の太閤検地では新たに54万石の大名となり、佐竹氏は徳川氏、前田氏、島津氏、上杉氏、毛利氏につぐ豊臣政権の六大将と呼ばれる地位を築きます。

関ヶ原の戦い〜秋田へ減転封

1600年、徳川家康は不審な動きをしたとして上杉景勝討伐のため東国大名を招集し、会津征伐を命令します。佐竹義宣も表向きではその命令に従う形をとりますが、裏では盟友である上杉景勝との密約があったとも噂され、後に繋がる関ヶ原の戦いでも西軍、東軍のどちらにもついていないような状況となっていました。

徳川家康はそんな佐竹氏の動向に疑いの目を向け使者を遣わします。それを受けた佐竹義宣は上田城に篭る西軍側の真田昌幸を攻めるために徳川秀忠に援軍を派遣しました。

その後関ヶ原の戦いで東軍側が勝利すると、一転して徳川家康の元に自らから出向き、関ヶ原の戦いでの弁明とお家存続を懸けて願い出ます。しかし、結果として佐竹氏は出羽国秋田群へ転封となり、54万石から20万石へ領土が減少しました。

能力重視の支配体制の確立〜大坂の陣まで

1602年の秋田移封後は角館城や横手城を始めとする領内各拠点の内政や一揆の平定に尽力し領内の安定に力を注ぎました。また1603年には本拠地を久保田城へ移しています。

また、佐竹義宣は家中強化のために家柄や慣例にとらわれずに有能な人物を次々と登用し、また佐竹一門や譜代家臣の知行を減少させることで佐竹宗家の権力も強化し、藩の体制を一新することに成功しました。

1615年の大坂の陣には徳川方として参戦し、今福の戦いでは戦況を有利に導く勝利を収め、徳川幕府における評価を高めることにも成功します。

そして1633年、佐竹義宣は64歳でその生涯に幕を閉じました。

佐竹義宣の人柄・人物像

佐竹義宣の人柄や人物像について解説していきます。

豊臣秀吉から受けた高い評価

佐竹義宣は若くして佐竹家の家督を継ぎましたが、当時の佐竹氏は伊達家の侵攻を受けて非常に苦しい立場に置かれていました。その状況下で豊臣秀吉の小田原征伐の指令が出ると伊達政宗との交戦をすぐさま中止して小田原へ参陣し、功績をあげたことにより秀吉から「常州の旗頭」と評される高い評価を受けます。同じく小田原征伐の指令を受けていた宿敵伊達政宗はというと最後まで参陣を迷い、結果として秀吉の奥州仕置で多くの減封に合いました。

その後の佐竹義宣は若くして常陸一帯の主権を握る活躍を見せ、豊臣政権下における重要地位を占めるまで上り詰め、1590年にはその大義を報いて豊臣秀吉から従四位下・右京太夫の官位と羽柴性を与えられるなどその手腕を大変評価されました。

世渡り上手で用心深かった

佐竹義宣が豊臣・徳川両政権下で生き残った理由には、元来の律義者と称されるマメな性格と空気を読むことに長けていたことが挙げられます。豊臣秀吉の天下統一時も素早く行動し謁見を得ることで信頼を掴みとり、また関ヶ原の戦いで曖昧な態度を咎められそうになった時も、自ら一番に家康・秀忠に駆け寄り謝罪することで減転封はされますが事なきを得ています。佐竹義宣は要所要所で世渡り上手の力を発揮することで、後々は徳川幕府からも全幅の信頼を寄せられるまでになりました。

また佐竹義宣は大変用心深い人物であったことが伝わっており、関者に暗殺されることを恐れ、寝床を毎日ずらしたり、襖を開ける時には刀を使って開けていたなどの逸話が残っています。

佐竹義宣の名言・エピソード

佐竹義宣の名言やエピソードについて解説していきます。

石田三成を救う

1597年、佐竹氏の配下で佐竹義宣の従兄弟でもあった宇都宮国綱が改易されたことに伴い、佐竹家も処分の対象に上がりますが、以前から親交を深めていた石田三成の取りなしがあってその難を逃れます。

そして1599年、当時秀吉死後の豊臣政権下で他武将からの恨みを買っていた石田三成は頼みの綱であった前田利家が死去に伴い、加藤清正や福島正則などに屋敷を取り囲まれるという襲撃事件が発生します。この知らせを受けた佐竹義宣は三成に受けた旧恩に報いるために三成を女輿に乗せて脱出させて、三成は事なきを得ることが出来ました。

このことを後に問われた佐竹義宣は「石田治部には以前に恩を受けた。その恩人が窮地に立たされていたから救ったまで」という風に答えており、さすがの家康も「今の世にこれほどの律義者は見たことがない。しかし、律儀過ぎるのも困りものだ。」と言わしめています。

例え状況が悪くなろうとも旧友のために力を惜しまない姿勢は佐竹義宣が義に厚い人物だったことが良くわかるエピソードとなっています。

仕事が出来れば新参者でも家老へ抜擢

秋田へ移封後の佐竹義宣は家中の改革へ乗り出します。しかし、当時30万石程の減封にされたことで以前のような禄高も十分に与えることが出来なかったため、この機会に制度を一新しようと浪人でも優秀な人物であれば採用するなど画期的な取り組みを行いました。

実際に浪人から登用した中には後に家老になる渋江政光などもおり、この処遇に憤りを覚えた旧臣の川井忠遠らが政光暗殺を企てると、逆に川井ら一派を粛清するなど政策の徹底化を行います。

佐竹義宣の内政基盤の強化は、後の佐竹家を大きく成長される礎になり、現代でいうビジネス手腕に長けた人物であったことがわかります。

フィクションにおける佐竹義宣

フィクションにおける佐竹義宣を解説していきます。

信長の野望における佐竹義宣

信長の野望シリーズにおける佐竹義宣は、各シリーズにより能力が若干異なりますが、その類い稀な政治手腕も評価されて内政能力にも長けた能力値が設定されています。能力値が高いシリーズでは統率86,武勇84,知略66,政治80となっています。

漫画における佐竹義宣

作者岩明均さんによる漫画「雪の峠」で佐竹義宣が登場しています。こちらの漫画は佐竹家のお家騒動を題材とした漫画となっており、渋江政光などの家臣も描かれています。

佐竹義宣は近代佐竹家の礎を築いた敏腕大名

佐竹義宣は戦国〜江戸初期の動乱の時代において、豊臣・徳川両政権下の中で粘り強く生き残り、佐竹家を後世に残した人物です。

一時は減封など領土減少の処遇も受けますが、革新的な政策を実施し、佐竹家の近代化を推し進めた名将であったと言えるでしょう。