佐竹義重は佐竹家の全盛期を築き上げた人物!子孫は繁栄?兜を貫く愛刀とは?

佐竹義重は戦国時代の常陸国の大名として北条家や伊達家と覇権争いを繰り広げた人物です。また関東一の鉄砲隊を備え、金山を掘って潤沢な資金力を発掘するなど、佐竹家の全盛期を築きました。

この記事では佐竹義重の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。佐竹義重がどのような人物であったか、どのようなエピソードを残しているのか、フィクションにおける佐竹義重など、様々な視点から解説していきます。

佐竹義重(さたけよししげ)の基本情報

佐竹義重(さたけよししげ)は、戦国時代〜江戸時代初期を生きた大名で、常陸国を中心に各大名と関東の覇権を巡って戦った人物です。

伊達氏や北条氏も恐れたという「鬼義重」の異名を取った人物でもあり、武勇や外交に長け、天下人であった豊臣秀吉にも上手く取り入るなど、佐竹氏の全盛期を築き上げました。

佐竹義重の人生

できごと

生誕から佐竹家当主へ

佐竹義重は1547年に常陸国の戦国大名であった佐竹義昭の子として生まれます。父の佐竹義昭は越後の上杉謙信や小田氏と同盟を結び、太田城を拠点に常陸国の統一を目指していました。1562年に父の義昭が32歳の若さで隠居すると、佐竹義重が佐竹家第十八代当主として家督を継ぎます。

1564年には小田氏治が北条側と手を結び、佐竹を攻撃してきますが、上杉謙信の協力のもと小田城の戦いで小田氏治を敗走させます。しかし、1565年に後ろ盾となっていた父の義昭が急死することで周辺諸国の反勢力の反乱が活発化していきました。

佐竹家の勢力拡大

実質ともに佐竹家の当主となった佐竹義重は上杉謙信との連携をさらに強め、1566年に再び小田氏と戦い領土を広げると、1567年には白河氏に大勝し勢いに乗ります。1569年には三度小田氏と戦い、小田氏治を打ち破って小田城の奪取に成功しました。

一方で南の北条氏は結城氏らと同盟を結んで佐竹領内に侵攻してきますが、1572年には白河結城氏を支配下に置き、外交を用いて周辺諸国を束ねていきます。

しかし、急激に領土を広げていった佐竹家を警戒する動きが活発になり、北は伊達氏、南は北条氏という形で挟まれ、佐竹家は気の抜けない状況が続きました。そこで佐竹義重は得意の外交術を利用し、伊達氏に反感を持つ東北諸国の大名に連絡を取り、また兼ねてから懇意にしていた豊臣秀吉とも親交を深めていきます。

東北諸国と連携を取った佐竹家は、1585年には人取橋の戦いで伊達政宗をあと一歩のところまで追い詰めますが、常陸領内で不穏な動きがあったため、泣く泣く退却しています。その後も伊達氏、北条氏との睨み合いは一進一退の状況が続いていきます。

豊臣政権での活躍

南北を敵に挟まれた佐竹家でしたが、1590年に転機が訪れます。天下統一を目前とした豊臣秀吉が北条家討伐のため、小田原征伐に打って出ます。これをチャンスとみた佐竹義重は嫡男の義宣を引き連れ、小田原征伐に参加し、石田三成の忍城攻めにも参戦します。得意の外交術で秀吉と懇意にしていたこともあり、その後の奥州仕置で秀吉から常陸国54万石の支配権を手に入れることに成功しました。その後1591年には鹿島氏などの反抗勢力を謀殺するなど知略を活かし、ついに常陸国内を統一します。

佐竹家の全盛期を築き上げた佐竹義重は、その後嫡男の義宣に家督を譲り、自らは太田城で隠居生活を送ります。しかし、1600年の関ヶ原の戦いで義宜が懇意にしていた石田三成の西軍側につこうとしたことで、意見が割れてしまい、親子は対立してしまいました。結局どっちつかずのまま関ヶ原の戦いが終わってしまい、その曖昧な態度から佐竹氏は出羽国久保田藩に減封されてしまいます。この裏には当初改易という危機が待ち受けていましたが、佐竹義重が徳川家康・秀忠親子に懇願した経緯があり、佐竹家没落のピンチを救いました。

久保田藩に減封後は反対勢力の一揆に対応するために六郷城に拠点を構えて統治を続け、1612年に狩猟中に落馬する形でその生涯を遂げました。

佐竹義重の人柄・人物像

外交術に長けた世渡り上手

佐竹義重はその優れた武勇が評価されていますが、それ以上に外交術がとても上手い人物でもありました。常陸国という北は伊達家、南は北条家という強敵に挟まれた状況下の中で、上杉謙信や東北諸国を巧みに取り込み、自身の領土拡大を実現していきました。また、豊臣秀吉という時代の覇者に早くから取り入ることを考えた点で後々の佐竹家の繁栄にも繋がっています。

律儀で礼を重んじた人物でもあり、その性格は息子の義宣にも受け継がれますが、関ヶ原の戦いでは律儀な義宣の性格が災いして恩義のある石田三成方につこうとするなど、合戦後に家康から問いただされることになりますが、ここでもその巧みな外交術を発揮し、家康を上手くなだめてお家の存続に繋げました。

関ヶ原の戦いでは東軍側についた方が良いと意見するなど、強者を見極める力にも長けていたことが伺えます。

佐竹家の基盤を作った人物

佐竹義重は領土拡大の他にも、砂金の収集から最新の治金技術を取り入れて領内の金山の開発へ注力し、佐竹家の豊富な資金力元の調達にも成功しています。その他にも関東最多と言われる鉄砲隊(800丁)を整備したりと最新技術の導入と投資を行ったことで、佐竹家の繁栄と後の子孫の代に至るまでの基盤を作り上げました。

息子の義宣の代に減封と久保田への移転処置に合いますが、その巧みな政治手腕は確実に受け継がれ、義宜の代には後々にも繁栄していく佐竹久保田藩が作られました。

佐竹義重の名言・エピソード

佐竹義重の名言やエピソードについて解説していきます。

鬼義重の渾名

佐竹義重には「鬼義重」「坂東太郎」など、その優れた武勇に対して数々の渾名がつけられています。

一説には北条氏政の軍と戦った際に、相手方の兵の多さに萎縮してしまった味方兵を鼓舞するため、自らが先頭に立って敵陣に突撃し、一瞬の間に7人もの敵兵を斬り伏せたと言われています。この出来事をきっかけとして「坂東太郎」「鬼義重」と呼ばれるようになり、敵国の伊達氏や北条氏も佐竹義重を恐れたと伝わります。

またその他には家臣に対して常に戦場でいる時と同じ心構えでいるようにと厳しく叱咤したため、「鬼義重」と呼ばれたという説があります。

佐竹義重と愛刀「八文字長義」

佐竹義重と数々の修羅場を潜り抜けてきた愛刀である「八文字長義」は、恐るべき切れ味を持った刀として知られています。

北条氏政軍と戦った際に北条方の騎馬武者をこの刀で頭部から切りつけたところ、鎧もろとも真っ二つに斬れて武者が馬の上から八文字の形になって落馬したとのことから「八文字」と名付けたという逸話が残っています。佐竹義重の武勇と共に受け継がれた名刀は佐竹家でも第一級の評価を受けたと言われています。

また、佐竹義重は武人として刀にもこだわりを見せていた人物で、上杉謙信から贈られた備前三郎国宗を隠居の際に息子の義宜に与えたところ、義宜は使うには長すぎると切っ先を削って脇差しにしてしまいました。それを見た佐竹義重は「刀の魂が失われた」と大層嘆いたと言います。

フィクションにおける佐竹義重

フィクションにおける佐竹義重を解説していきます。

信長の野望における佐竹義重

鬼義重と恐れられただけあって信長の野望シリーズでも佐竹義重の能力は群を抜いて優秀となっています。シリーズごとに能力値は異なりますが、信長の野望「創造」では統率87,武勇90,知略79,政治83と全武将の中でも軒並みの能力値を誇り、佐竹義重を当主として佐竹家で天下を目指すことも可能な数値となっています。

小説における佐竹義重

佐竹義重を題材としては、著者近衛龍春さんの「佐竹義重 伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名」、志木沢郁さん著書の「佐竹義重・義宜 伊達政宗と覇を競った関東の名族」等があります。

佐竹義重は「鬼義重」として戦国大名を怖れさせた名将

佐竹義重は、群雄割拠の戦国時代に巧みな外交術と秀でた武勇を用いて佐竹家の繁栄期を築き、また豊臣・徳川という天下を取った両政権下でも生き残るための術を見出した先見眼にも長けた人物でした。

佐竹義重が基盤を作った佐竹家は後に廃藩となる世まで栄え続けることになります。