真田幸隆は大河ドラマ風林火山にも登場した真田家繁栄の祖!息子は真田昌幸!

真田幸隆は武田信玄に仕え武田二十四将にも名を連ねる武将で、武力と知略を使い数々の戦いで勝利を収め、その後の真田氏繁栄の基礎を築いた人物です。

この記事では真田幸隆の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。真田幸隆がどのような人物であったか、どのようなエピソードを残しているのか、ゲームやドラマにおける真田幸隆など、様々な視点から解説していきます。

真田幸隆の基本情報

真田幸隆(さなだゆきたか)は信濃国出身の戦国時代を生きた武将です。

領土を守るために度々主君を変えていますが、生涯の大半を武田信玄に仕え、武田家臣団として武功を上げていきます。

真田幸隆の人生(年表付き)

できごと

領地を失った苦境の時代

真田幸隆の幼少〜青年期に関する記録は少なく、出自ははっきりとしていませんが、1513年、信濃国小県郡で生まれ、土地の有力豪族であった海野棟綱に従います。

海野一族は上杉憲政の後ろ盾を持って領土を支配していましたが、1541年に甲斐の武田信虎による信濃侵攻が始まります。同年、武田信虎・村上義清・諏訪頼重からなる連合軍との間に海野平の戦いが勃発しますが、海野方は敗北し滅亡します。

真田幸隆も敗走し上杉憲政方の上野国へと落ち延びますが、領地であった小県は奪われ、村上義清のものとなってしまいます。上杉憲政の下で領地奪回の機会を伺っていた1542年、武田信玄が父・武田信虎を追放して当主となる事件が発生、佐久・小県郡に侵攻してきます。

上杉憲政はこの機に乗じて佐久・小県郡に攻め込みますが、武田氏側の諏訪頼重とすぐに和解してしまい、その後も兵を出すことはありませんでした。真田幸隆は、上杉憲政の下にいても領土を奪回することはできないと考え始めます。

武田信玄家臣団への参加と悲願の領地奪回

真田幸隆がいつ武田信玄の家臣団に加わったかは諸説ありますが、1548年に、武田信玄と領土を奪った宿敵村上義清との間に起こった上田原の戦いに武田軍として参戦しているため、少なくともこの時期までには武田家の家臣団に加わったとされています。

1550年、武田信玄は上田原の戦いに続き、村上義清の支配していた砥石城を侵攻します。要衝にあり難攻不落と呼ばれた砥石城の守りは固く、村上氏の激しい攻撃を受け、武田勢は後に”砥石崩れ”と称される大敗北を喫します。

しかし、1551年、真田幸隆が調略をもってわずか1日で陥落させます。足軽大将として砥石城に仕えていた弟の矢沢綱頼と内通したと言われています。そして1553年、村上氏の本拠地葛尾城にも攻め入り、村上義清はついに越後の上杉謙信のもとへと逃げ出します。

ここでついに、真田幸隆は悲願であった旧領小県郡を取り返したのでした。

信濃先方衆としての活躍

村上義清が上杉謙信のもとへ亡命したことにより、信濃の覇権を巡って武田信玄対上杉謙信の川中島の戦いが始まります。真田幸隆はその最前部隊として働くこととなります。

まずは1556年、川中島方面の重要拠点であった堅城・尼飾城を陥落させます。そして1561年、川中島の戦いの中でも最も激戦であったと言われる第4次川中島の戦いにおいて、川中島平を見下ろす位置にあり上杉謙信が本陣をひいた妻女山を攻め奮闘、重傷を負います。

第4次川中島の戦い以降、武田信玄と上杉謙信の対立は沈静化し、次の標的が西上野方向へと切り替えられます。上野国へ落ち延びていた経験があり地の利があった真田幸隆はここでも重用され、1563年から1567年にかけて、次々と上野の城を陥落させます。

これまで戦いに明け暮れていた真田幸隆でしたが、1570年4月、病気のため家督を長男真田信綱に譲り隠居します。以降の駿河侵攻などには後を継いだ真田信綱が参戦するのみとなりました。

そして武田信玄が亡くなった翌年の1574年、62歳で亡くなりました。

真田幸隆の人柄・人物像

真田幸隆の人柄や人物像について説明します。

調略を得意とする

真田幸隆は難攻不落と言われた堅城を次々に陥落させていますが、その裏には巧みな調略がありました。

1563年の岩櫃城攻めにおいては、寺僧を派遣し一度和議を結び、岩櫃城主斎藤憲広の家来達を調略します。そうして内応を取り付けたところで再度攻撃を開始し混乱させるという戦法をとっています。

1567年の白井城攻めにおいても、武田信玄から真田幸隆に宛てられた書状の中に、「一徳斎(=真田幸隆)計策故、白井不日落居」とあり、真田幸隆の調略により白井城が陥落したことが語られています。

「攻め弾正」の異名をもつ真田幸隆ですが、武略だけではなく、人間関係を巧みに操る知恵深さを持ち合わせていたことが分かります。

武田信玄による評価

真田幸隆は外様であるにも関わらず、その武功から武田信玄に信頼され、譜代衆と同等の待遇を受けています。武田家の本拠地甲府に屋敷を構えることを許され、また真田幸隆の三男・真田昌幸は人質として甲府に送られていましたが、身の回りの世話をする奥近習衆に取り立てられています。

元の領地である小県郡に加えて多くの領地を与えられ、白井城を落とした際には武田信玄から「思いもよらない次第」と賞賛する手紙が送られています。武田信玄が出家した時には、これに合わせて真田幸隆も出家しており、主君を尊重し忠実な一面があることも伺えます。

真田幸隆の名言・エピソード

真田幸隆の名言やエピソードについて解説します。

真田の六文銭

真田氏の家紋である六文銭は、死後三途の川を渡る時の船賃であることから、死を厭わない不惜身命の覚悟で戦うという意気込みを表しています。

真田幸隆が武田信玄の家臣に加わる時に、その誠意を示すために掲げたのが始まりとされています。

『名将言行録』に記された長野業正との交流

海野平の戦いで敗走した真田幸隆は、上杉憲政重臣の長野業正のいる上野国へと逃げ込みます。

長野業正はこれを受け入れ、本拠地箕輪城において保護します。後に2人は武田家側と上杉家側に別れ争う立場となってしまいますが、真田幸隆はこの時に受けた恩を決して忘れることはありませんでした。長野業正が晩年病に倒れると秘密裏にその見舞いに訪れています。

「この上野もいずれ誰かに奪われてしまうだろうが、どこの誰とも分からない者に渡すより、気心知れたそなたに渡すことが、憂いの中の喜びだ。箕輪の北にある沼田城は娘婿が守って居るが、妻を大事にしない不届者であるので、これを討ち取って信濃と合わせて領地にするのが良い。」

長野業正にそうアドバイスされた真田幸隆は大いに感謝しました。その言葉通り、後に息子の真田昌幸が沼田城を攻略します。

フィクションにおける真田幸隆

フィクションにおける真田幸隆を解説します。

信長の野望における真田幸隆

シリーズによっても異なりますが、真田幸隆のステータスは統率80、武勇67、知略93、政治78となっています。調略を得意とした史実と同じように、知略において高いステータスを誇っています。

ドラマにおける真田幸隆

武田信玄の軍師山本勘助を主人公とした2007年の大河ドラマ『風林火山』に登場し、俳優の佐々木蔵之介さんが演じています。主人公山本勘助の説得で武田家に仕えることを決心し、良きライバル・友人となっていきます。史実通り、調略に長けた人物として、砥石城の戦いの様子等が描かれています。

真田幸隆は幾多の堅城を制し真田家の基礎を築いた名将

真田幸隆は難攻不落と言われた城を次々と陥落させた智勇に優れた武将でした。信濃の小領主に過ぎなかった真田氏が、後に織田氏や豊臣氏にも恐れられ、後世の人々語り継がれる名家となったのは、全てこの真田幸隆の活躍あってこそのことです。

真田幸隆は上杉氏から武田氏へと主君を変え、家と領地を守りましたが、これが息子の真田昌幸にも引き継がれ「表裏比興の者」「真田の生き残り戦略」と呼ばれます。真田家の優れた知略・統率力は、真田幸隆のDNAが脈々と受け継がれていたことを物語っています。