真田昌幸の能力や逸話について!「真田丸」では草刈正雄が演じていた?

真田昌幸と言えば、真田幸村(信繁)の父親として知られていますが、主君であった武田信玄からも能力を高く評価されていました。今回は真田昌幸の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

真田昌幸の基本情報

真田昌幸の人生

できごと

武田信玄の側近として仕える

真田昌幸は、信濃の地方領主であった真田幸隆の三男として生まれました。真田昌幸には真田信綱・昌輝という兄2人がいたため、家督相続権はありませんでした。父:真田幸隆は武田信玄の家臣として、信濃先方衆となっていたため、1553年8月に真田昌幸は人質として甲斐に送られ、武田信玄の近習衆として仕えました。

その後、真田昌幸は大井氏(武田信玄の生母の実家)の支族である武藤家の養子になり、「武藤喜兵衛(むとうきへえ)」と名乗るようになり、足軽大将に任命されています。1564年には、山手殿(信幸、信繁の母)を正室に迎えています。初陣は1561年の第四次川中島の戦いと言われており、真田昌幸は当時15歳だったと言われています。

以後も武田信玄の軍事作戦に参加しており、武田信玄も父:真田幸隆同様に、真田昌幸の才覚を高く評価していたと言われています。

主人を次々と変える

1573年に武田信玄が病死すると、息子の武田勝頼に仕えています。1574年に父:真田幸隆が病死すると、家督は長兄:真田信綱が継いでいます。しかし、翌1575年の長篠の戦いで長兄:真田信綱、次兄:真田昌輝が戦死したため、真田氏に復姓し、家督を相続しています。

なお、武藤家の家督は一族の武藤常昭が継承し、真田昌幸が真田家と武藤家を合わせて継承したという訳ではないようです。真田家を相続後は甲府と領国との間を往復することを繰り返していたと見られています。

1581年には、武田勝頼は本拠地を甲府から韮崎への移転を決定し、真田昌幸は新府城築城の責任者になったと言われていますが、これには確たる史料がありません。翌1582年に織田・徳川連合軍が武田領に侵攻し、武田勝頼は自害し、武田家は滅亡します。真田昌幸は、織田信長の軍門に下り、配下武将の滝川一益の与力武将となりました。

しかし、本能寺の変で織田信長が亡くなると、甲信地方は徳川・北条・上杉の間で争奪戦が行われるようになり、真田昌幸はその都度、主を変えています。1585年には当時の主であった上杉景勝が豊臣秀吉に臣従したこともあり、真田昌幸も豊臣秀吉に臣従することになりました。

関ケ原の戦い後に流罪

1598年、豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)の間で対立が起こり、1600年には関ケ原の戦いが起こります。真田昌幸は西軍に味方し、関ケ原に向かう徳川秀忠軍38000を足止めすることに成功し、徳川秀忠は関ケ原の戦いに間に合いませんでした。

しかし、関ケ原の戦いは東軍の勝利に終わり、真田昌幸は次男:真田信繁ら家族と共に、紀伊九度山に流されることになりました。10年に及ぶ浪人生活で真田昌幸は衰え、1611年に65歳(67歳とも)で病死しています。

真田昌幸の人柄・人物像

真田昌幸の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

表裏比興の者

真田昌幸は「表裏比興の者(ひょうりひきょのもの)」とよく言われます。これは武田家滅亡後に、織田家・北条家・徳川家・上杉家と次々に主人を変えてきたことに由来しています。「表裏=裏表が一致しない」、「比興=老獪で油断のならない者」、という意味を指しており、悪いイメージで見られがちですが、当時は褒め言葉だったとも言われています。

真田家は弱小大名だったので、戦国時代を生き残るために、主人を変えざるを得なかったとも言えます。

師匠は武田信玄だった?

真田昌幸は7歳で武田家の人質となりますが、武田信玄は自身の側近として取り立てていることから、一人の家臣として接していたことが伺えます。また、真田昌幸は次男に真田信繁(幸村)と名付けています。これは、武田信玄の弟:武田信繁にあやかって名付けたものとも言われています。

また、真田昌幸は武田信玄の内政・外交・戦略のやり方を目の前で見ていたことから、後年、それを参考にしていたという説もあります。

真田昌幸の名言・エピソード

真田昌幸の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

父:真田幸隆について

真田昌幸と、息子:真田信之・真田信繁は割と知られていますが、父である真田幸隆については意外に知られていなので、軽く紹介したいと思います。真田幸隆は、信濃の国人領主で、一時は領地を失いますが、武田信玄に仕えること旧領を回復。以降は武田信玄の家臣(武田二十四将の1人)として活躍しています。

武田信玄は1548年の上田原の戦い、1550年の砥石崩れと村上義清に大敗しており、かなり苦戦していました。しかし、1551年に真田幸隆は調略によって砥石城を攻略しています。これはわずか1日で城を攻略するという鮮やかなものでした。

真田幸隆は「攻め弾正」の異名を取りました。武田信玄にも高く評価され、譜代家臣と同等の待遇を受けています。また真田家の旗印の「六文銭」は真田幸隆が考案したものだと言われており、「身命を賭して武田家に仕えて家名を残す」という覚悟で、この旗印を用いたとされています。

犬伏の別れ

関ケ原の戦いの前、徳川家康(東軍)は上杉景勝を討伐するため会津に遠征。真田昌幸と息子たちもこれに従って出陣します。しかし、宇都宮の手前の犬伏という場所で、石田三成(西軍)から味方になってほしい旨の密使が到着します。

真田昌幸と息子:真田信之・真田信繁は協議の末、苦渋の決断をします。それは長男の真田信之が東軍に味方し、真田昌幸・信繁が西軍に味方するというものでした。この話し合いをした場所が栃木県佐野市の郊外の犬伏という場所だったことから、この出来事は「犬伏の別れ」と呼ばれています。

後に真田家は、徳川家康に味方した真田信之の元で存続し、明治維新まで子孫が残っています。

フィクションにおける真田昌幸

フィクションにおける真田昌幸について、紹介したいと思います。

信長の野望における真田昌幸

真田昌幸の能力値ですが、統率:94、武勇:85、知略:98、政治:83、となっています。父:真田幸隆、息子:真田信繁も能力が高いので、「真田家はチート一族」とも言われています。ただ、父親や息子と比べて、バランスが良いのは真田昌幸だと思います。

ドラマにおける真田昌幸

真田昌幸が登場するドラマですが、複数あります。最近では大河ドラマ「真田丸(2016年)」で草刈正雄さんが演じています。ちなみに草刈正雄さんは、真田太平記(1985年・1986年、NHK)では真田幸村(信繁)役を演じているので、親子を演じることになったことで話題にもなりました。

真田昌幸は徳川家康が恐れた武将

徳川家康は、第一次上田城の戦いで真田昌幸に敗れていますし、息子の徳川秀忠も第二次上田城の戦いで関ケ原の戦いに間に合わなかったことがありました。後の大坂夏の陣では、真田信繁に追い詰められたこともあり、徳川家康にとっては真田家が天敵のような存在だったようです。

大坂冬の陣の後で、徳川家康は真田信繁を「味方になれば信濃一国を与える」という内容で懐柔しようとしたという史料もありますので、かなり警戒していた可能性は高いように思えます。