佐久間盛政は柴田勝家を叔父に持つ猛将!一人娘・虎姫の健気な努力とは

佐久間盛政は、柴田勝家を叔父に持つ織田信長の家臣であり、その勇猛さから「鬼玄蕃」と渾名されて恐れられた武将です。織田信長から高く評価され、初代金沢城主に就任した人物でもあります。

この記事では佐久間盛政の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。佐久間盛政がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける佐久間盛政など、様々な視点から解説していきます。

佐久間盛政の基本情報

佐久間盛政(さくまもりまさ)は尾張国出身で、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。

織田信長に仕え、その死去後は嫡男・織田秀信に仕えました。

佐久間盛政の人生(年表付き)

できごと

織田信長家臣として連戦する

1554年、鎌倉時代から続く名門であり、代々織田家に仕えてきた佐久間家に生まれます。

父・佐久間盛次の従兄弟は織田家の重臣・佐久間信盛であり、母は同じく織田信長重臣・柴田勝家の姉でした。こうした血筋を持つ佐久間盛政は、幼い時から織田信長に仕え、観音寺の戦いで初陣を飾ります。

その後も織田信長に従軍して、1570年には越前手筒山城の戦いに参加し朝倉氏と戦い、野州河原の戦いでは六角氏と戦います。どちらの戦いでも武功を上げた佐久間盛政でしたが、特に野州河原の戦いでは、弟の佐久間安政と共に先駆けして敵陣に攻め込む奮闘ぶりを見せました。

1573年に、織田信長と将軍・足利義昭が決裂して槇島城の戦いが起こると、佐久間盛政はここでも武功を挙げ、足利義昭追放に一役買っています。

この頃は、織田信長にとって朝倉・浅井・六角・延暦寺・そして将軍家と、多くの敵に囲まれた危機の時代であり、ここで大いに活躍した佐久間盛政は、叔父・柴田勝家や弟達とともに激賞を受け、その信頼を高めました。

一向一揆衆との戦い

1575年、織田信長より柴田勝家が越前一国を与えられると、佐久間盛政はその与力となって従い、柴田軍の先鋒を担います。

当時の越前国は、織田氏に滅亡させられた朝倉氏の旧臣はじめ、未だ朝倉氏を慕う者が多く、反織田のために一向一揆に参加する者が後をたちませんでした。佐久間盛政は、柴田勝家と共に彼らと激しい戦いを繰り広げることとなります。

1575年9月には越前一向一揆衆を攻撃して大勝しますが、残党は加賀一向一揆衆と合流に向かいます。1576年に加賀・越前合同の一向一揆衆が挙兵し、織田家の大聖寺城が奪取されます。しかし、これを受けて佐久間盛政がすぐさま出陣し、同年中に大聖寺城の奪還に成功します。

上杉勢との戦いと加賀平定戦

時を同じくする1577年、上杉謙信が南下し、織田信長と対立します。柴田勝家は上杉軍と手取川の戦いで争いますが、敗北してしまいます。佐久間盛政はこの戦いには参加しておらず、織田信長の指示で御幸塚に砦を築き在番しています。

この地は加賀の重要拠点であり、一向一揆衆と織田家が争奪戦を繰り広げてきた場所でした。

その頃、1578年に上杉謙信が死去して上杉家中で御館の乱が起こると、にわかに上杉氏の勢力が減退し、織田軍が越中に攻め込んで撃破します。こうして優位に立った織田軍の標的は、加賀一向一揆衆へと絞られるのでした。

1580年、佐久間盛政は加賀光徳寺、末森城、弘願寺などの一向一揆衆の拠点を陥落させていき、ついに、最大拠点であった尾山御坊を攻略します。そしてその功労として、織田信長から金沢城初代城主に任じられました。

翌1581年には、一向一揆衆を支援した上杉景勝が加賀・白山城に侵攻してきます。佐久間盛政が救護に向かった時、既に白山城は落城していましたが、恨みを果たさんと即刻上杉軍に挑みかかり、見事にこれを打ち破っています。この時の佐久間盛政の戦いぶりは凄まじく、この戦いをきっかけに「鬼玄蕃」と渾名され恐れられるようになりました。

そして同年11月、佐久間盛政は加賀一向一揆衆が籠城していた鳥越城への攻撃を開始して大勝し、ついに加賀征服を成し遂げたのでした。織田信長は大いに評価し、加賀北部13万石の所領を与え、佐久間盛政は20代の若さにありながら一国の大名へと出世を果たしました。

賤ヶ岳の戦いへ

1582年5月、本能寺の変が勃発し織田信長が自害に追い込まれると、その後継を巡り清洲会議が開かれ、柴田勝家と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が対立します。

清洲会議の後、能登の有力寺院・天平寺が反織田を掲げて挙兵します。上杉景勝はこれをチャンスと見て彼らを扇動し、荒山合戦が勃発します。前田利家は佐久間盛政に援軍を要請し、佐久間盛政は荒山への猛攻を開始します。これにより天平寺軍の指導者は尽く戦死し、敗走した者達も捕らえられ壊滅しました。

この間も、柴田勝家と羽柴秀吉の対立は日増しに激化し、ついに1583年3月、賤ヶ岳の戦いが勃発します。勿論佐久間盛政は、血縁であり多大な恩義のある柴田勝家側に参加します。

両軍とも堅強な陣を敷き、硬直状態にあった所に、羽柴秀吉が大垣城に赴き戦場を離れているという一報がもたらされます。佐久間盛政は「攻めるなら今しかない」と急襲を提案しますが、柴田勝家はこれに反対します。

しかし、結局は佐久間盛政の強い主張に負け、この作戦が実行されました。急襲により中山清秀や高山右近の軍勢を破り、柴田軍がこの戦いを制するかに見えた所に、美濃から戻った羽柴軍が襲いかかり、急襲軍は大混乱に陥ります。また前田利家が逃げ出してしまったこともあり、終に柴田勝家は敗北してしまいました。

佐久間盛政は再起を図って敗走しますが、越前の山中で郷民に捕らえられ、豊臣秀吉に引き渡されます。そして、「世の中を めぐりもはてぬ小車は 火宅のかどをいづるなりけり」の辞世の句を残し、処刑されました。30歳の若さでした。

佐久間盛政の人柄・人物像

佐久間盛政の人柄や人物像について説明します。

柴田勝家を敗北に導いた傲慢な愚将という評価

佐久間盛政は、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を敗北させた原因(急襲計画を立案・強制したこと)を作った愚将と評価されることが多々あります。賤ヶ岳の戦いの直後、木村由己が著した『柴田合戦記』と江戸時代初期の『太閤記』などでは、佐久間盛政は傲慢な人物であり、柴田勝豊などから嫌われていたと記されています。

また、加賀一向一揆を壊滅させた実績は、織田信長からは讃えられたましたが、当時の加賀の領民達からは非常に恐れられ憎悪されました。

『越登賀三州志』には、「加賀国の人民は佐久間盛政の苛政に苦しめられた。前田利家公は仁政を敷いたので、加賀の人民から慕われた」と記されており、領民からは恨まれるばかりで支持されていなかったことが分かります。

武将としては織田信長や柴田勝家から大いに評価された一方で、その勇猛さ・猛戦ぶりが「傲慢」「領民を思いやらない苛政者」という評価をもたらしていると言えるかもしれません。

豊臣秀吉も唸る武士らしい最期

傲慢と評された一方で、佐久間盛政の勇猛で誇り高い性格であったことが伺えるのが、処刑における最期の姿です。

佐久間盛政のこれまでの実績やその勇猛さを買っていた羽柴秀吉は、捕らえられた佐久間盛政をすぐには処刑せず、宇治の槇島にて養生させます。

そして、「我に二心なく仕えるならば一国を与えよう。敵や味方というのは一時のことであって、そなたの武勇を捨てるのは忍びない」と問いかけます。これに対し、佐久間盛政は「もしも我に国を与えるならば、次は貴殿を生け捕りして差し上げよう。叔父である柴田の恩をなぜ忘れられましょうか」と応えました。

羽柴秀吉はその心情を賞賛し、武士として名誉ある死を授けようと、切腹を命じます。しかし、これに対しても佐久間盛政は、「願わくば、車に乗せ、縄目を受けている様子を上下の者に見せ、一条の辻より下京へと引き回されたい。」と言い、敗将の家臣として処刑されることを望みました。

さらに、「死装束は、思い切り目立ったほうがいい。あれこそ盛政ぞと言われて死にたい」と、大紋を染め抜いた紅色の広袖に、裏には紅梅をあしらった派手な小袖を要求します。

羽柴秀吉は希望通りの小袖を与え、佐久間盛政の誇り高さを賞賛しました。

佐久間盛政の名言・エピソード

佐久間盛政の名言やエピソードについて解説します。

一族の過失の責任をとって蟄居する

一向一揆衆を攻める前年の1580年、父のいとこで織田信長の重臣であった佐久間信盛が、織田信長の不興を買って19カ条に渡る折檻状を突きつけられ、高野山に追放されます。

これを一族の過失と受け止めた佐久間盛政は、自ら蟄居を申し出て表舞台から退きます。しかし、佐久間盛政のこの行動から、大きな忠義心を感じた織田信長はすぐに蟄居を解き、金沢・尾山御坊への出陣を命令しました。

浅野長政からの中傷に対する返答

賤ヶ岳の戦いの後、捕らえられ引き渡された佐久間盛政に対し、豊臣家重臣・浅野長政は「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ破れて自害しなかったのですか」「臆病者だ」と愚弄しました。

これに対し、佐久間盛政は「昔、源頼朝が戦に破れたとき、木の洞に隠れて逃げ忍び、後に再起して平家を滅ぼした。その志、貴殿では知らぬよな」と返します。これを聴いた周囲の人々は、その言葉に納得して非常に感心したと言われています。

一人娘・虎姫の尽力

佐久間盛政の死後、残された一人娘・虎姫は、豊臣秀吉の仲介で中川秀成と結婚します。中川秀成の父は、賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政が討ち取った武将・中川清秀でした。

互いに恨みを持つ立場でありながら、二人は大変仲睦まじい夫婦となり、多くの子宝に恵まれます。7人目の子を妊娠した虎姫は、「次に産まれる子が男ならば、その子に佐久間家を継がせたい」と夫に願い出ます。

こうして誕生した子は、虎姫の待望した男児だったのですが、産後の肥立が悪く虎姫は死去してしまいます。しかし、夫・中川秀成は虎姫との約束を守り、この男児を佐久間盛政の弟・佐久間勝之の養子とします。

やがてこの男児は元服して佐久間勝成と名乗り、佐久間盛政の血と共に佐久間家の名が明治時代まで受け継がれていくこととなりました。

虎姫は、嫡男の中川久盛にも父の菩提寺建立を懇願しており、母の死後、中川久盛はその願いを叶えて大分県竹田市に英雄寺という寺を建立しています。

フィクションにおける佐久間盛政

フィクションにおける佐久間盛政を解説します。

信長の野望にける佐久間盛政

シリーズによっても異なりますが、佐久間盛政のステータスは、統率72、武勇82、知略64、政治36となっています。鬼玄蕃の名にふさわしく、武勇が高数値となっていますが、賤ヶ岳の戦いの敗因を作った武将として、知略や政治は低くなっています。

歌舞伎や浮世絵における佐久間盛政

江戸時代、佐久間盛政は豊臣秀吉の好敵手として創作物に登場することが多々ありました。

身長が182センチほどで、当時としてはかなりの巨漢であった佐久間盛政は、歌舞伎や浮世絵の中でも、筋骨隆々の豪傑で、武辺者ながら天晴とした最期を迎えるキャラクターとして描かれていたようです。

佐久間盛政は生涯を戦に捧げ太く短く生きた猛将だった

佐久間盛政はその30年という短い生涯の間、織田家の敵対勢力である朝倉・浅井などの諸将、上杉氏、そして一向一揆衆と、多くの敵との戦いを繰り広げました。

どの戦においてもその勇猛さは凄まじく、時に残虐であったほどです。まさに鬼玄蕃の渾名に相応しい猛将ぶりでした。

制圧された当時の加賀の領民からすれば、佐久間盛政は間違いなく「熾烈な苛政者」であったかもしれません。しかし、織田信長や柴田勝家の下で忠実に働き、武功を上げ続けた姿は、武士としての誇り高き名将であったと評価することができるでしょう。