酒井忠次は知勇兼備の徳川四天王の一人!個性的な兜や信康切腹事件との関係は?

酒井忠次は、徳川家康に仕えた武将で徳川四天王・徳川十六神将の筆頭ともされる重臣です。徳川家康の信頼が厚く第一の功労者とも言われた武将でもあり、徳川の地位を確固とする基盤を築いた人物でもあります。

今回はそんな酒井忠次の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについて解説していきたいと思います。

酒井忠次の基本情報

酒井忠次は三河国出身の武士で徳川家康に仕えた武将です。徳川四天王の一人として生涯に渡って徳川家康に仕え、最も信頼される重臣の一人として主な戦全てに参加し、交渉事などの政治面も含めて活躍しました。

酒井忠次の人生

できごと

人質時代から仕え、徳川家の家老に就任

1527年、酒井忠親の次男として生まれた酒井忠次は、元服後に徳川家康の父である松平広忠に仕えます。また、徳川家康(当時の名は竹千代)がまだ幼かった当時、今川義元への人質として駿府に赴く際には家臣として最高齢となる23歳で家康に従い同行します。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元が破れ、家康が独立する頃には家康の信頼も厚く、家老に就任しました。また1563年には、徳川家を揺るがす三河一向一揆が発生します。この一揆は農民だけでなく、家康が信頼を置いていた徳川家臣団(石川氏、鳥居氏、酒井氏、本多氏など)の中からも反旗を翻す者が多く出る劣勢の戦いでしたが、その最中であっても酒井忠次は家康の側を決して離れることはありませんでした。

乱世に揉まれる徳川家を支える

桶狭間の戦い後の徳川家は、織田信長と同盟を結んで織田・徳川連合軍として武田家や浅井・朝倉家など数々の有力大名と凌ぎを削っていました。酒井忠次は家康が最も信頼する懐刀として数々の交渉ごとも務める役目を担い、また数々の戦いにも同行し功績を残しました。

徳川家康の人生史で最も苦節を舐めたと言われる1573年の三方ヶ原の戦いでは、西上作戦として武田軍の猛攻を受ける中で酒井忠次が善戦し活路を見出し、家康を浜松城へ無事撤退させる武功をあげたと言われています。

また1573年の長篠の戦いでは武田軍への奇襲を提案し、別働隊を率いて武田軍の退路を断ち、戦を勝利に導く戦功を挙げました。

信康切腹事件から晩年の活躍まで

1979年に徳川家康の嫡男である信康が切腹に追い込まれる事件が発生します。事の発端は信康の正室である織田信長の娘徳姫が、信康の日頃の粗暴な行いや、姑である築山殿と一緒に敵国である武田家と内通しているという内容を記した書状を信長に出した事とされています。真偽は不明ですが、その書状を託され信長との交渉を任されたのが酒井忠次でした。家康自体は信頼厚い忠次なら何とかしてくれるという意図があったのかもしれませんが、結果として忠次はその書状を事実として認め、信長は信康切腹を命じることになります。1573年、信長の命を受けた家康は、苦渋の末に信康と築山殿を自害させました。

信康切腹事件以降も家康と酒井忠次の信頼関係は変わらず、側近として活躍を続け、1584年には晩年最後の戦いでもある小牧・長久手の戦いに参加し、敵軍の森長可を敗走させるなど武功を挙げます。

その後の徳川家は豊臣政権に従う形をとり、酒井忠次は豊臣秀吉からもその知勇兼備な点を評価され一目を置かれました。1586年には徳川家臣団では最高位の「従四位下左衛門督」の官位も授けられ、1588年に嫡男である家次に家督を譲る形で隠居します。

1596年、隠居先である京都桜井屋敷で70歳の生涯を終えました。

酒井忠次の人柄・人物像

酒井忠次の人柄や人物像について説明していきます。

家康からの厚い信頼

酒井忠次は徳川四天王と呼ばれる中でも最古参の武将にあたり、家康がまだ今川家の人質であった幼い頃より仕え、最も忠義に厚い家臣として長きに渡って重宝されました。

1563年の三河一向一揆の功績後は東三河を統率する旗頭として重要な役目を担い、また本能寺の変後の明智光秀討伐計画でも酒井忠次が先鋒を任命されるなど、晩年に至る様々な場面まで活躍し、家康から最も信頼が置かれていた家臣の一人であったことがわかります。

家康との信頼関係を表す逸話として、家康の次男秀忠の名前のうち「秀」は豊臣秀吉から、「忠」は酒井忠次からあやかったとも言われています。

機知に富んだ人柄

酒井忠次は数々の戦で武功を挙げた武勇面と共に、その優れた知略も評価されていた人物でもあります。

1573年の三方ヶ原の戦いで大敗を喫した翌年の正月に武田家から「松枯れて竹類なき明日かな(徳川はもうすぐ滅び、武田が明日にも天下をとる日が来るだろう)」と詠んだ句が送られてきます。

それに対して憤怒した徳川側でしたが、そんな家臣団の心を諌めるように酒井忠次は送られてきた句に濁点などを加えて「松枯れで武田首なき明日かな(徳川は枯れずに栄え続け、武田は明日にも滅んでしまうだろう)」と書き換え、飾ってあった門松を武田に見立てて斜めに切り落とし、家中をあっと言わせたという逸話が残っています。武功もさることながら、咄嗟に切り返す知能派の一面も持った人物であったことがわかります。

酒井忠次の名言・エピソード

酒井忠次の名言やエピソードについて解説していきます。

兜は派手!

当時の戦国武将の間では戦場で着飾る兜は自身の存在感や威光を放つ際のアイデンティティーとして非常に重要な物となっていました。酒井忠次の兜はというと、ここまでのエピソードでの人柄や忠義心から考えると堅そうな地味目のものを想像してしまいますが、意外にも彼が身につけていた兜は派手目の物が多く、真紅のボディに金色に輝く鹿の角がつけられた兜が有名です。

この赤備えの鹿角兜というと、かの有名な真田幸村の姿として残されていますが、実は酒井忠次が早くから身につけていたデザインでした。当時としては徳川四天王の酒井忠次としてのイメージの方が有名だったのかもしれませんね。彼の個性の強さと、戦場で必ず武功を挙げて目立ってやるという意志の現れが垣間見えるような力強い兜になっています。

特技は海老すくい!

酒井忠次の愉快なエピソードとして「海老すくい」という妙技とも言える得意技があったとことが残されています。

当時長篠の決戦前の徳川家では、天下に轟く武田の騎馬軍団の猛威に萎縮されてしまい、徳川家臣団の中で不安や怯えという雰囲気が漂ってしまっていました。そんな最中に突如家康が酒井忠次に向かって「いつもの海老すくい踊りをせよ」と命じました。海老すくいというのは酒井忠次の十八番芸であったらしく、すぐさまその場で海老すくい芸を舞って周囲を笑いの渦に巻き込んだと伝えられています。

徳川軍の恐怖をも一掃するユーモア性を持ち、精神面でも徳川一団を支えていたことが良くわかる暖かいエピソードとなっています。

フィクションにおける酒井忠次

フィクションにおける酒井忠次を解説していきます。

信長の野望における酒井忠次

信長の野望の中での酒井忠次はシリーズごとに少し異なりますが、最も高い数値を誇るシリーズでは統率84,武勇74,知略85,政治63と全武将の中でも高い能力を持った武将となっています。

ドラマにおける酒井忠次

徳川四天王の一人ともなるので、戦国を描いたドラマでの登場シーンは多めとなっています。近年のNHK大河ドラマでは「秀吉」「功名が辻」「天地人」「江〜姫たちの戦国〜」「おんな城主 直虎」など多数の作品で登場しています。

最も最近の作品では2017年放送の「おんな城主 直虎」で俳優のみのすけさんが酒井忠次役を演じられています。

酒井忠次は文武とユーモアに溢れた徳川随一の武将

酒井忠次はその生涯に渡って徳川家康に仕え続け、軍事・外交に秀でた才を生かし徳川家臣の筆頭として名を轟かした人物でした。数々の戦で名を挙げた武勇と知略は、信長、秀吉という天下人たちにも絶賛され一目を置かれています。

また海老すくい踊りのエピソードなど、徳川最高位の重臣でありながらも家臣を和ませる振る舞いを行うなど、非常に気さくな人物であったことも分かっています。

酒井忠次は名実ともに徳川一の家臣であったと言えるのではないでしょうか。