斎藤義龍の身長はかなり大きかった!父親は道三ではない?

斎藤義龍は父・斎藤道三の子として美濃国を治めた人物です。マムシの異名で知られた斎藤道三の陰に隠れてしまいがちですが、美濃国内の武士たちの大半の支持を受けて道三を討ち取ります。若くして死去したため活動期間は短いですが、その間は度重なる敵の侵入に耐え、美濃国の支配を維持しました。

この記事では斎藤義龍の生涯を年表付きで分りやすく解説します。斎藤義龍がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける斎藤義龍など、様々な視点から解説していきます。

斎藤義龍の基本情報

斎藤義龍は戦国時代に生きた武将です。父・斎藤道三を討ち、美濃国を治めました。

斎藤義龍の人生(年表付き)

できごと

斎藤家の当主となる

斎藤義龍は大永7年(1527)に斎藤道三の子として生まれます。天文23年(1554)に父・道三が隠居し、斎藤家の家督を継いで稲葉山城主になったとされます(天文17年(1548)という説もあり)。一方で隠居した道三は、岐阜城から長良川を渡って西北方面へ4㎞ほどの地点にある鷺山城に移動します。

父・道三を討ちとる

道三は義龍を「耄者(ほれもの、愚か者の意味)」と言い、義龍を廃嫡して腹違いの弟である孫四郎を立てようとします。弘治元年(1555)、義龍は孫四郎ら二人の弟をおびき出して殺害し、父・道三と義絶します。弘治2年(1556)に長良川の戦いで義龍と道三は激突します。義龍は西美濃三人衆をはじめ家中の大半の支持を集め、軍勢は17500ほどになります。一方で道三方に着いたのは2700ほどでした。義龍軍は序盤こそ、マムシとよばれた道三率いる軍勢に苦戦するも、数の差で圧倒し道三を討ち取ります。またこのとき隣国の織田信長が道三方の援軍として向かいますが、進軍中に道三討死の報せが伝わり、義龍軍と戦闘をしながら撤退しています。さらに道三方に味方して明智城に立て籠もった明智氏にも別働隊を差し向け、当主の明智光安を自害に追い込みました。

美濃国を治めるも若くして死去

道三を討ちとり、美濃国の実質的な支配者となった義龍は、室町幕府将軍足利義輝から、足利氏一門の名家である一色氏の姓を賜ります。これは一説には、父親殺しの汚名を避けるための措置だったという説もあります。永禄2年(1559)には上洛して足利義輝に謁見し、幕府相伴衆に列せられます。これは将軍から、大名として正式に認められたことを意味しました。外交面では南近江の六角氏と同盟を結び、北近江の浅井氏と争います。また、尾張国の織田信長からは度々侵攻を受けますがそのたびに撃退しました。

永禄4年(1561)には左京太夫に任じられますが、同年に病死しました。

斎藤義龍の人柄・人物像

斎藤義龍の人柄や人物像についてまとめます。

戦国大名としての能力はあった?

油売りから一国の当主に成り上がった父・道三の陰に隠れてしまい、さらに若くして病死し実質の活動期間が長くないためか、あまり評価されていないようにみえます。しかし、道三との争いでは多くの支持集めたことから、かなりの統率力を持っていたと思われます。また義龍存命中は、織田信長は美濃国へ手出しができず、子・龍興の代になってようやく美濃国の攻略に成功しました。道三にこそ評価はされなかったものの、一国の統治者としての能力は十分に持っていたように思われます。

内政に力を入れ、国内の支持を得る

義龍が美濃国を統治していた期間、国内の武士に宛てた知行宛行状が数多く発給されています。一方で道三が討死するまでの時期は宛行状が少なく、美濃国内の内政が省みられていなかった様子が見られます。義龍は新しい知行制や軍役大系の構築なども行っており、内政に力を入れていた様子が伺えます。これが美濃国内の武士たちの支持を受けることに繋がったと思われます。

斎藤義龍の名言・エピソード

斎藤義龍の名言・エピソードについて解説します。

父親は斎藤道三ではない?

斎藤義龍は、斎藤道三の子であると一般的には言われていますが、実は土岐頼芸の子であったともいわれています。土岐頼芸は美濃国守護でしたが、当時その家臣であった斎藤道三によって美濃国を追放されました。頼芸の愛妾であった深芳野はのちに斎藤道三の側室となり斎藤義龍を出生しますが、実は頼芸の妾だった時に既に義龍を懐妊していたといわれています。

この説を裏付ける信憑性の高い史料は残っていませんが、道三が義龍を嫌っていた理由もそれに気が付いていたためと考えることもできます。また義龍も父・道三に反旗を翻す際に、父親殺しの汚名を被ることを避けるために自らが道三の実子ではないことを主張し、さらには美濃国守護として由緒ある土岐姓を称することで多くの賛同者を得ることに成功したともいわれています。

驚くほど大柄だった!

斎藤義龍は身長が六尺五寸(約197㎝)あったとされています。現在の基準からみてもかなりの大柄な部類に入りますが、当時の日本人の身長が155㎝程度であったことから考えると、その大きさはさらに際立ちます。馬に乗っても地面に足がついたともいわれています。また、義龍の実母の深芳野も六尺二寸(約187㎝)とかなり大柄であったともいわれています。父・斎藤道三の体格については特に伝わってないようで、平均的なものだったと考えられます。

フィクションにおける斎藤義龍

フィクションにおける斎藤義龍を解説します。

信長の野望における斎藤義龍

シリーズによっても異なりますが、統率78、武勇80、知略69、政治59となっています。父・道三と比べるとあまり高い評価を得られていないように感じます。

ドラマにおける斎藤義龍

織田信長とは隣国同士でしばしば武力衝突をしていたこともあり、しばしばドラマにも登場します。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、伊藤英明さんが演じました。主人公の明智光秀と幼いころから学問や武芸を共にした学友として登場します。道三からは統治者としての能力を評価されておらず、自らの父を土岐頼芸であると信じています。家臣や国衆からは支持を受けており、長良川の戦いでは一騎打ちの末、道三を討ちとりました。

斎藤義龍は目立たないものの安定した実力者だった!

斎藤義龍は、周辺に斎藤道三や織田信長などの大物役者がいるなかで、いまひとつ評価を受けられずにいます。しかし内政や戦の実績を見ても安定して成果を出していました。存命中は織田信長からも、美濃国の大名として一目置かれていたものと思われます。歴史にたらればは存在しませんが、斎藤義龍が長く生きていれば、織田信長は美濃国を押さえることもできず、上洛して勢力を拡大することも難しかったかもしれません。斎藤義龍が周辺諸国の大名たちに与えた影響はかなり強かったと思われます。