斎藤利三は明智光秀の家臣で娘は春日局!長曾我部元親との関係は?

斎藤利三は、その名が史料に登場するのは非常に短い期間であり、謎が多いにも関わらず、最期まで明智光秀と運命を共にした武将として知られています。娘は、徳川家光の乳母となり大いなる功績を残した春日局であり、このことも彼の名を広く知らしめた要因となっています。

この記事では斎藤利三の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。斎藤利三がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける斎藤利三など、様々な視点から解説していきます。

斎藤利三の基本情報

斎藤利三(さいとうとしみつ)は美濃国出身で、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。

都で松山新介に仕えた後は、美濃に戻り斎藤義龍、稲葉一鉄と主君を変え、そして生涯の後半は明智光秀に仕えました。

斎藤利三の人生(年表付き)

できごと

謎に包まれた前半生

斎藤利三の出自ははっきりしていませんが、1534年頃、美濃斎藤氏の一族に生まれます。父親は斎藤利賢であり、母親はその正妻で室町幕府政所執事代の蜷川親順の娘だと言われていますが、明智光秀の妹の子ではいなかという説もあります。

実兄・石谷頼辰は室町幕府の奉公衆であり、若き日の斎藤利三も兄と同じく奉公衆として幕府に出仕していました。後の主君・明智光秀も奉公衆出身であるので、この頃から2人には面識があったと考えられています。

都では三好氏の家臣であった松山新介に仕えますが、その後故郷美濃に戻り、稲葉山城主・斎藤義龍に仕えます。

斎藤義龍が1561年に病死して後をその子・斎藤龍興が継ぐと、1567年に斉藤道三の頃からの重臣で西美濃三人衆にも数えられる稲葉一鉄が織田信長の下へと離反します。そして、稲葉一鉄の娘を後妻に迎えており縁戚関係にあった斎藤利三も、これに従います。稲葉一鉄は織田信長の家臣となったため、斎藤利三もそれに順じて織田信長の配下に入りました。

1570年、浅井長政の裏切りに会った織田信長が金ヶ崎の戦いで退却すると、斎藤利三はその警護を務めています。しかし、元々斎藤利三は稲葉家では冷遇されていたようで、その後間も無く稲葉一鉄と仲違いし、彼の元を逃げ出してしまいます。

明智光秀の家臣となる

主君を失った斎藤利三は、明智光秀を頼ります。斎藤利三の父の後妻は、明智光秀の叔母であり、縁戚関係にありました。また前途したように、斎藤利三の母は明智光秀の妹であるとも言われており、どちらにせよ血の繋がりがあったために彼を頼ったのだと思われます。

ここでは大いに重用され、明智秀満と並んで筆頭家老となります。史料には明確な記録が残っていませんが、明智光秀に従って、石山本願寺との戦いや、雑賀攻め、丹波攻略のための黒井城の戦いなど、主要な戦のほとんどに参加していたと考えられます。

明智光秀が1580年に丹波平定を成し遂げると、斎藤利三も1万石を与えられた上、黒井城主となり丹波国氷上郡の統治を命じられました。

本能寺の変

1582年5月頃、斎藤利三は稲葉一鉄の家老・那波直治の才能に目を付け、彼を明智家の家臣団に引き抜こうとします。これに対して、稲葉一鉄が激怒し、織田信長に訴えます。

織田信長は明智光秀に対して、那波直治の引き抜きを止めさせると共に、かつて稲葉一鉄の家臣であった斎藤利三についても稲葉一鉄に返すよう命じます。しかし明智光秀は、「良い部下を持つのは私のためではなく、上様のためなのです」と反論しました。

これを明智光秀の屁理屈であると激怒した織田信長は、彼の額を何度も敷居に押し付けて殴り、激しく折檻しました。その後5月27日、斎藤利三に対して切腹が命じられてしまいます。

このことが直接的な原因になったかは不明ですが、その4日後の5月31日、ついに明智光秀が本能寺の変を起こします。

明智光秀は本能寺の変を起こす前、藤田行政・溝尾茂朝・明智秀満、そして斎藤利三という一部の重臣にその計画を打ち明け、相談しています。斎藤利三はこの計画について無謀であると反対しましたが、これまでの明智光秀への恩義から、結局はその首謀者の一人として参加することを決意したと言われています。

斎藤利三は先鋒を務め、織田信長とその嫡男・織田信忠を自害へと追い込みます。また同じく美濃斉藤氏一族であり義弟でもある斎藤利治もここで討ち取るなど、大いに活躍しました。

しかし、その後明智光秀が公卿や諸将との協力を上手く取り付けられず孤立し、そこにすぐさま、織田信長の敵討ちと銘打って、毛利氏と和睦を結び中国地方から引き返してきた豊臣秀吉が侵攻してきます。

6月13日、ついに山崎の戦いが勃発しますが、豊臣方の戦力が約2万〜4万であったのに対し、明智方はわずか1万〜1万6千程と、圧倒的に不利な状況での開戦でした。斎藤利三は明智方本陣の前面に布陣し、豊臣方を迎え撃つ構えをとり奮闘します。

しかし、戦力差がある上に明智軍の兵は無理やり集められた者も多く士気が低かったために敗北を喫し、明智光秀は居城・坂本城を目指して落ち延びる途中に落ち武者狩りにあい戦死、家老の明智秀満らも自害します。斎藤利三は逃亡しますが、梅雨時期の暑さと戦の疲労から衰弱してしまい、6月17日、近江国・堅田で捕らえられます。

そして洛中を引き回された末に六条河原で斬首され、その遺体は主君・明智光秀のものと並べられて本能寺にさらされました。その最期に際し、「消えてゆく 露のいのちは短夜の あすをも待たず 日の岡の峰」と辞世の句を残しています。

斎藤利三の人柄・人物像

斎藤利三の人柄や人物像について説明します。

明智光秀への忠義心

斎藤利三がなぜ稲葉一鉄の下を離れたのかについて、『当代記』では、斎藤利三は「信長勘当の者」と記されており、稲葉一鉄だけでなく織田信長との間でも何かしらの軋轢が発生したことが伺えます。

このような窮地を救い家臣団に迎え入れてくれたのが明智光秀であり、斎藤利三は大いに感謝したことでしょう。また、丹波平定後に斉藤利三に与えられた黒井城は、明智光秀の宿敵・赤井直正の本拠地であった堅城でした。明智光秀も斎藤利三を高く評価し絶大な信頼を寄せていたことが伺えます。

斎藤利三は、かつての主君、斎藤義龍、稲葉一鉄・織田信長の時と比較すると、明智光秀に対しては恩義を忘れずにその最期まで尽くしており、彼に対しては非常に厚い忠義心をもっていたことが伺えます。

文化人としての一面

茶人としても名前を残しており、千利休らと共に「茶湯の天下三宗匠」と讃えられている津田宗及とも度々茶の湯を嗜んだという記録が残っています。1578年3月10日には、明智光秀とともに連歌会に出席した記録が残っており、教養に富む文化人であったことも、明智光秀からの信頼を得た一つの要因となっているとも考えられます。

絵師の海北友松とも風流の仲であり、山崎の戦いの後、斎藤利三の遺体は彼により京都・真正極楽寺に手厚く葬られました。この時、海北友松は磔にされていた斎藤利三の遺体を奪い取って埋葬し、斎藤利三の遺児を彼が保護したという逸話も残っています。後にこのことをもって息子の海北友雪が春日局から褒賞を受けています。

斎藤利三の名言・エピソード

斎藤利三の名言やエピソードについて解説します。

長宗我部元親との関係 本能寺の変の動機となる?

本能寺の変がなぜ発生したのかを考察する上で、「斎藤利三本能寺黒幕説」というものが存在し、そこには四国の戦国大名・長宗我部元親が関係してきます。

斎藤利三の父・斎藤利賢は、時期は不明ながら正妻であった蜷川親順の娘と離縁し、彼女はその後石谷光政という人物に再嫁します。そこに生まれたのが「元親夫人」と呼ばれる長曾我部元親の正室となる女性でした。

つまり、斎藤利三と元親夫人は父親違いの兄妹という関係であり、長曾我部元親は斎藤利三にとって義理の弟にあたります。斎藤利三の実兄・石谷頼辰は母の再婚相手の石谷家に養子に入っており、その娘が長宗我部元親嫡男に嫁ぐなど、深い関係にありました。

このように斎藤利三と縁戚関係にあった長曾我部元親は、彼を仲介役として織田信長から四国地方の切り取り自由の権利を与えてもらっていました。しかし、1582年になると、織田信長はこれを反故にして四国討伐を開始してしまいます。

こうして、それまで斎藤利三が親族をあげて友好関係を築いていた長曾我部氏に対し一方的に討伐にかかろうとした織田信長に不満を抱き、明智光秀に織田信長打倒を進言したというのが、「斎藤利三本能寺黒幕説」の内容となっています。山科言経著『言経卿記』には、「日向守斎藤蔵助(=斎藤利三)、今度謀叛随一成」という記載も残っています。

子孫のその後

斎藤利三の嫡男は山崎の戦いで戦死してしまいますが、三男・斎藤利宗は出家した後やがて加藤清正の家臣となり、五男・斎藤三存は小早川秀秋の家臣となります。

そして後に春日局と名乗る末娘・福は、父の死後、母方の親戚である三条西公国に養育され、ここで書道・歌道・香道などの公家としての教養を身につけます。後に伯父・稲葉重通の養女となり、徳川家光の乳母へと取り立てられ、大奥総取締役に就任するという、謀反人の娘として異例の出世を果たしています。

江戸時代には春日局の口利きによって、兄達は旗本に取り立てられ家名を存続させています。

フィクションにおける斎藤利三

フィクションにおける斎藤利三を解説します。

信長の野望における斎藤利三

シリーズによっても異なりますが、斎藤利三のステータスは統率76、武勇77、知略73、政治37となっています。

ドラマにおける斎藤利三

1989年の大河ドラマ『春日局』では俳優の江守徹さんが演じており、本能寺の変で織田信長を討つがその後斬首されたため、幼い春日局はその身分を隠して三条西家で下働するはめになったという苦労が描かれています。

1996年の大河ドラマ『秀吉』では俳優の上条恒彦さんが演じ、明智光秀を親身にサポートしてその配下に入ることを熱望し、本能寺の変では明智軍の先頭に立って采配を振るった忠臣として描かれました。

斎藤利三の人生は謎に包まれているが、明智光秀への忠義心は本物だった

敗者の歴史は残らないのが世の常であり、斎藤利三に関しても、彼についての史料は乏しく、謎に包まれた部分が多いです。斎藤利三はその生涯様々な主君に仕え、明智光秀に仕えたのは後年でしたが、彼に仕えてからは厚い忠義心をもって尽くしています。

本能寺の変と続く山崎の戦いに際して、無謀であると反対したにも関わらず主君に従って奮闘し、最後まで運命を共にした姿は、まさに忠臣の鏡であると言えます。

斎藤利三の死後、末娘であった春日局が大出世を遂げたことで彼の名誉も回復し、日本史上最も有名な裏切り者の一味という評価から、明智家に忠義を果たした武将であるというイメージに大きく変換されたことは、彼にとって非常に幸運なことであるでしょう。