斎藤龍興が織田信長を執拗に追いかけたことで斎藤家が滅亡した?逸話なども紹介

下ものが主君を倒し、武士だけでなく平民からでも力一つでのし上れる時代でもありました。しかしその逆もあり下剋上で一国の戦国大名となっても子孫たちの代によって直ぐに滅んでしまうことも多々あり、家臣たちは家柄よりも下剋上を起こした本人を慕っているため新たな当主へと変わると家中で争うことがよく発生していました。

その下剋上の代表格となっている斎藤道三は、実の長男に戦によって命を絶たれ斎藤義龍へと代替わりをしていきましたが斎藤義龍は斎藤道三を討ってから僅か5年で生涯を閉じてしまい嫡男の斎藤龍興へと受け継いでいきます。しかし斎藤龍興は祖父や父のように学問や剣術を懸命に学んでいなかったこともあり家臣たちからは信頼を得られていませんでした。

今回は下剋上で戦国大名となった斎藤家を継いだ三代目の斎藤龍興の生涯について解説していきます。

斎藤龍興の基礎情報

斎藤龍興の名前や主君を紹介していきます。

出生説が複数ある斎藤龍興

斎藤龍興の出生に関する通説では斎藤義龍と庶子の女性との間に誕生したこどもとされていますが、斎藤義龍と近江局の二人の間に誕生した説もあるものの年齢に誤差があることや近江局に関しての出生もはっきりとしていないようです。

斎藤龍興の年表

できごと

若くして当主になった斎藤龍興

14歳の年齢で父斎藤義龍の死によって斎藤家を相続することになりますが、若い年齢だったこともあり家臣が斎藤龍興を慕わず離れていきました。特に斎藤道三と斎藤義龍が戦った長良川の戦い以降に斎藤道三の重臣だった森可成・坂井政尚・堀秀重などが斎藤家から離れて他家へ仕えていました。

また斎藤家の血を継いではいましたが、人をみる目が全くなく評判の悪い将を重臣とするなど主君としての器量がない人材。斎藤義龍が亡くなってから直ぐに義父の仇でもあった織田信長が葬儀を準備しているところを狙って手勢を率いて美濃へ侵攻してきました。

織田軍は1500兵だったの対して斎藤軍は6000兵と数では勝ってはいましたが、戦準備をするのに手間取ってしまい戦開始直後は押されてしまいます。しかし兵力で勝っていた斎藤軍は織田軍を取り囲むようにして攻撃を仕掛けていきましたが、手薄になった部分が崩されてしまい陣形が崩れ斎藤方の大将だった長井衛安・日比野清実が討たれた敗北してしました。

織田信長との美濃公房攻防

森部の戦いで敗北したことにより、織田信長と正面から戦っても勝ち目がないと判断した斎藤龍興は近江にいた浅井長政と同盟を交わそうと動いていきます。ところが織田信長は斎藤龍興の行動を読んでいたのか、浅井長政と同盟を交わしていきました。

1563年に再び織田信長と斎藤龍興は美濃国で争うことになり、木曽川付近で戦い織田軍が約6000兵と斎藤軍は約3500兵で対峙していきます。織田信長は前回とは違い重臣級の将と引き連れてきているため直ぐに決着がつくと思っていた織田信長でした。

ところが、序盤から織田軍が押され始めていて家臣の一人だった斎藤軍の竹中重治が策略を巡らせていたことで斎藤軍が有利な状況になっていきます。竹中重治が予め潜めていた伏兵を匠に利用し織田軍を追い詰めていきましたが、織田軍の木下藤吉郎がとおり道に大量の松明に火を灯し援軍が到着したかのうようにみせたことで斎藤軍は一旦軍を下げていき織田軍は退却していきました。

これにより斎藤軍の勝利となり織田信長を一時的に退きました。

斎藤家が滅び多くの戦に参加し織田信長に攻撃

織田軍に勝利した新加納の戦いでしたが、織田信長は美濃攻撃の手を緩めることなく美濃国を侵攻していき遂に稲葉山城で斎藤家は滅ぶことになりました。命からがら生き延びた斎藤龍興は織田信長と交戦していく軍に加担していき、本願寺軍として長島一向一揆に参陣し微力ながら打倒織田信長のために様々な戦に参加していきます。

斎藤龍興は主に三好三人衆や本願寺側などを支援していきましたが、浅井長政と織田信長の攻撃が激化した時に刀禰坂の戦いで戦死していきました。

斎藤龍興の人柄

斎藤龍興の人柄や性格をみていきましょう。

無能な主君

当主になったころは若年だったこともあり、家臣たちは斎藤家についていきましたが次第に家臣への横柄な態度や政治を行わない姿勢に反発していく家臣たちでした。また新加納で軍で一番の活躍をみせた竹中重治を罵ったりと褒美を与えず、今までと変わらない接し方をしていたようです。

織田信長に何度も挑む

家臣たちの裏切りにより稲葉山城で戦国大名としての斎藤家は滅亡し斎藤龍興は、他家と協力してことで織田信長と抗戦していきます。通常の大名であれば自家が滅んだ時点で、違う名に変えて生活していくことですが織田信長に一矢報いるべく行動していく姿は無能な主君ではなく一侍としての気概を感じられた将だったことでしょう。

斎藤龍興の逸話

斎藤龍興のエピソードや逸話について紹介していきます。

家臣団に稲葉山城を制圧された

斎藤道三の代から家臣として仕えていた竹中家は、斎藤家三代に渡って斎藤家の手足となり働いていました。主だった戦果もなかった竹中家ではありましたが、竹中重治が家を継ぎ戦場へと参加していくと戦前に入念に練った戦略を披露し度々斎藤家の危機を救っていました。

ところが斎藤龍興は、竹中重治に助けられながらも褒美を与えず重用していませんでした。更に評判の悪かった斎藤飛騨守とは犬猿の仲だった竹中重治は、西美濃三人衆と共に稲葉山城を制圧し斎藤家を衰退させていきます。この事件をきっかけに斎藤龍興の力は一層衰えていき、家臣たちを更に他家へ流失させることになっていきました。

生き延びていた斎藤龍興

刀禰坂の戦いで戦死したとされている斎藤龍興には、いくつかの現存資料によると生存していた記録が記述されており越中国で九右ェ門と名乗り出家した説や石山本願寺まで落ち延び再起を狙っていましたが、願教寺で亡くなったとされている説が伝わっています。また越中国で生き延びた際に、鉱泉を開き隠れキリシタンを匿った場所にもなっていたようでルイス・フロイスが記述した日本史に九右ェ門とのやり取り書かれています。

フィクションにおける斎藤龍興

現代における演出や漫画で登場する斎藤龍興を紹介していきます。

NHK大河ドラマ

斎藤龍興に関しては、登場シーンこそあまり多くはありませんが国盗り物語や秀吉・功名が辻などに登場しており史実どおりの人物として忠実に描かれています。演じた俳優は大石悟郎さんや工藤和馬さんが斎藤龍興を演じています。明智光秀を主役とした麒麟がくるでも登場する可能性があります。

センゴクでの斎藤龍興

斎藤家の家臣だった仙石久秀についてを描いている漫画のセンゴクでは、女色に溺れて政務を行ったいないところは史実同様に描かれています。しかし織田信長への執着は史実以上で、織田信長を倒すためであれば女性をも利用し織田信長を追い込んでいこうとするも刀禰坂の戦いで戦死。

自己都合の強いし斎藤龍興

史実から把握する限りでは、家臣からの信頼はなく自己都合で戦や政務を行っていたように思え主君というより家臣たちからはわがままな主君像として写っていたことでしょう。また周りには女性を置いていたようで女性遊びを頻繁していたとされています。

このような主君のために働こうと思う家臣はまずいなかったことでしょうが、斎藤道三や斎藤義龍の下で働いてきたものたちからすると斎藤家への義理人情で戦をしていたように思えます。織田信長への徹底抗戦する姿勢を斎藤家が主君だったころに示していたら、違った形の美濃国が形成されていたことでしょう。