斎藤道三は蝮と渾名される下剋上の代表格!息子や織田信長との関係は?

斎藤道三は油売り商人から身を立てて美濃国を手中にいれた武将であり、下剋上の象徴としてその名を馳せています。その手法は時に悪質とも言える巧妙なものであり、近代の小説でつけられた「マムシ」の渾名も有名です。

この記事では斎藤道三の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。斎藤道三がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける斎藤道三など、様々な視点から解説してきます。

斎藤道三の基本情報

斎藤道三(さいとうどうさん)は山城国出身で戦国時代を生きた武将です。

美濃国守護代土岐氏に仕え、後にその地位を奪い自身が実質的な美濃国守護へと成り上がりました。

斎藤道三の人生

できごと

油売り商人から長井家家臣へ

斎藤道三は、1494年、山城国において長井新左衛門尉(松波庄五郎とも)を父として誕生します。彼らの先祖は、代々北面武士を務めていましたが、父・松波庄五郎は何らかの理由で牢人となり、山城国に流れ着いていました。

幼い斎藤道三は、11歳頃に京都の妙覚寺において仏門に入りますが、間も無く還俗して松波庄五郎と改名し、美濃国の常在寺の住職となった学友・日運を頼って美濃国へと移りました。

この地で油問屋の奈良屋又兵衛の娘を妻として油商人になり、美濃国で評判の行商となります。『美濃国諸旧記』によると、「漏斗を使わずに、油を一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代を頂戴しません」と言いながら油を注ぐパフォーマンスを行なって好評をはくしたと言われています。

ある日、このパフォーマンスを見た武士から「この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうに、惜しいものだ」と告げられた松波庄五郎は、かつて自分の祖先が武士であったことを思い出し、一念発起して商人を辞め、武士を目指して槍と鉄砲の鍛錬を積みます。

その後、日運のつてを頼って美濃国守護・土岐氏の家臣であった長井長弘の家臣になることに成功し、松波庄五郎は長井氏家臣で断絶していた西村氏の家名をつぎ、西村正利と名乗るようになりました。

土岐頼芸と結ぶ

長井長弘は1517年から1518年にかけて起こった土岐氏の家督争いにおいて土岐頼芸を支援し、それ以降土岐頼芸から信頼され、美濃国の実権を握っていました。彼に仕えていた西村正利も、その武芸と才覚で頭角を現し、土岐頼芸に一目置かれる存在となります。

1525年には長井長弘と共に挙兵し、美濃国守護で土岐頼芸の兄・土岐頼武、守護代・斎藤利茂と戦って斎藤氏の居城稲葉山城を奪って勝利します。1530年に土岐頼武を越前国へと追放し、土岐頼芸を実質的な守護として就任させました。

この功績により益々土岐頼芸の信任を得た西村正利は、この時土岐頼芸の妾であった深芳野を側室として譲り受けています。

勢力を強めた西村正利は、同じく土岐頼芸の信任を受け実権を握っていた長井長弘を邪魔な存在であると考え始めます。そして1533年には、恩人とも言える長井長弘を不行跡の罪で殺害した上、長井氏の名跡を継ぎ長井規秀と改名しました。

この頃、いまだ土岐氏の家督争いは収束しておらず、1535年には追放された土岐頼武とその息子である土岐頼純が朝倉氏や六角氏の支援を受けて挙兵しています。長井規秀は土岐頼芸と共にこれを迎え撃って勝利し、1536年に土岐頼芸が美濃国の正式な守護として就任します。

美濃国守護となる

1538年に小守護代である長井氏より位の高い守護代の地位にあった斎藤利良が病死すると、その名跡を継ぎ斎藤利政と名乗り、美濃国守護代の地位を掴みました。

土岐一族の争いが収束を見せていた1541年、斎藤利政は突如土岐頼芸の弟・土岐頼満を毒殺します。これを機に土岐頼芸との関係は悪化し、翌1542年に土岐頼芸の居城・大桑城を攻撃して土岐頼芸・土岐頼次父子を尾張国へと追放し、斎藤利政が事実上の美濃国守護となります。

土岐頼芸は尾張国で織田信秀の支援を取り付け、先に朝倉孝景の庇護を受けていた甥でかつて家督を争った土岐頼純とも結びます。織田・朝倉の支援を受けた土岐頼芸・土岐頼純は美濃国への侵攻を開始して1547年(1544年とも)に加納口の戦いが勃発します。

序盤、織田信秀により稲葉山城下の村々が焼き払われて苦戦しますが、織田軍の兵が一旦引き上げたところを急襲して混乱させ、5千人程を討取る逆転劇を成功させます。敗北した織田信秀は斎藤利政と和睦を結ぶことになり、ここで織田信長と斎藤利政の娘・帰蝶の結婚が決定されました。

1552年には織田氏の支援を失いながら未だ美濃国・揖斐北方城に止まっていた土岐頼芸を再び尾張国へと追放し、美濃国を完全に平定しました。『信長公記』によれば、1547年頃、土岐頼純も斎藤利政によって毒殺されています。

隠居と長良川の戦い

1554年、斎藤利政は家督をかつて土岐頼芸から譲られた側室・深芳野との間に設けた子・斎藤義龍に譲ります。自身は散髪し道三と号し、鷺山城へと隠居しました。

しかし、斎藤道三は斎藤義龍を「耄者(=愚か者)」とする一方で、正室・小見の方が産んだ弟である斎藤孫四郎や斎藤喜平次を「利口者」として偏愛します。更に斎藤義龍を廃嫡して斎藤孫四郎を嫡子にしようとし、斎藤喜平次には名門・一色氏を名乗らせると、斎藤義龍との父子関係は最悪の事態を迎えました。

1555年11月、斎藤義龍が斎藤孫四郎・斎藤喜平次を暗殺すると、斎藤道三は長良川を越えて大桑城まで逃れます。父子の対立はなお収まらず、翌1556年の4月についに長良川の戦いが勃発しました。

斎藤家重臣の稲葉良通ら西美濃三人衆はじめ家中の多くは斎藤義龍に付き、斎藤義龍軍が1万7千超だったのに対し斎藤道三軍は2千7百程の圧倒的不利な状況での開戦でした。

斎藤道三は緒戦こそ優勢に戦いを進めたものの、その兵力差は埋められず、やがて討ち取られて戦死しました。娘婿の織田信長は、斎藤道三の元へ援軍を送っていたものの、合戦には間に合わず、義父を助けることは出来ませんでした。

斎藤道三の人柄・人物像

斎藤道三の人柄や人物像について説明します。

マムシの渾名

武士となる道を拓いてくれた長井長弘を皮切りに、土岐頼武、土岐頼純、そして長く仕えて寵臣として重用してくれた土岐頼芸と、斎藤道三は次々に主君を殺害・追放していきました。

まさにマムシの渾名に相応しい、恩を仇で返す人物であると言えます。

斎藤道三が美濃国の主権をとったころ、稲葉山城には何者かによって「主をきり婿をころすは身のおわり むかしはおさだ いまは山しろ(=主君を斬り、婿を毒殺するのは道に外れた行いであり、身の破滅である。昔で言えば長田忠致であるが、今で言えば斎藤山城がそれだ)」

という落首が掲げられたと言われ、当時の領民からもその人柄が恐れられていたことが伺えます。土岐頼芸の追放についても、「暴虐の臣によって国を奪われ、太守は江州に牢籠せり」と批判する同時代の史料も残っています。

斎藤道三家紋

斎藤道三が乗っ取った美濃守護代・斎藤氏は、代々ナデシコを家紋としてきた一族でしたが、斎藤道三はこれを使わずに新しい家紋を考案しています。

それが、「二頭立波」と呼ばれる家紋です。斎藤道三はこの家紋の中に、潮の満ち引きと戦を重ね合わせ、人の力ではどうにも出来ないことがあるので、波を見極めるように、しっかりと物事の流れを見極めて適切に動くことが大切であるという意味を込めています。

波の左右には、左側に2つ、右側に3つの非対称の水しぶきが描かれており、これは世の中には割り切れないこともあるのだという斎藤道三の人生観を表していると言われます。

低い身分から身を起こし反道徳的な国盗りを成し遂げた斎藤道三でしたが、家紋に込められた意味を見ると、その裏には様々な苦労があり、先を見越す力が必要であると考えていた思慮深い人物であったことがわかります。

長良川の戦い

長良川の戦いがなぜ起こったかについては、斎藤道三が嫡男・斎藤義龍を差し置いて弟達を偏愛したために家中が混乱したということもありますが、斎藤道三がこれまでの悪質とも言える国盗りで家臣達の信頼を失っていたからであるとも言われます。

1554年の隠居も、家臣達により強制的に行われたものであるとも言われており、歴史学者・勝俣鎮夫氏によれば、斎藤道三は国内統治者・主君としての資格なしと家臣達に判定され、当時他の大名が打ち出していた民政の新しい施策のようなものを全く行わなかったとされます。

一国の主としては、その内政手腕は高いとは言えない人物であったようです。反対に、父殺しの汚名をもつ斎藤義龍の時代には美濃国は安定しており、斎藤道三から「耄者」と評された斎藤義龍は織田信長も悩ませるほどの統治力を発揮しています。

斎藤道三は長良川の戦いにおける斎藤義龍の采配を見て、初めて息子を「見事である」と褒めたと伝わっています。戦後、父を殺した斎藤義龍は「我が身の不徳より出た罪」と出家し、「范可」と名乗るようになります。これは唐の故事で、やむを得ない事情により父を殺した者の名前でありました。

斎藤道三の名言・エピソード

斎藤道三の名言やエピソードについてに解説します。

優れた先見性と織田信長

斎藤道三の優れた先見性を現すエピソードとして、当時「尾張のうつけ者」と悪評が蔓延っていた織田信長の才能を、「聖徳寺の会見」においていち早く見抜いたことが挙げられます。

1553年、娘婿の織田信長との対面を望んだ斎藤道三は、美濃国と尾張国の国境付近にあった聖徳寺にて初めての会見を果たすこととなります。

しかし、斎藤道三は会見前、ひそかに近くの小屋に潜み、尾張国からやってくる織田信長の様子を伺っていました。馬上の織田信長は、髪を茶筅に結い、萌黄色の平打ち紐で髻を巻いていました。片袖は外し、虎と豹の皮を四色に染めた半袴をつけるなど、まさにうつけ者と呼ぶに相応しい大変風変わりな風体をしていました。

「成程、噂に違わぬ大うつけ者であることよ」と落胆した斎藤道三でしたが、対面の場・聖徳寺に現れたのは、先ほどとは打って変わって、髪は折髷に結い直し、褐色の長袴を身につけた折り目正しい織田信長でした。

聖徳寺に到着した織田信長は斎藤道三の家臣の案内を聞かずに縁の柱にもたれかかり、「座敷に座ってお待ちください」という要請を無視しました。斎藤道三は、後から行くことで会見を優位に進めようと目論んでいましたが、いつまでたっても織田信長がもたれかかった柱から動かないので、ついに痺れを切らしました。

家臣が「こちらが斎藤山城守道三でございます」と言ったところでようやく一言、「で、あるか」と応えて座敷に入り、初めて斎藤道三に礼を尽くすのでした。

この会見後、家臣が「噂通りのたわけでありましたな」と問うた所、斎藤道三は「口惜しいが、わしの子らは、あのたわけの門前に馬をつなぐ(=家臣になる)ことだろうよ」と答えました。織田信長が只者ではないことを、短い会見の中で見抜いたのです。

1554年に織田信長が今川氏と戦い村木砦を攻めた際には、その見事な戦いぶりを聞いた斎藤道三が「凄まじき男だ。隣にいやな奴がいるものよ」と評したと言われ、戦死する直前にも織田信長に対して美濃を譲りわたすという遺言書を渡したとされており、京都妙覚寺などに書状が存在しています。

稲葉山城下の整備

晩年は家臣達の信頼を失い、内政手腕も高いとは言えなかった斎藤道三ですが、美濃国守護代を務めていた頃には、稲葉山城城下町の整備を行い、現在の岐阜市の基盤を築いています。

1539年、伊奈波神社を稲葉山城の麓にある井口村に移転して、百姓達に命じて井口村の七曲通という場所に町家を作らせます。百曲通という場所には大桑から町人を移住させて新たな町を創設しました。

こうして作り出した町全体を掘と土塁で囲み稲葉山城の防衛力も高め、同時に商人達が戦火を恐れずに商売できるようにしました。さらにこの地での楽市楽座を宣言し、自由な商取引を推奨したことで周辺諸国からも商人が集まり、井口は美濃国きっての商業都市となりました。

『六角承禎書写』による新説

美濃国の国盗りは、これまで斎藤道三一代によって成し遂げられたものだと考えられていましたが、近年では父・長井新左衛門尉と2代に渡るものであったのではないかと言われています。

その根拠の一つが、『六角承禎書写』です。土岐頼芸が身を寄せたとされる六角氏の書状であり、以下のような記載が残っています。

「斎藤義龍の祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった」

「新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた」

「新左衛門は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった」

「義龍父の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った」

「道三と義龍は義絶し、義龍は父の首をとった」

書状は、このような理由から六角承禎と斎藤義龍の娘の結婚は取りやめる、と続きます。

この書状も見ると、長井長弘を殺害した1533年頃までの経歴は父・長井新左衛門のものであり、それ以降が斎藤道三の経歴であると考えられ、美濃国は父子二代により成し遂げられたものと考えることができます。

フィクションにおける斎藤道三

フィクションにおける斎藤道三を解説します。

『国盗り物語』における斎藤道三

斎藤道三に「マムシ」の渾名がついたのは坂口安吾の小説『信長』・『梟雄』や、山岡荘八の小説『織田信長』の影響があったためですが、その名を一躍有名にしたのが、司馬遼太郎の『国盗り物語』です。

この小説で斎藤道三が悪謀の限りを尽くして美濃一国を鮮やかに盗み取る様子が描かれ、この作品中では土岐氏は守護大名の地位だけに頼る不甲斐ない一族として登場しました。

国盗りをなしとげた斎藤道三は「海内一の勇将」と讃えられて穏やかな領国支配を布き、領民に慕われて「道三さま」と尊称されました。やがて自身を「革命を望む天が遣わした申し子」と豪語するようになり旧勢力への果断な処置を遂行していきます。

織田信長の才能を認め舅と婿の関係を超えた厚情を示し、明智光秀の聡明さも見抜いて猶子とし自ら教示を与えています。やがて斎藤義龍と対立して生涯を終えました。

このように『国盗り物語』の中では悪質な国盗りを行いながらもその人望は高く、織田信長や明智光秀という若者の才能を見抜いた智将として描かれ、大ヒットしたこの小説はその後何度もドラマにもなり、これが現在の斎藤道三のイメージを構築したと言えます。

斎藤道三はマムシの渾名にふさわしい虎視眈々とした野心溢れる武将だった

北条早雲らと並び下剋上の代表例としてその名を轟かせる斎藤道三ですが、長井長弘・土岐頼芸と恩人でもある主君を裏切り続けてのし上がり、ついに美濃国一国を手に入れた様子は、忠義心や道徳心は感じられないにしても、誠に見事であると言うほかないでしょう。

最期は嫡男・斎藤義龍に討たれるというドラマティックな死を迎えますが、それまでは土岐頼芸の元で、あるいは土岐頼芸に対して元僧侶・商人とは思えぬ類まれなる武才を発揮して武功を重ね、織田信秀も苦戦させた武勇に優れた人物でもありました。

同時代においては「暴虐の臣」などと恐れられた斎藤道三でしたが、現在では岐阜県の英雄・街づくりの基礎を整えた人物として遺徳が偲ばれており、1972年からは岐阜市において道三まつりが開かれるなど、人々の尊敬を受けています。

劇的なその生涯や英雄・織田信長の才能を見抜いたエピソード、『国盗り物語』の影響からその人気は強く、戦国大名の中でも非常に高名な武将の一人であると言えます。