蓮如は御文で親鸞の教えを広めた「本願寺中興の祖」!子だくさんだったの?

本願寺というと織田信長の戦った顕如がイメージできますが、「本願寺中興の祖」と言われる蓮如という人物がいます。この蓮如ですが、浄土真宗の開祖:親鸞の教えを民衆に広めたことで、布教活動に成功しており、後に浄土真宗が全国に広まっていきます。

今回は、蓮如の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

蓮如の基本情報

蓮如の人生

できごと

本願寺法主の息子として誕生

蓮如は本願寺第7世法主:存如の息子として生まれました。母親については詳細は分かっていませんが、蓮如が6歳の時に母親は本願寺を退去し、父:存如は後室を迎えたとされています。その後の生母の行方は分かっていません。蓮如幼少期の本願寺は荒れ果てており、衰退の一途をたどっていました。

蓮如は17歳の時、中納言:広橋兼郷の猶子となり、僧侶になるため出家しています。その際に、実名を広橋兼郷の一字を受け兼壽とし、法名を蓮如と名乗りました。以後は興福寺にて勉学に励み、多くの聖教を書写しています。

布教活動をするも成果が出ず

1442年に長男:順如が誕生し、1447年・1449年に父と共に北陸地方で布教活動を行っています。1457年に父の死去に伴い、本願寺第8世法主となりました。このころの本願寺も他宗派から迫害や弾圧を受けるなど、苦しい状況に変わりはありませんでした。

浄土真宗が全国的に広まる

1471年4月上旬、越前吉崎に赴き、この地に吉崎御坊を建立したところ、荒れ地であった吉崎は急速に発展していきました。この周辺は寺内町となり、奥羽地方からも信者が集まってきました。1474年、加賀の富樫家の内紛を受け、蓮如は富樫政親からの依頼を受け、対立候補だった富樫幸千代が真宗高田派と組んだことを知ると、富樫政親と共に富樫幸千代を滅ぼしています。

しかし、加賀の民衆が蓮如の元に集まると危惧した富樫政親と対立するようになり、さらに部下が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行ったことから、蓮如は1475年に吉崎を退去し、この部下を破門にしています。その後、1488年に加賀の一向一揆が国人と結びついて、守護の富樫政親を攻めて自害に追い込んでいます。

蓮如が一向一揆を扇動したという説もありますが、そういった記録はなく、あくまで布教活動に専念していたと見て良いかもしれません。

以後約100年の間、加賀は大名の支配を受けない「一向宗の国」となりました。加賀が一向宗の国でなくなったのは、1580年に織田信長の家臣:柴田勝家の軍団が加賀を攻略してことで、一向宗の自治は終わりを向かえています。1489年に蓮如は、五男:実如に法主を譲り、引退しています。1499年に山科本願寺で85歳で死去しています。

蓮如の人柄・人物像

連署の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

本願寺中興の祖

蓮如は浄土真宗の開祖:親鸞の教えを全国に広めたことで、「本願寺の中興の祖」と呼ばれています。蓮如は教えを分かり易くした「御文(おふみ)」と呼ばれる手紙を書き、人々に届けました。御文は誰でも分かる言葉で親鸞の教えを説いたもので、凡夫往生の手鏡(ぼんぶおうじょうのてかがみ)とも呼ばれており、親鸞の教えを広めるのに大きく役立ちました。

この御文で蓮如は親鸞の教えである「信心により真の極楽浄土へ行くべき」と説いています。また蓮如は講(こう)と呼ばれる村々の法座にも積極的に参加しました。その際に「名号(みょうごう)」と言われる書を書いて、門徒に与えています。蓮如はこれを仏像の代わりとして、家に掛けるように教えました。

その結果、人々は仏像にとらわれることがなくなりました。

一向宗とは世間の人がつけた名称

よく、浄土真宗=一向宗と思われがちですが、親鸞が開いたのは、浄土真宗です。そのため、浄土真宗が正しい名称です。蓮如が親鸞の教えについて、「親鸞上人は浄土真宗とおっしゃっている。一向宗とは親鸞上人が言われたことではないが、あまりにも親鸞上人が阿弥陀仏に一向しなさいと教えるので、世間の人が一向宗と言うのであろう」と解説しています。

つまり、親鸞も蓮如も一向宗を自称したことはなく、世間の人が名付けた通称のようなものだと伝えられています。一向一揆というのも信者の一部が武装して、戦国大名などと戦うようになったと思われます。

蓮如の名言・エピソード

蓮如の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

子だくさんだった蓮如

蓮如には27人の子供がおり、妻と死別すること4回で、結婚も5回していたと言われています。内訳は男子13人、女子14人となっており、跡継ぎには困りそうにありませんが、子供が多いと一門での争いも起こってきます。蓮如の後を継いだのは、五男の実如(二番目の妻との間にできた長子)です。死の直前まで公私ともに多忙を極めたとも言われています。

顕如は蓮如のひ孫

顕如は本願寺第11代法主で、蓮如のひ孫にあたります。顕如の時代に本願寺の勢力は、戦国大名を凌ぐものに成長しており、その存在も無視できないものになっていました。顕如は当時の新興勢力だった織田信長と敵対し、大坂の石山本願寺を拠点とし10年以上、激しい攻防を続けました。顕如も各地の反織田信長勢力の大名と連携するなど、僧侶とは思えない手腕を見せています。

1580年に和睦が成立し、顕如は石山本願寺を退去しています。以後は教団内部での対立もあり弱体化が進み、江戸時代には西本願寺と東本願寺に分裂しています。

フィクションにおける蓮如

フィクションにおける蓮如について、紹介したいと思います。

信長の野望における蓮如

信長の野望における能力値ですが、統率:65、武勇:32、知略:95、政治:105、と到底僧侶のステータスとは思えません。登場も1400年代なので通常シナリオでは登場せず、作品によってはボーナス武将としての登場になってくるでしょう。

ドラマにおける蓮如

蓮如を題材にしたドラマは今のところありません。しかし、数は少ないですが蓮如を描いた小説や映画もあるようです。

蓮如は公私共に多忙な僧侶

僧侶は結婚せず、生涯修行するイメージがあります。それを覆したのが浄土真宗の開祖:親鸞でした。浄土真宗は「信じれば極楽にいける」という教えですが、親鸞の時代はさほど広まりませんでした。

それを広めることに成功したのが蓮如であり、「本願寺中興の祖」と呼ばれる所以でもあります。子だくさんの大名は多くいますが、ここまで子だくさんの僧侶というのは蓮如だけのような気がします。