小山田信茂は投石隊を率いて徳川家康を倒した?武田を裏切ったが処刑される

小山田信茂は、長く武田氏に仕えた武将で、武田二十四将のひとりにも数えらる人物でした。しかし、武田氏が攻め滅ぼされる最後の段階で離反します。追い詰められた末に主君を裏切った不忠者というイメージが持たれがちな小山田信茂ですが、軍事・外交面などで武田氏に貢献したことも事実です。

この記事では小山田信茂の生涯を年表付きで分りやすく解説します。小山田信茂がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける小山田信茂など、様々な視点から解説していきます。

小山田信茂の基本情報

小山田信茂(おやまだのぶしげ)は甲斐国出身の戦国時代から安土桃山時代に生きた武将です。

武田信玄に仕え、信玄が死去したのちはその息子の武田勝頼に仕えました。

小山田信茂の人生(年表付き)

できごと

小山田家の家督を継ぐ

小山田信茂は1539年に小山田出羽守信有の次男として生まれます(1540年という説もあり)。小山田氏の祖先は桓武平氏に遡り、鎌倉時代には武蔵国に本拠を置いていました。室町時代以降に甲斐国へ移ります。甲斐国内で勢力を伸ばしていた武田氏と、当初は対立するものの、小山田信茂の祖父・小山田越前守信有の時代に和睦し、武田氏の家臣団に組み込まれます。しかし、甲斐国の郡内とよばれる地域においては独自の支配権を持ち、外交などでも一定の独立性を持つなど完全な武田氏の配下になった訳ではありませんでした。なお小山田信茂の祖父・父・そして兄の弥三郎信有と、3世代にわたり「信有」を名乗りました。

1547年の第一次川中島の戦いで、小山田信茂は先陣を務めたという記録が残っています(兄・弥三郎信有という説もあり)。1552年に父・出羽守信有が死去すると、兄弥三郎信有が家督を継ぎますが、その兄も1565年に病死し、小山田信茂が家督を継ぎました。

武田信玄に従い、各地で戦う

小山田信茂は、1566年に武田信玄に従い上野国に出陣、1568年の駿河侵攻では先陣を務めました。1569年に武田信玄が三増峠で北条氏と戦った際は八王子城を攻撃、1570年には山県昌景、武田勝頼とともに伊豆国の韮山城攻めに加わっています。

1572年に武田信玄が西上作戦を開始した際、小山田信茂は先陣を務め、徳川方との三方が原の戦いでも最前線に立ち活躍しました。三方が原における小山田隊については、投石部隊を率いたなどのエピソードも残っています。

1573年に武田信玄が死去、小山田信茂は引き続き武田勝頼に従います。

武田勝頼に仕える

信玄の死後、織田信長・徳川家康は武田氏に対する攻勢を強め、長篠城攻めを開始します。小山田信茂は武田信豊、馬場信春とともに長篠城に派遣されますが、長篠城は落城し、小山田信茂は甲斐国に帰国します。

1575年、織田・徳川に対して押され気味だった武田勝頼は反撃を開始、長篠の戦いへと発展します。このとき小山田信茂は、内藤昌秀、山県昌景、原昌胤などの重臣とともに武田勝頼に対して、撤退を進言したといいますが受け入れられませんでした。長篠の戦いで武田氏は大敗、多くの重臣が討死したなか、小山田信茂は生き残り、武田勝頼の身辺警護をしながら退却します。

武田氏を離反するも処刑される

1581年12月、織田信長は甲州征伐を開始します。それまで武田氏に従っていた勢力の離反や、相模北条氏も武田領へ侵攻するなど、武田氏が追い詰められるなか、当初は小山田信茂も武田勝頼に従って戦います。1582年3月3日、武田勝頼は本拠としていた新府城を放棄し、小山田氏の所領である郡内に向かいます。小山田信茂は、頼ってきた武田勝頼ら一行に対して、郡内の入り口を封鎖し鉄砲を撃ち掛け、離反の意思を明確にします。頼るすべを失った武田勝頼は、3月11日に天目山の戦いで敗れ自刃し、武田氏は滅亡します。

その後、小山田信茂は嫡男を人質として差し出すために織田信長に拝謁しようとしましたが、信長の長男・織田信忠から武田氏への不忠を咎められ、処刑されます。武田氏の滅亡から13日後のことでした。

小山田信茂の人柄・人物像

小山田信茂の人柄や人物像についてまとめます。

外交面での活躍

いくつもの戦いで先陣を務めるなど、最前線で武田氏に貢献した小山田信茂ですが、上杉氏や北条氏に対する調停や取次などにも携わっており、外交能力も認められていたとみられています。

なぜ武田氏を裏切った?

小山田信茂は武田氏に従ってはいたものの、一方では甲斐国の郡内地方という地域を治める領主でもありました。配下ではなく、いわば協働関係といった間柄であったため、武田氏の旗色が悪くなったときに、忠義を尽くすことよりも、先祖代々受け継いできた土地や家名を守るために動いたものと思われます。

小山田信茂の名言・エピソード

小山田信茂の名言・エピソードについて解説します。

三方が原の戦いでの投石隊

小山田信茂の印象的なエピソードとして、三方が原の戦いでの投石隊があります。武田方先鋒の小山田隊は300人の投石部隊を率いており、対峙する徳川方に石を投げると同時に太鼓を一斉に打ち鳴らしました。石を投げつけられて憤慨した徳川方が切りかかってきたところを小山田信茂の軍勢が迎え撃ち、そこから両軍が入り乱れた競合いに突入したといいます。

『信長公記』など、当時の記録では「投石部隊」の記録はありますが、それを小山田信茂が率いたとは記されていません。小山田隊が前線にいたということと、同じく前線に投石隊がいたことが誤って認識され、小山田信茂=投石隊というイメージが生まれたと考えられています。

もう一人の離反者、穴山梅雪

武田氏が織田信長によって攻め滅ぼされる直前、小山田信茂とともに武田氏を離反した人物が穴山梅雪でした。穴山梅雪は、武田氏が1581年12月、武田氏が滅亡する4か月ほど前から既に織田方と内通しはじめ、家名を存続させるための根回しを行っていたといいます。最後の最後に裏切って受け入れられなかった小山田信茂と違い、穴山梅雪は武田氏滅亡後は織田氏に召し抱えられます。数か月の差が二人の明暗を分けたのでした。

フィクションにおける小山田信茂

フィクションにおける小山田信茂を解説します。

信長の野望における小山田信茂

シリーズによって異なりますが、統率69、武勇73、知略59、政治43となっています。長く武田家の主力武将として活躍したものの、最終的に裏切って処刑されたこともあってか、全体的にそこまで高い能力ではありません。

ドラマにおける小山田信茂

物語の中心人物として扱われることはないですが、武田家やその家臣を扱った作品などには頻繁に登場します。最近では2016年の大河ドラマ「真田丸」に登場し、温水洋一さんが演じました。出番は多くなかったものの、武田家を裏切り最終的に処刑されてしまうシーンは印象的でした。

まとめ

小山田信茂は武田氏を離反したことで「裏切り者」というネガティブなイメージをもたれることが多いですが、武田二十四将にも名を連ねている通り、長い間武田氏に貢献した人物でもありました。

また、先祖から代々受け継いできた家を守るための行動と考えれば、武田氏からの離反の見方も変わってくるのではないでしょうか。