おつやの方は戦国時代から安土桃山時代に生きた女性で、女性でありながら城主として必死に戦いました。武田信玄と織田信長という大勢力に挟まれながら、城や家臣や民衆を守るために壮絶に散っていった姿は悲劇的ですが凛々しくもあります。時代に翻弄された「女城主」のエピソードは多くの人々に語り継がれています。2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で井伊直虎が取り上げられ大きな話題になりましたが、おつやの方も同様に乱世の中で活躍した女性でした。
この記事ではおつやの方の生涯を年表付きで分りやすく解説します。おつやの方がどのような人物であったか、どのような名言を残しているかなど、様々な視点から解説していきます。
おつやの方の基本情報
本名 | 艶、ゆう、岩村御前など |
生涯 | 生年不詳~天正3年(1575) |
時代 | 戦国時代~安土桃山時代 |
出身国 | 尾張国 |
居城 | 岩村城 |
主君 | 織田信長→武田信玄 |
官位 | なし |
夫 | 遠山景任→秋山虎繁 |
子 | 六太夫、織田勝長(養子) |
おつやの方は戦国時代から安土桃山時代に生きた女性です。当初は織田信長方に属していましたが、のちに武田信玄方に移りました。
おつやの方の人生(年表付き)
年 | できごと |
---|---|
1545年頃? | 誕生 |
1565年頃? | 岩村城主遠山景任に嫁ぐ |
1572年8月14日 | 夫遠山景任が後継ぎが無いまま病死。当主の座を引き継ぎ岩村城の女城主となる |
1572年10月 | 武田信玄の家臣・秋山虎繁の軍勢に岩村城が包囲される |
1572年11月 | 武田氏と和議を結び、岩村城を開城 |
1573年3月 | 秋山虎繁と再婚 |
1575年6月 | 長篠の戦いののち、織田信忠が岩村城に侵攻する |
1575年11月21日 | 降伏を申し出て岩村城を開城、織田方に捕らえられ、夫とともに磔にされ処刑される |
女城主となる
おつやの方は尾張国の武将・織田信定の娘として誕生しました。生年ははっきりとわかっていません。父の織田信定は織田信長の祖父にあたるため、おつやの方と織田信長は叔母・おいの関係になります。
織田信長は、1567年に美濃斎藤氏を倒し岐阜城に拠点を置くと、東美濃を挟んで武田氏と対立することとなりました。そこで前線基地の一つとして目を付けたのが岩村城でした。織田信長は岩村城主・遠山景任のもとにおつやの方を嫁がせることで、東美濃を勢力範囲に取り込もうという思惑がありました。政略結婚で結ばれた二人でしたが、おつやの方と遠山景任の夫婦仲はとても良く、あまりに仲が良すぎるから子供ができないといわれるほどでした。このため、織田信長の五男・御坊丸(のちの織田勝長)を養子として岩村城に迎えることとなります。
1572年8月に夫遠山景任が死去すると、御坊丸はまだ幼かったためおつやの方が当主としての座を継ぎます。こうしておつやの方は「女城主」となりました。
城を明け渡し再婚
1572年10月、武田信玄が西上作戦を開始します。武田信玄の家臣であった秋山虎繁は東美濃に侵攻し、岩村城の攻撃に出ます。織田軍の前線として岩村城内の武将たちとおつやの方は一丸となって徹底抗戦します。秋山虎繁は城内が飢えるまで兵糧攻めにする作戦を行い、さらに和睦の話を持ち出します。それは「岩村城主おつやの方と攻城軍の大将秋山虎繁が婚姻を行う。そうすれば城内にいる兵やその家族たちの命は保証する」というものでした。一度はその屈辱的的条件をはねつけたものの、時がたつほどに城内の兵粮は少なくなっていき、城内の武将たちの意見は和睦派と抗戦とで揺れ動きます。また、当初は織田信長からの援軍が期待されていたものの、その織田信長も近江で浅井・朝倉軍との戦いから手が離せない状態にあることがわかると、城内の士気も下がっていきます。織田信長との関係や亡き夫遠山景任への想いから悩みますが、自らを慕う家臣やその家族、民衆の命を守るために城を明け渡す決意をします。1573年3月、おつやの方と秋山虎繁は祝言をあげ、夫婦となりました。
悲劇的な最期
おつやの方と秋山虎繁の夫婦仲も極めて良かったと伝えられますが、それも永くは続きませんでした。1575年6月、長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると、武田氏の勢力は一気に弱体化します。岩村城は織田信長の長男・織田信忠に攻められ、立て籠った武田方・遠山方の兵たちは時に夜討ちをかけるなど必死な抵抗をしますが、力及ばず1575年11月に降伏を申し出ます。おつやの方と秋山虎繁は捕らえれると織田信長のもとに引き出され、逆さ磔にされ処刑されてしまいました。一説では織田信長が裏切られた鬱憤を晴らすために自ら斬ったともいわれています。
おつやの方の人柄・人物像
おつやの方の人柄や人物像について説明していきます。
城主として
おつやの方は夫遠山景任亡きあと、家臣たちの勢力争いをよく抑えており、行政にも見るべきものがあったといいます。また、武田軍の侵入を早くから見越して城壁の修理や食糧庫の補強を積極的におこない、来たるべき日に備えました。家臣からも慕われ、城主としての才覚があった人物であったといえるでしょう。
絶世の美人だった?
織田信長の系統には美人が多かったといわれます。織田信長の妹のお市の方やその娘の淀君やお江の方などがその代表です。おつやの方も同様に美しかったといわれます。武田と織田に挟まれ、どちらの勢力につくか悩んでいた遠山景任ですが、おつやの方の微笑みによってすっかり織田方についたとまでいわれました。
おつやの方の名言・エピソード
日本三大山城・岩村城
おつやの方が城主として君臨した岩村城は、備中松山城(岡山県)と高取城(奈良県)とともに日本三大山城に数えられ、海抜717mとかなり高い位置に立地します。頂からは城下町が一望でき、四方の山々も見渡すことができます。付近は霧が多く発生するため霧ヶ城とも呼ばれます。
日本酒「女城主」
岐阜県恵那市岩村町にある岩村醸造という酒蔵では、「女城主」という銘柄の日本酒を販売しています。原料には主に地元産米の「ひだほまれ」が用いられ、おつやの方が現在も地域の人々に愛されていることがわかります。
フィクションにおけるおつやの方
フィクションにおけるおつやの方を解説します。
信長の野望におけるおつやの方
シリーズによって異なりますが、ステータスは統率73、武略76、知略71、内政45、外政55で、女性キャラクターの中でも、武略や統率が高い部類にあるといえるでしょう。
ドラマや小説におけるおつやの方
ドラマや映画などで大きく取り上げられたことはないようですが、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で特集されたり、おつやの方が主人公として描かれる小説もいくつかあるようです。
おつやの方は凛々しく生きたもう一人の「女城主」
戦国時代の女性はしばしば政治や戦略のための「道具」として利用されました。おつやの方もまた、同時代に生きた女性たちと同じように、政略結婚により遠山氏に嫁ぎます。そして夫の死、武田信玄や織田信長といった大勢力との板挟み状態といったなか、おつやの方はそれを悲観的にとらえて嘆き悲しむのではなく、常に自分には何ができるかを考えていました。また、敵の軍勢に攻め入られた際も家臣のことや民衆のことを考えて行動をし、自らを犠牲にすることも厭わない姿勢でいました。それによって現在に至るまで多くの人々に慕われています。
厳しい運命の中でも常に前を向き、たくましく生きていく姿は現代の私たちも学ぶべきものであると言えるでしょう。