大内義隆は文武に才を持った西国の覇者だった?家臣の裏切りと有名な辞世の句とは

大内義隆は周防国(現在の山口県あたり)一帯を治めた戦国大名で、一時は大内氏を西国の覇者にまで押し上げた類い稀なる政治力と、公家も一目置いていたという文化人としての才能を合わせ持った魅力溢れる武将です。

今回の記事では大内義隆の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。大内義隆がどのような人物であったのか、どのようなエピソードを残しているのか、ドラマやゲームの世界における大内義隆など、様々な視点から解説してきます。

大内義隆の基本情報

大内義隆(おおうちよしたか)は、周防国出身の戦国大名です。

その生涯の最期は家臣の謀反により哀れな結果に終わりますが、当時の中国地方から九州北部一帯において絶大な力を誇る西国切っての有力大名でした。

大内義隆の人生(年表付き)

できごと

家督相続から北九州平定まで

大内義隆は周防国第15代当主大内義興の嫡子として生まれ、1528年に父の死に伴い22歳で家督を相続します。

家督相続後は重臣の陶興房らに支えられ、北九州への領土拡大に乗り出します。当時の北九州は豊後の大友義鑑、筑前国の少弐資元が立ちはだかり、少弐氏を攻めた田手畷の戦いや大友氏との勢場ヶ原の戦いで敗退するなど攻めあぐねる状況が続きます。大内義隆はこれらの戦いで敗退を喫した後に方針転換を行い、今度は朝廷に働き掛けを行って九州征伐における権威を得るため官位取得に奔走します。

1536年、ようやく朝廷より太宰大弐に任官された大内義隆は再び少弐氏へ侵攻します。太宰大弐の官位による九州征伐の大義名分と権威も働き、少弐資元の部下である龍造寺胤栄らの離反により少弐家を滅ぼす事に成功します。この北九州侵攻は領土を勢力下に納める事に成功しただけに留まらず、大陸貿易権を手に入れ遣明船を派遣することにも成功します。大内義隆は貿易重視の政策を行うなど経済感覚にも鋭い手腕を発揮し、大内氏の勢力拡大の背景を支える莫大な経済力を生み出しました。

中国地方の勢力拡大から文治思想への転換まで

1540年、出雲国一帯を治める大名の尼子氏が、当時大内氏の従属化にあった安芸の毛利元就に攻め込む吉田郡山城の戦いが起きます。大内義隆は吉田郡山城で籠城する毛利元就の元へ武勇に優れた重臣陶晴賢を総大将とした援軍を派遣し、尼子軍の撃破に成功します。またこの合戦での勝利に勢いづいた大内軍は、意気消沈してしまった尼子配下の国人衆である安芸武田氏や友田氏を続けざまに滅ぼし、安芸国を完全に勢力下とすることに成功します。

翌1541年に尼子当主の尼子経久が死去すると、翌1542年には弱体化した尼子氏攻略に大内義隆自らが出雲国へ出陣します。安芸や石見の国人衆を中心とした連合軍を結成し、ここぞとばかり尼子氏の居城である月山富田城へ猛攻を仕掛けます。(月山富田城の戦い)しかし、尼子氏の粘りにより戦局はうまく進まず、配下の国人衆の尼子側への寝返りなどもあり大内義隆は大敗を喫することになります。また、この戦いで養子である大内晴持を亡くし、溺愛していた大内義隆は戦意を喪失し文治政治へと傾注していくのでした。このことが武功派の陶晴賢と文治派の相良武任を代表した大内家臣団の軋轢を生むことにも繋がっていきました。

家臣の裏切り、非業の最期へ

1543年以降は前半生の勢いと打って変わって大内氏は勢力拡大に軍は向けるものの、かつてのような勢いは発揮できず精彩を欠くような状態が続き、尼子氏との一進一退の攻防が続いていきます。また、完全に軍事に興味を失くしてしまった大内義隆は陶晴賢ら武功派を政治の中枢から遠ざけるように文治派の相良武任らを重用し、家臣団の分裂化は進み武功派閥の不満はますます深刻な状態に陥っていきました。

1550年になると陶晴賢と相良武任らの対立は決定的となり、家中では武功派の謀反を起こすという噂まで流れ、大内軍団の統制は完全に取れない状況となってしまいました。そして運命の1551年8月に武功派の重臣である陶晴賢がついに挙兵を行い、次々と大内氏の重要拠点を占拠していきました。対応が遅れた大内義隆の元には少数の兵しか集まらず、一方の陶晴賢軍は総勢10,000人を誇る圧倒的な兵力を前にいよいよ追い込まれてしまいます。命からがら逃亡を続けた大内義隆でしたが、反乱分子に囲まれた戦局に見切りをつけ、同年9月1日にとうとう大寧寺で自害という形で享年45歳の非業の最期を遂げました。(大寧寺の変)

大内義隆の人柄・人物像

大内義隆の人柄や人物像について解説していきます。

戦国切っての好事化

当時の戦国時代では小姓などとの同性愛である衆道は一般的な風習でしたが、その中でも大内義隆は抜きん出た衆道好きであり、家臣であり最後に裏切られてしまう陶晴賢を始めとして、毛利側の毛利隆元や小早川隆景など多くの武将に入れ込むことになります。また、フランシスコ・ザビエルとの引見時にはキリスト教では衆道が禁じられているということを聞いた大内義隆は大変激怒し、布教許可を一度取り消してしまうという事態にも及びました。あまりにも衆道にのめり込んでしまった結果、正室貞子に距離を置かれるといった始末で大内義隆がいかに男色を好んでいたかを垣間見ることが出来ます。

文化人としての評価

大内義隆は、大内文化と呼ばれる大内家が代々奨励してきた京の都を模倣した町づくりを支援し続けるなど類い稀な文化人としても知られています。和歌や連歌、芸能などの芸術分野にも親しみ、朝廷への進物で官位を得ようとしたりなど、公家文化を大事にした人でもありました。一方で豊富な経済力をバックに神仏だけでなく、フランシスコ・ザビエルの引見からキリスト教も手厚く保護するなど、末世の道者と呼ばれる程の支援を惜しまない人情的な一面を見せ、その道でも非常に評価をされた人物でもありました。ただし、それらに傾倒してしまった事が仇となって、結果的に陶晴賢ら武功派の反発を招き自らの進退を追い込んでしまうという哀れな最期も生み出してしまいます。

大内義隆の名言・エピソード

大内義隆の名言・エピソードについて解説していきます。

官職を追い求めた官職コレクター

大内義隆は北九州を攻略したときに用いた方法のように、朝廷に貢物を送り官位を得ることに非常に熱心だった事が伺えます。公家文化に憧れを抱いていたこともあり、生涯を通じて朝廷との密接な関係を続け、当時稀に見る官職数を得ることになります。幼少8歳時に賜った従五位から始まり約18個もの官位を得て、最後は室町幕府将軍よりも高位な従二位まで昇りつめました。

文人の才が垣間見える有名な辞世の句

大内義隆といえば先の大寧寺の変で残したこちらの辞世が有名です。「討つ者も、討たるる者も、諸ともに、如露亦如電(にょろやくにょでん)応作如是観(おうさにょぜんかん)」

「如露亦如電応作如是観」とはいわゆる禅語の一種で「人間の一生は、露や雷のように一瞬で儚く淡いものだ」という意味になり、「討つもの(陶晴賢)」も「討たれるもの(大内義隆)」も自然の中では皆同様に一瞬で儚い一生であるということを歌っています。一時は西国切っての覇者とも言われたほどの巨大な一族を築き上げた大内義隆でしたが、最後の辞世にも残したとおり、人の一生や栄華は常に一瞬であるということが良く分かる辞世となっています。戦国大名としての躍進とはまた異なる、和歌や連歌などの文化をこよなく愛した知識人としての一面が垣間見えた最期でした。

フィクションにおける大内義隆

フィクションにおける大内義隆を解説していきます。

戦国シミュレーションゲーム「信長の野望」における大内義隆

信長の野望シリーズにおける大内義隆はシリーズごとに能力幅は異なりますが、官位や家宝などの文化的な一面を評価したシリーズでは、それらの補正が入った状態で「統率92、政治107」と非常に高数値の能力を叩き出しています。

ドラマにおける大内義隆

ドラマにおける大内義隆は毛利元就を題材としたNHK大河ドラマ「毛利元就」があり、俳優の風間トオルさんが大内義隆役を演じられています。風流を好む文化人的な一面が強く出ており、戦や政治嫌いという現世とは一線を引いたようなある種の美しさを持った人物として描かれています。

大内義隆はあらゆる才能に長けた西国を代表する大名

大内義隆は家臣に裏切られるという非業な最期から戦嫌いや統率力に劣るようなイメージを抱きやすいですが、実際は貿易政策や朝廷を味方につけるやり手の政治家でもありました。また、軍事拡大に注力した前半生と文化や風流に傾注した後半生という二面性を持ち、人間らしさが垣間見える繊細な人物であったと言えるでしょう。