太田道灌は歌人としても有名?江戸城築城、山吹伝説などの逸話について!

太田道灌は、扇谷上杉家の家臣で江戸城を築城したことでしられています。しかし、その生涯はあまり知られていません。今回は太田道灌の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

太田道灌の基本情報

太田道灌の人生

できごと

関東は内乱状態だった

太田道灌は、鎌倉公方を補佐する関東管領:上杉氏の一族である扇谷上杉家の家臣を務めた太田資清の子として生まれました。幼少期は鎌倉五山や足利学校などで学問を学んでいます。このころの関東管領上杉家は分裂して権力闘争を続けていましたが、当時は山内上杉家が関東管領職を独占し、扇谷上杉家は山内家を支える分家的な立場でした。

父:太田資清の時代に、鎌倉公方:足利持氏と関東管領:山内上杉憲実が対立し永享の乱が起こると、室町幕府は争いに乗じて、足利持氏を滅ぼしました。室町幕府は鎌倉公方に足利成氏(足利持氏の子)、関東管領に山内上杉憲忠(上杉憲実の子)を新たに任命しており、太田資清は引き続き関東管領の補佐にあたりました。

ところが、再び鎌倉公方と関東管領が対立し、これに室町幕府が介入し、足利成氏を攻めます。足利成氏は敗れ、下総古河城にこもり古河公方を称するようになります。これにより関東地方は利根川を境に東側(古河陣営)、西側(関東管領陣営)に分断されることになりました(享徳の乱)。

1456年に太田道灌は父から家督を譲られています。以後、扇谷上杉家を二代にわたって補佐し、28年におよぶ享徳の乱を戦うことになりました。

江戸城を築城し、主家を救う

関東管領側として戦うことになった太田道灌ですが、古河公方陣営の有力武将であった千葉氏(房総地方)を抑えるため、江戸城を築きました。後に徳川家康が関東を領有することになった際に、この江戸城を大改築し、江戸時代には大発展を遂げますが、江戸城を最初に築いたのは太田道灌です。

1458年に足利政知(室町幕府8代将軍:足利義政の異母兄)が関東にやってきて「堀越公方」を名乗ります。当初は鎌倉入りする予定だったのですが、入ることが出来ずに伊豆の堀越に留まることになったため、やむを得ずに「堀越公方」を名乗ることになったと言われています。

関東での情勢はさらに複雑になっていきますが、1467年には応仁の乱が勃発し、京都の室町幕府も収拾がつかない状態になっていきます。1471年に古河公方が堀越公方の伊豆に進軍を開始。これに乗じて、関東管領軍は古河公方を攻撃し、一時は優勢になりました。しかし、反撃を受け、扇谷上杉政真が討ち死にし、太田道灌は主君を失ってしまいました。

扇谷上杉政真には子供がいなかったため、上杉定正(扇谷上杉政真の伯父)を当主に迎え、混乱を回避。しかし、山内上杉家(関東管領)の家宰:長尾景信が亡くなったことで、息子:長尾景春と、弟:長尾忠景の間で後継者争いが勃発。主君の山内上杉顕定は、弟:長尾忠景を後継者として家宰職を与えてしまいます。

これに、長尾景春が反発し、親戚でもあった太田道灌を味方に引き入れて反乱を起こそうと画策します。危険を感じた太田道灌は、山内上杉顕定に長尾忠景を一時的に退けるように進言しますが、却下されます。結局、長尾景春は反旗を翻しこれに古河公方が加担し、山内上杉家も扇谷上杉家も敗北。上杉家は大ピンチに陥りました。

太田道灌は、主君:上杉家の危機を救うため戦い、後に古河公方側と関東管領側で和議が成立し、太田道灌は、ほぼ独力で上杉家の危機を救いました。

暗殺される

太田道灌の活躍により、主家:扇谷上杉家の勢力は増大し、太田道灌の存在も絶大なものになっていました。主君:扇谷上杉定正も統率力や戦略に優れた太田道灌を恐れ、意見を用いないなど反感を持っていたとされています。

1486年に、太田道灌は暗殺されます(享年:55歳)。入浴後に風呂場から出た所を斬り倒されたとされており、「当方滅亡(自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はない)」と言い残したと言われています。

力が強くなった太田道灌を恐れた扇谷上杉定正が暗殺したとも、扇谷上杉家の力を弱めるための山内上杉顕定の画策に扇谷上杉定正が乗ってしまったとも言われています。また太田道灌が謀反を企てたとか、北条早雲の陰謀だという話も残っています。

太田道灌の人柄・人物像

太田道灌の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

山吹伝説

ある日、太田道灌は父を訪ねた際、突然のにわか雨に遭い、蓑(みの)を借りようと近くの農家を訪ねました。しかし、中から出てきた少女は一輪の「山吹の花」を差し出しました。太田道灌は蓑を借りるつもりが、花を差し出されたことに内心腹が立ち、後でこの話を家臣に話しました。

すると、家臣は「それは、後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)に出てくる『七重八重 花は咲けども 山吹の実の 一つだに無きぞ悲しき』に掛けて貧しい状況を訴えたものだと思われます」と答えました。

歌の一節、「山吹の実」を、山→山間(やまあい)・「吹きの」→茅葺き(かやぶき)の・「実の」→蓑(みの)の・と掛けており、つまり、「山間の茅葺きの家であり貧しく蓑が一つも無い」という意味になります。

古歌の知識がなかったことを恥じた太田道灌は以後、歌道に励み歌人としても名前を残すまでになりました。しかし、この「山吹伝説」は後の創作とも言われていますが、太田道灌は「慕景集(ぼけいしゅう)」という歌集を残していますので、歌人としても有名だった可能性は高いと思われます。

将軍の猿

室町幕府8代将軍:足利義政は一匹の猿を飼っていました。その猿は室町御所に参内する大名に飛びかかっていて引っ掻くため、大名たちは難儀していましたが、将軍の猿だったこともあり、苦情を言えずにいました。

ある日、太田道灌が上洛し室町御所に参内すると、いつものように猿が飛びかかろうとしましたが、太田道灌がにらみつけると、猿はおびえて縮こまってしまいましたので、大名たちは太田道灌の威に驚いたと言います。

実は事前にこの猿のことを知っていた太田道灌は、猿師に賄賂を渡し、猿をしたたかに打ち据えていたそうで、猿は太田道灌に睨まれるとおびえてしまいました。大名たちはこの太田道灌の知恵にさらに驚いた言われています。同様の逸話が大友宗麟や立花道雪にもあるそうです。

太田道灌の名言・エピソード

太田道灌の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

現在も残る「太田道灌」

太田道灌の名前が、地名として残っている場所があります。東京都荒川区日暮里地区には、「道灌山(どうかんやま)」という高台があります。これはこの地に、太田道灌の出城があったことが由来になったとも言われています。

また、さいたま市岩槻区にある、「太田」という地名は、太田道灌の太田氏の勢力が及んだことに由来ししたという説があります。複数個所(日暮里駅、東京国際フォーラム、川越市役所、岩槻区役所庁舎前、伊勢原市役所など)に太田道灌の銅像が残っています。

その後の太田氏は

太田道灌の死後、息子の太田資康は山内上杉家に走り、扇谷上杉家は苦境に陥りました。1487年には、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂し、両上杉家は長年にわたり抗争を続けることになりました。やがて関東には北条早雲を祖としる後北条氏が台頭し、扇谷上杉家は北条氏康(北条早雲の孫)に滅ぼされ、山内上杉家も関東を追われることになりました。

太田氏の太田資高(太田道灌の孫)は、北条氏の家臣となっていますが、その子:太田康資は北条氏康から偏諱を賜っていますが、太田康資以降の太田氏の足跡は分かっていません。

フィクションにおける太田道灌

フィクションにおける太田道灌について、紹介したいと思います。

信長の野望における太田道灌

太田道灌の能力値ですが、統率:99、武勇:88、知略:99、政治:90とかなり高数値です。ただ、通常シナリオではまず登場しないので(1400年代に活躍したため)、ボーナスシナリオか、景品武将としての登場となりそうです。

ドラマにおける太田道灌

残念ながら太田道灌が登場するドラマはありませんでした。これから、クローズアップされていくと面白いかもしれませんね。

太田道灌のゆかりの地は多い!

太田道灌という名前は聞いたことがあるけど、イマイチ何したか分からない武将というイメージが分からないという人もいると思います。太田道灌は各地に城を築いたり、合戦を行なっていることから現在も名前が残っています。

関東地方には、太田道灌の関連の史跡が多いので、興味のある方は訪ねてみるのも良いかもしれません。