大村純忠の基本情報
本名 | 大村純忠(おおむら すみただ) |
生涯 | 天文2年(1533年)〜天正15年(1587年) |
時代 | 戦国時代〜安土桃山時代 |
出身国 | 肥前国 |
居城 | 三城城 |
父 | 有馬晴純 養父・大村純前 |
妻 | おゑん |
甥 | 有馬晴信 |
霊名 | ドン・バルトロメロ |
大村純忠(おおむらすみただ)は戦国時代に肥前の国で生まれた日本初のキリシタン大名です。
肥前守護大名でもあった有馬晴純の二男として誕生しましたが、母が大村純伊の娘ということから大村純前の養子となり17歳で大村家第18代当主となりました。
大村純忠の人生
年 | できごと |
---|---|
1533年 | 有馬晴純の二男として誕生 |
1550年 | 大村家の当主となる |
1562年 | 横瀬浦をイエズス会に提供し南蛮貿易を始める |
1563年 | キリスト教に改宗し日本初のキリシタン大名になる |
1563年 | 後藤貴明と家臣の謀反で横瀬浦が壊滅 |
1565年 | 福田を開港 |
1570年 | 長崎港を開港 |
1574年 | 大村領内の社寺を全て破壊する |
1580年 | イエズス会に長崎・茂木を寄進する |
1582年 | 天生遣欧使節として甥の千々石ミゲルを派遣 |
1587年 | 55歳で死去 |
誕生からキリスト教との出会い
大村純忠は1533年に肥前国で戦国大名・有馬晴純の二男として誕生しました。兄・有馬義貞が有馬家の家督の家督を継いだのと、母が大村純伊の娘だったので1538年に大村純前の養子となり1550年に大村家の家督を継ぎました。しかしこれで大村純前の実子・後藤貴明は養子に出されたことで生涯大村純忠を恨んでいました。
当時の肥前国は宣教師ザビエルが来日したばかりでイエズス会がキリスト教の宣教真っ最中ということもあり、街には多くのポルトガル人が暮らしていました。そんな状況の中1561年に平戸の宮前でポルトガル商人と日本人商人の争論からポルトガル人殺傷事件が起こりました。ポルトガル人が安心できる港を探していると聞いた大村純忠は、自領にある横瀬浦の提供を申し出、さらにイエズス会士に対して住居の提供などの便宜を図りました。これには自らの領地の財政を立て直す狙いがあったが結果横瀬浦は多いに賑わい財政改善策が成功しました。
日本初のキリシタン大名へ
1563年に自らも家臣と共にコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となりました。大村純忠のキリスト教へのハマりっぷりは凄まじく、領民にもキリスト教を奨励し領内には最盛期でキリスト教信者は6万人を越え、日本全国の半分のキリスト教徒が大村領内にいるという異例の事態になりました。他にも仏教徒の居住を禁止したり、貿易商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行なっています。
順風満帆に領地の財政改善していた大村純忠でしたが、家臣の中には環境の変化に反発するものも現れました。それに乗じて大村純忠に自らの家督を奪われた後藤貴明は家臣達に反乱を起こさせ横瀬浦を焼き払い壊滅させられてしまいました。しかしその2年後に福田を開港し、1570年には長崎港を開港しポルトガル人に提供しました。長崎は当時何もない田舎村でしたがこのことで大発展しました。
横瀬浦の焼き払いに成功したもののまだ恨みが晴れていない後藤貴明は軍勢1500人を率い大村純忠の居城・三城城を急襲。わずか城内に80人しかいなかったがなんとか援軍が来るまで持ちこたえ撤退した。
行き過ぎたキリスト愛と天正遣欧少年使節
年々大村純忠のキリスト愛は過激になっていき、自らの妻や子供もキリスト教に改宗させるだけでなく、領内の寺社を全て破壊したり、先祖の墓を打ち壊したりしました。また領民にもその熱は伝わり、僧侶や神官を殺害する者が現れたり、改宗しない領民が殺害したり土地を追われたりなどの事件が多く発生しました。さらに長崎港が龍造寺軍に襲撃された際ポルトガル人の支援によって撃退できたとあって、長崎に加えて茂木の地をイエズス会に寄進しました。
日本を訪問したイエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し同じキリシタン大名である大友宗麟、有馬晴信と共に4名の少年を天正遣欧少年使節としてローマに派遣しました。天正遣欧少年使節とはローマ教皇とスペイン、ポルトガル両王に日本宣教の援助を依頼することと、少年たちの将来の布教に役立てる為に各キリシタン大名の名代をヨーロッパに派遣することです。大村純忠は自らの名代として甥の千々石ミゲルを選びました。
1587年に55歳となっていた大村純忠は喉頭癌と肺結核を患っており、6月23日に死去しました。霊名はドン・バルトロメオとしました。
大村純忠の人柄
大村純忠の人柄や人物像について説明します。
キリシタン大名として
大村純忠がキリシタン大名になった一番の理由は弱小である自領をポルトガルに頼って財政を立て直すという打算的なものだったと言われています。最初はビジネスでキリスト教と向き合っていたもののキリスト教を深く知っていくうちに心を奪われ自らキリスト教となり、改宗を拒否した仏僧を追放したり仏道や神道に対する深刻な差別や迫害を行い強引に領民をキリシタンにさせました。また西洋の武器と交換で改宗拒否をした者達を奴隷として海外へ売り渡していたという怖い記録も残っています。
また自らがキリスト教徒となった後は正室のおゑんと改めてキリスト教に基づく婚姻を行い、この時に側室を退け、生涯おゑん以外の女性と肉体関係を結ばなかったと言われています。
親戚を大事にする義理堅い男
大村純忠を語る上で欠かせないのが後藤貴明の存在です。年表でも書きましたが大村家の子供として産まれたものの養子できた大村純忠に家督を奪われ後藤家に養子に出された後藤貴明は大村純忠をひどく恨んでいました。嫡子とはいえ確かにおかしい配置なので後藤貴明の怒りは理解できるのですが、自らが育った街の港を焼き払ったり、元領地の城に急襲を仕掛けたりと大村純忠にしてみたら厄介な親戚だったわけです。しかし義理堅い性格の大村純忠は親戚である後藤貴明を自ら攻めることは一度もありませんでした。
また肥前の熊の異名をとる龍造寺隆信の圧迫を受け3人の子供を人質に取られるなどほぼ従属関係にあり戦にも借り出されていました。兄が当主を務める有馬家・島津家連合軍と龍造寺家の戦にも龍造寺方として借り出されたが、大村家は有馬家に対し空砲を撃っていたと言われています。そのことから戦に負けた龍造寺家が迫害を受ける中、大村家は無傷で解放されました。
大村純忠のエピソード
大村純忠のエピソードについて説明していきます。
最後のエピソード
喉頭癌と肺結核を患った大村純忠は衰え病床に伏せていたが、神父を呼んで来世のことを度々話して欲しいと願い満足し涙を流していたと言われています。死を悟った大村純忠は領内に拘束していた捕虜200人を釈放し、前日には可愛がっていた1匹の小鳥を籠から出して空に放たせました。
この時もう籠を開ける力も残っていなかった為、侍女に小鳥を放つようお願いしたが小鳥をぞんざいに扱った為大村純忠は激怒しました。しかしその後怒る事は神の意志に反するとして侍女に帯をプレゼントし優しく諭したと言われています。
バテレン追放令
大村純忠の死から1ヶ月後、キリスト教徒による一揆を恐れた豊臣秀吉がバテレン追放令が発令されました。バテレン追放令とはキリスト教の宣教の禁止と南蛮貿易を禁じた者でどんな人も豊臣秀吉の許可なくキリスト教を信仰してはいけないというものです。
大村純忠と並ぶキリシタン大名・大友宗麟も同じ年に亡くなっています。また改宗しなければいけない屈辱を考えれば大村純忠にとっては正しい死に時だったと言えるでしょう。
フィクションにおける大村純忠
フィクションにおける大村純忠を説明します
信長の野望における大村純忠
大村純忠のステータスは作品によっても異なりますが、統率が58、武勇が37、知略が48、政治が69と、特に飛び抜けてる事はないので肥前の内政を任せるのがいいと思います。
長崎に南蛮文化を根付かせた大村純忠
豊臣秀吉と徳川家康によってバテレン追放令が発せられましたが、大村純忠が根付かせたキリスト文化はそう簡単には無くなりませんでした。その後一揆なども起こった通り、息を潜めてキリスト教を信仰していたのです。長崎には今でも教会が多く存在し、町のいたるところで南蛮文化を感じることができます。そして2018年には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産にも登録されました。
間違いなくその世界遺産の祖は大村純忠。彼が行なったキリスト教の布教は間違いなく今の現代にも繋がっています。