正親町天皇は動乱を生き抜いた天皇!豊臣秀吉との関係性や和歌の腕前とは?

正親町天皇は戦国・安土桃山時代に生きた日本の第106代天皇です。100年以上続いた戦国の世で弱り切ってしまった朝廷において天皇として即位した人物です。織田信長や豊臣秀吉ら天下人との相互関係性を上手く築き、弱体化した天皇家と朝廷に再び権威を取り戻した人物でもあります。

この記事では正親町天皇の生涯を年表付きで分かりやすく解説していきます。正親町天皇がどのような人物であったのか、どのようなエピソードを残しているのか、ドラマなどのフィクションにおける正親町天皇など、様々な視点から解説していきます。

正親町天皇の基本情報

正親町天皇(おおぎまちてんのう)は日本の第106代天皇で、戦国〜安土桃山時代を生きた人物です。

1557年に父である後奈良天皇の崩御に伴って即位しました。当時100年以上続いた戦国乱世により弱体化し権威が落ちてしまった朝廷において、織田信長や豊臣秀吉らとの関係性を築き、朝廷を復活させる礎を築いた人物でもあります。

正親町天皇の人生

できごと

 

財政難を乗り越えて第106代天皇として即位

正親町天皇は1571年に第105代天皇の後奈良天皇の第一皇子として生まれました。1557年、後奈良天皇の崩御に伴い、天皇としての位を受け継ぐことになります。しかし、当時の朝廷は長きに渡る戦乱の世により、その権威は落ちぶれたままでした。また財政面でも非常に困難を極めていたこともあり、即位の礼すら挙げれないという大きな壁が立ちはだかりました。

そのような苦境に立たされた中での即位でしたが、1560年に安芸国の戦国大名であった毛利元就から即位費用の献納を受けることになり、ようやく即位の礼を挙げることになります。

転機となった織田信長との出会い

そのような逼迫した状況下の天皇家にとって転機となる出来事が織田信長との出会いでした。当時今川義元を桶狭間の戦いで破り勢いに乗っていた信長でしたが、その勢いを危惧した近隣大名や将軍足利義昭によって行く手を阻む信長包囲網が築かれ始めていました。その局面を打開しようとした信長は、1568年に自らの大義名分に利用するために当時財政難を極めていた朝廷・天皇家の権威を取り戻すべく資金援助を行います。信長の資金援助や各種政策により、朝廷は徐々に以前の権威を取り戻していきました。

また正親町天皇は信長へ敵対する勢力に対して度重なる講和の勅命を発令し、信長が窮地に陥る度に天皇の権威を用いて救うという、持ちつ持たれつの関係性も構築しています。1570年には朝倉義景、浅井長政との戦い、1573年には足利幕府の足利義昭との戦い、1580年には石山本願寺の戦いと、いずれも講話の勅命を出して信長のピンチを救っています。

1577年に正親町天皇は王政復古を確実にしたいという目論見の元、信長を右大臣の官位に任命し、さらには関白就任を要請するなど官位を誘って公家一統化を進めようとします。しかし、信長の返事を聞く前に1582年の本能寺の変が発生、信長は帰らぬ人となってしまいます。

豊臣政権と朝廷の完全復活

1582年の本能寺の変で、信長を失った正親町天皇の元に新たに現れたのが豊臣秀吉でした。信長亡き後に勢いに乗る豊臣秀吉もまた、自らの正当性を得るために信長のやり方を踏襲し、朝廷への資金援助を惜しみませんでした。新たなパートナーを得た正親町天皇は、秀吉の躍進とともに朝廷の権威をさらに高めることに成功します。

1586年、自らの政権を絶対的位置に持ち上げたかった秀吉に対して正親町天皇は「豊臣」性を与えます。また同年には太政大臣という朝廷の最高権力の座を与え、豊臣政権を確率するための支援をしました。また自らの進退は孫の後陽成天皇(息子の誠仁親王は既に死去)に譲り、仙洞御所に隠退することになります。

1593年、正親町天皇は激動の戦国時代を生き抜き77歳で崩御しました。

正親町天皇の人柄・人物像

正親町天皇の人柄や人物像について説明していきます。

織田信長からの評価

正親町天皇と織田信長との関係性についてですが、当時財政難や弱体化を極め、落ちぶれる一歩手前であった朝廷は「天皇王政復古」を願い、一方の信長は自らの畿内平定という目論見に対して敵陣包囲網を敷かれる難局に置かれていました。

当初信長との関係性は利害関係が一致し、持ちつ持たれつのように見えましたが、本質のところでの二人の思惑は異なり、正親町天皇は「公家による王政復古」、信長はあくまでも「武家による幕藩体制の構築」と意見の食い違いが進んでいきます。

その後の信長は正親町天皇の息子である誠仁親王を立てて正親町天皇へ退位を迫り、正親町天皇はというと王政復古を目指して信長への関白就任要請を行うなど二人の関係は徐々に悪化していきました。

得意の和歌から読み取れる人柄

正親町天皇は戦乱の世に朝廷権威の復興へ全力を注いだ一方で、「正親町院御百首」や「御点取部類」などを発表し、和歌の世界でも活躍した人物でした。

正親町天皇は三条西公条と息子の三条西実枝に和歌や古典の指導を受けて、積極的に和歌会を開催するなど力を入れていたことが分かっています。

正親町天皇の人柄を現すような歌に以下のようなものがあります。

「行人に ゆきおくれてん今日もまた みやま桜の春の夕暮れ」

意味としては、「桜吹く季節、花見客の混雑を嫌って夕方までに着ければ良いやとゆっくりと遅れて歩く、夕暮れの趣や長閑な春を楽しみながら」と言った内容になります。

さすがは天皇家の一大危機を乗り越えた人物と思えるような、懐の深い人柄を感じる歌となっています。

正親町天皇の名言・エピソード

正親町天皇の名言やエピソードについて説明していきます。

豊臣秀吉とは相思相愛

正親町天皇と豊臣秀吉の関係性は概ね最後まで良好だったと言えます。

豊臣秀吉はどちらかといえば天皇家に対して尊敬の念を持った人物でした。それは農民の出とも言われ出自があまり良くなかったこともあり、自らの政権を確固たるものにするため、朝廷への憧れと後ろ盾が欲しかったと言えます。

利害関係から見ると信長・秀吉ともに政権の確立の為という似たところはありますが、正親町天皇にとって秀吉が良かった点は、武家社会を目指す信長よりも、自ら公家に近づいてくれる秀吉の方が皇室による王政復古を目指す上でベストなパートナーでした。

この関係性は最期まで途切れることなく続き、秀吉の関白就任に合わせるように敵対関係となっていた誠仁親王が死去し、正親町天皇が望む皇室による一統のレールを敷きつつ、孫の後陽成天皇へと譲位することが叶いました。

実は千利休の名付け親だった?

戦国・安土桃山時代の有名な茶人と言えば、利休流茶道の祖である千利休ではないでしょうか。その千利休という名前ですが、この名前を与えたのは正親町天皇でした。

千利休は堺の町人出身で、元々は法名としての宗易(そうえき)など別の名前がありました。広く利休と知られることになったのは1585年の禁中茶会(皇居での茶会)のことです。この禁中茶会は町人の身分では参加が許されない茶会となっていて、ここで正親町天皇が与えた居士号というのが「利休」という名だったのです。

フィクションにおける正親町天皇

フィクションにおける正親町天皇を解説していきます。

ドラマにおける正親町天皇

正親町天皇がメインとなるようなドラマはありませんが、2013年に放送したTVドラマ「信長のシェフ」では俳優の森本レオさんが正親町天皇役を出演されています。

また2016年放送の新春時代劇では「信長燃ゆ」の原作者である安部龍太郎さん自身が正親町天皇役として出演し話題となりました。

正親町天皇は弱体化した皇室に権威を取り戻した天皇

室町時代後期から100年以上続いた戦乱の世は皇室・朝廷の弱体化を招きました。そんな権威の低迷と財政難という逼迫した状況下で皇位についた人物が正親町天皇です。

正親町天皇は世の流れを上手く掴み取る才能に長けていて、織田信長から豊臣秀吉と続く織豊政権と常に関係性を紡ぎながら時代の流れを手繰り寄せようと奮闘しました。

正親町天皇は一代で天皇家を復興させた名君であったと言えるでしょう。