お市の方は織田信長の妹で戦国一の美女!賤ヶ岳の戦いで悲劇的な最期を迎える

お市の方は織田信長の妹・浅井三姉妹の母であり、浅井長政・柴田勝家という名将に嫁いだ波乱に満ちた人生が知られています。

この記事ではお市の方の生涯を年表付きで分かりやすく解説します。お市の方がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおけるお市の方など、様々な視点から解説していきます。

お市の方の基本情報

お市の方(おいちのかた)は尾張国出身で、戦国時代を生きた女性です。

はじめ浅井長政に嫁ぎ茶々・初・江の三姉妹を産みますが、実家織田家との対立の末死別し、その後は柴田勝家へと再嫁しました。

お市の方の人生

できごと

浅井長政に嫁ぐ

お市の方は。1547年、織田信秀と、その正室・土田御前の間に五女として誕生します。織田信秀は子が多く、側室も何名かいましたが、同じ土田御前から生まれた同母弟として、織田信長や織田信勝、お犬の方がいます。

お市の方の前半生に関する史料はほとんど存在せず、詳細なことはわかっていませんが、1567年(もしくは1568年)、近江国の守護大名・浅井長政の正室となります。

この時お市の方は20歳前後でしたが、当時としては遅い年齢での結婚でした。一説では、織田信長がお市の方を非常に可愛がっており、手放すのを惜しんでいたからだとも言われています。

この結婚は織田家と浅井家の間で同盟を結ぶための政略結婚でした。織田家と同盟を結ぶにあたり、浅井家では否定的な意見も多く、議論は紛糾していました。

浅井長政の父・浅井久政の盟友、朝倉義景と織田信長は不仲であり、朝倉義景は織田信長の再三に渡る上洛命令にも背き、朝倉家と織田家は互いに挑発行為を繰り返していました。浅井久政は朝倉家との友好関係に固執し、新興勢力であった織田家との同盟関係締結には終始反対し続けました。

それでも浅井家がお市の方を迎えることを決定したのは、浅井家かつての主君、六角氏への対抗のため、織田信長側にとっては美濃進出のためでありました。何より、この同盟の中で「朝倉氏への不戦」が定められており、これが同盟締結の決め手となりました。

織田信長は2人の結婚・同盟締結を非常に喜び、当時のしきたりでは夫側が結婚資金を準備するのがしきたりだった所を、織田信長自身が全額を負担したと言われています。

浅井長政は高身長で容姿端麗な武将であったと言われており、お市の方との仲も大変仲睦まじいものでありました。

前述した通り、浅井久政はじめ、お市の方を迎えるにあたり反対意見も強く、正室とは言っても人質のような側面もあり、決して居心地の良い環境ではありませんでしたが、浅井長政は立場の弱い彼女を献身的に支えていたと思われます。

こうして小谷城に入って間もない1569年、お市の方は早くも長女・茶々を産みました。

しかし、1570年、織田信長が浅井家との同盟の条件であった「朝倉氏への不戦」を破って越前国へと侵攻、金ヶ崎の戦いとなります。これを受けた浅井長政は、朝倉氏との同盟関係を重視し、織田家への攻撃を決意します。

戦いの序盤、優勢に軍を進めていた織田信長でしたが、越前国、そして浅井長政の北近江からの攻撃と挟み撃ちになって形勢は逆転し、後年金ヶ崎の退き口と称される九死に一生の退却戦となりました。

こうして織田・浅井の同盟関係は破綻しますが、お市の方と浅井長政の夫婦関係は未だ良好であり、同年に次女・初、1573年(諸説有り)には三女・江が産まれています。

織田家との戦いは続き、同年に続けて姉川の戦いが勃発します。この戦いでは織田軍が勝利しますが、浅井・朝倉の残党は比叡山と合流、武田信玄を中心に織田信長包囲網が着々と形成され、同時期に本願寺勢が織田信長への反旗を翻すなど、織田信長にとっては四面楚歌の苦境となりました。

お市の方にとっても、生家と嫁家の板挟みとなった上、どちらも厳しい状況にあり、心穏やかに過ごせる日々は遠いものとなっていました。

その後、浅井長政は武田信玄と結びますが、1573年に武田信玄が急死すると、織田信長包囲網も急速に瓦解します。こうして1573年8月、一乗谷の戦いで朝倉義景を自害に追いこんだ織田信長は、勢いそのままに小谷城へと侵攻を開始しました。

朝倉氏という最大の同盟相手を失った浅井氏には打つ術がなく、ついに小谷城は陥落、浅井長政は自害することとなります。この時、浅井長政はお市の方と3人の娘を織田家家臣の藤掛永勝へと引き渡し、岐阜城へと逃げ延びさせました。

織田家へと戻る

こうして娘たちと共に織田家へと帰参したお市の方は、織田信長の弟の織田信包による庇護を受け、清洲城で生活するようになります。近年の研究では、お市の方と娘たちを庇護したのは、織田信包ではなく、織田信長の叔父・織田信次である可能性が高いとされ、守山城に滞在していたとも考えられています。

どちらにせよ、お市の方は織田信長からの厚い待遇を受けながら、9年の月日を過ごしました。その間、織田信長から度々再婚の話も持ちかけられたと言われますが、浅井長政への愛情が深く残っていたためか、その内心は不明ですが、お市の方はこれを拒否して独身を貫きました。

こうして穏やかな日々を送っていたお市の方ですが、1582年、本能寺の変が勃発し、兄・織田信長が自害に追い込まれます。仇敵・明智光秀は中国大返しを行なった豊臣秀吉によって間も無く討ち取られますが、お市の方は最大の庇護者を失ってしまったのでした。

柴田勝家への再嫁

その後開かれた清洲会議にて、お市の方は織田家重臣であった柴田勝家の元へ再嫁することが決定します。

この結婚に関しては、浅井家を滅亡させ、その後近江を手に入れた豊臣秀吉を、お市の方が非常に嫌っていたため、彼との再婚を避けるためだったとか、清洲会議でその発言力を弱めた柴田勝家の不満を抑えるために豊臣秀吉が仲介したなど、様々な説が唱えられています。

従来の通説では、お市の方の異母兄・織田信孝が仲介して柴田勝家との結婚をまとめたと考えられています。25歳ほど年の離れた2人でありましたが、その夫婦仲は良く、茶々・初・江の三姉妹も継父に大変可愛がられたと言われています。

本能寺の変からわずか4ヶ月後、お市の方と柴田勝家の婚儀が岐阜城にて行われると、柴田勝家の居城、越前国北ノ庄城に入りました。

しかし、柴田勝家と豊臣秀吉は織田信長の存命時から不仲であり、その関係は清洲会議後に益々悪化していました。織田信長亡き後の両者の権力抗争の末、1583年についに賤ヶ岳の戦いとなります。

しかし、柴田軍は敗北し、柴田勝家はお市の方や200人余りの者達と北ノ庄城に籠城します。柴田勝家はお市の方に逃げるように告げますが、お市の方はこれを拒否して柴田勝家と共に自害する道を選び、3人の娘たちのみを豊臣軍へと引き渡します。

『毛利家文書』には、

「天主の最上の九重目に登り上がり、総員に言葉をかけ、勝家が”修理の腹の切り様を見て後学にせよ”と声高く言うと、心ある侍は涙をこぼし鎧の袖を濡らし、皆が静まりかえる中、勝家は妻子などを一刺しで殺し、80人とともに切腹した」

とあり、その壮絶な最期を物語っています。

お市の方の辞世の句は、「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」であり、これに対する柴田勝家の辞世の句が、「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」となっています。

2人が自害すると北ノ庄城には火が放たれ、建築物のほぼ全てが焼失しました。

お市の方の人柄・人物像

お市の方の人柄や人物像について説明します。

戦国一の美女

お市の方は戦国一の美女であり、加えて非常に聡明であったと言われています。浅井長政とは美男美女の夫婦であり豊臣秀吉や柴田勝家からも長い期間憧れを受け、また同母兄・織田信長からも非常に愛された女性でした。

初に養育された川崎正利の孫・溪心院が、お市の方と浅井三姉妹に関する情報を覚書風に著した『溪心院文』には、自害した37歳の時点で、実年齢よりはるかに若い22・23歳ほどに見える若作りの美形であったと記されています。

その美貌は娘たちにも受け継がれ、特にお市の方の面影を受け継いだ長女・茶々は、その後お市の方に憧れを持っていた豊臣秀吉の側室となり、寵愛を受けて豊臣秀頼の生母となります。

母として

賤ヶ岳の戦いの敗北を受け、自らは夫と共に自害する道を選択したお市の方でしたが、3人の娘たちの行く末に関しては非常に心配していました。

お市の方は娘たちを守るために、自ら筆をとって豊臣秀吉に書状をしたため、娘たちの身柄の保障を求めました。結果、三姉妹達は豊臣秀吉に保護されて安土城へと入り、その後織田信雄(織田信長次男)の庇護を受けて暮らすこととなりました。

お市の方は娘たちを逃す間際、「浅井と織田の血を絶やしてはならない」と告げたと言われ、その母の言いつけ通り、三女の江は徳川秀忠の正室なった後、多くの子を産み、その血筋は現在の皇室にまで続いています。

お市の方の名言・エピソード

お市の方の名言やエピソードについて解説します。

小豆袋と袋の鼠

最初の夫・浅井長政が織田信長を裏切って朝倉軍に加わった金ヶ崎の戦いの前、お市の方から織田信長の陣中へ袋に入った小豆が届けられました。

そしてその袋は両端を縄で括って結び切りにしてあり、文は添えられていませんでした。

これには、浅井長政が裏切って織田軍の退路を遮断し、朝倉軍と共に挟み撃ちにしようとしていること、織田信長が袋に入れられた小豆のように、「袋の鼠」であることを秘密裏に教えようという意味が込められていました。

これに気が付いた織田信長は退却を決め、命からがらながらも京都に帰還することができたのです。

この「小豆袋」のエピソードは、『朝倉家記』に記されたもので、後世の創作と言われており、実際にお市の方が小豆袋を送った可能性は低いといえます。

しかし、当時の政略結婚の風習を考えれば、嫁いだ武家の女性は実家から送り込まれた間諜としての側面もあったため、お市の方もその役割を果たしていたとも考えらます。

生存説

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と共に悲劇的な自害を遂げたお市の方ですが、一方で密かに城を脱出し、生存していたという伝説も存在します。

浅井長政の正室であった頃から密かにお市の方を守護していた浅井家の忍者・日比治部左衛門という人物(浅井家滅亡前は浅井治部左衛門と名乗っていた)が、北ノ庄城に侵入し、侍女を替え玉に立ててお市の方が自害したように装い、城の裏手の足羽川を下り、下流にある勝久寺に逃げ込みます。

そこから織田家と親しかった豪商・森田氏に匿われて近江国へと移り、その後日比治部左衛門の故郷、伊賀の下友田に住居を構え、そこでひっそりと余生を過ごし、1599年に53歳で亡くなったと言われます。

日比治部左衛門はその後「稲増」と名を変え、江戸時代には藤堂家に仕えて伊賀忍者の皆伝を受けますが、下友田の浄光寺には浅井長政の墓碑もあり、稲増治部左衛門の屋敷(稲増屋敷)にはお市の方の喉仏が納められていると伝わっています。

フィクションにおけるお市の方

フィクションにおけるお市の方を解説します。

ゲームにおけるお市の方

ゲーム『戦国無双』ではシリーズ第1作から登場しており、戦国無双シリーズ初の成長するキャラクターでもあります。

ゲーム中ではヒロイン的存在として登場し、浅井長政とは政略結婚でありながら非常に仲睦まじい夫婦となっていく様子が描かれています。剣玉(後シリーズでは連環輪)を駆使した攻撃方法で、スピードの高いキャラクターとなっています。

ドラマにおけるお市の方

織田信長の妹として生まれたお市の方は、戦国時代のヒロイン的存在として数々のドラマに登場しています。

NHK大河ドラマでは、1965年『太閤記』(演:岸恵子)、1973年『国盗り物語』(演:松原千恵子)、1981年『おんな太閤記』(演:夏目雅子)など、錚々たる女優陣がお市の方を演じてきました。

2011年の大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』ではお市の方が産んだ三女・江が主人公となり、その生母としてお市の方も物語の序盤の準主役的な人物として登場しました。(演:鈴木保奈美)

このドラマでは、気高い性格で女性ながら武将相手でも一歩も引かない果敢さをもっており、姫達の実父・浅井長政とは非常に仲睦まじい夫婦であった人物として描かれました。

北ノ庄城落城の際には、三姉妹一人一人に自らの役割を説き、豊臣秀吉に対しては「娘達に邪心を抱かぬように」と書付を残したシーンもありました。

戦国一の美女・お市の方は劇的な人生を送りながらもその血脈を受け継がせた

お市の方は、天下統一への道を邁進した織田信長の妹として生まれ、武家の娘として政略結婚に臨み、権力に翻弄された劇的な人生を送った女性でした。

最初の夫・浅井長政との間には三姉妹も生まれ、仲睦まじい夫婦となりますが後に両家が対立して板挟みとなり、その結果浅井家は兄により滅亡へと追い込まれ、最愛の夫を無くします。

その後も本能寺の変で庇護者の兄を失い、その後間も無く柴田勝家との再婚が決定されます。穏やかな結婚生活はすぐに終わりを迎え、北ノ庄城で短い人生を終えることとなりました。

最初の結婚も二度目の結婚もその幸福な期間は短く、その上どちらも落城を経験するという大変悲劇的な結婚生活でありました。しかし、その内実はどちらも夫婦仲は円満であったと言われ、そのような意味ではお市の方は幸せであったのかもしれません。

お市の方は権力に翻弄されながらも逞しく生き抜き、柴田勝家と共に迎えた最期も、彼女の美しさや精神的な強さを益々魅了的にみせているように思えます。

3人の娘達も母と同じようにそれぞれが劇的な人生を送り、同時代の女性の中ではお市の方、浅井三姉妹の知名度は群を抜いて高くなっており、戦国時代のヒロイン的存在として、現在までその名を残しています。