織田信康は織田信秀の弟、織田信長の叔父にあたる人物です。国宝に指定され江戸時代以前の天守を現在に残している犬山城を、整備した人物とされています。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場しました。
この記事では織田信康の生涯を年表付きで分りやすく解説します。織田信康がどのような人物であったか、どのような名言を残しているのか、ゲームやドラマにおける織田信康など、様々な視点から解説していきます。
織田信康の基本情報
本名 | 織田信康(おだのぶやす) 別称:与次朗 |
生涯 | ?~天文13年(1544) |
時代 | 戦国時代 |
出身国 | 尾張国 |
居城 | 木之口城→犬山城 |
主君 | 織田信秀 |
官位 | なし |
妻(正室) | 不明 |
子 | 織田信清、織田広良、織田信張正室など 養子:織田信時 |
織田信康(おだのぶやす)は戦国時代に生きた武将です。兄である織田信秀を支え、織田氏が勢力を伸ばしていくにあたってその一翼を担いました。
織田信康の人生(年表付き)
年 | できごと |
---|---|
?年 | 誕生 |
1533年 | 兄・織田信秀が織田達勝と争った際、和平成立後に信秀代理として清州城に出向く |
1537年 | 犬山城に入城する |
1537年 | 針綱神社に手掘りの狛犬を奉納する |
1542年 | 小豆坂の戦いで戦功をあげる |
1544年(1547年の説もあり) | 加納口の戦いで戦死 |
織田家の分家の家系に生まれる
織田信康は、織田信定の次男として誕生します。生年については記録が残っていないため、不明ですが、長男である織田信秀は永正8年(1511)生まれなのでそれよりも後であると考えられます。織田信定は織田信長の祖父にあたる人物です。当時の織田氏は、いくつかの派閥に分かれており、織田信定の派閥は織田弾正忠家と呼ばれ、勝幡城に拠点を構えていました。この派閥は当初は、本家で清州城に本拠を構える織田大和守の分家であり、家老として大和守家の執務を補佐する立場でした。しかし、徐々に力をつけていき、天文年間(1532~1555)に織田信秀が家督を継ぐころには、形式上は本家に従属している立場であったものの、実質的には尾張国を統治する勢力となっていました。天文元年(1532)に織田信秀が、本家の織田達勝と争ったとき、和睦成立後に織田信康は、兄・信秀の代理として、清州城に出向きます。
兄・織田信秀の右腕としてはたらく
織田信秀は尾張国一円を自らの統治下に置くように画策し、一門の・家臣を尾張の要所に配置します。その一環として、天文6年(1537)に織田信康が犬山城に入城します。犬山城が立地する尾張国北部はそれまで岩倉織田氏という派閥が治めていましたが、当主を務めていた織田信安が幼いため、織田信康が後見人になるという名目をたてます。こうして織田信秀は勢力範囲をひろげていったものと思われます。また、犬山城に移る際に木ノ下城を廃城にしたとされており、織田信康は犬山城に入る前は木ノ下城に拠点を構えていたものと考えられます。
天文11年(1542)の小豆坂の戦いでは、織田信康は兄・織田信秀に従い戦います。この戦は、西三河地方の覇権をめぐって織田信秀と今川義元との間で生じたものでした。「信長公記」には良い働きをしたものとして、織田信康の名が挙げられています。
斎藤道三との戦、加納口の戦いの最中に討死
織田信秀は、美濃国の覇権を得ようとして以前から兵を送っていましたが、美濃稲葉山城(現在の岐阜城)に拠点を構える斎藤道三に敗れていました。天文13年(1544)に織田信秀は再び美濃へ侵入します。織田軍は稲葉山城の麓の村々を焼き払いながら城に迫ります。夕方になって織田方はいったん引き揚げることにして、兵が半分ほど引いたところで斎藤道三の軍勢が攻撃してきて織田方に襲い掛かります。突然の攻撃に織田方は守備が整わず5000人が討死をします。この混乱の最中に織田信康も命を落としたのでした。この戦の記録は「信長公記」などでは天文13年(1544)とされていますが、天文16年(1547)と記録されている文献もあり、織田信康が戦死したのも天文16年であったという説もあります。
織田信康の人柄・人物像
織田信康の人柄や人物像についてまとめます。
武力面・政治面の両方で兄を支える
記録が残っておらず確かなことは言えませんが、兄・信秀の生年(1511)と討死した加納口の戦い(1544)から計算すると、30年ほどの生涯であったと思われます。織田信康は短い生涯でしたが、武力・政治の両面で織田信秀を支えました。この時代は、兄弟の間であっても、権力争いによって殺し合うことが珍しくなかったものでしたが、兄を支えた織田信康の姿は特異な例であるといえるかもしれません。
子孫は江戸時代以降も旗本として生き残った!
織田信康が討死したのち、犬山城を継いだのは息子の織田信清でした。織田信清は当初、織田信長に仕える身で戦の支援なども行いますが、のちに領地の分与をめぐり諍いを起こします。織田信清は信長に対して反旗を翻しますが反撃され、永禄7年(1564)に犬山城を攻め落とされ、織田信清は甲斐国へ逃亡しました。織田信清は生涯信長に反抗しましたが、その子孫については罪を許され、豊臣秀吉などに仕え、江戸時代以降も旗本として血筋は継続しました。
織田信康の名言・エピソード
織田信康の名言・エピソードについて解説します。
国宝・犬山城の礎を築いた!
犬山城は、江戸時代以前に建設された天守が現在まで保存されている現存12天守のうちの一つで、国宝にも指定されています。この城は織田信康が入城する以前、応仁の乱頃(1470年頃)から既に砦として存在しており、尾張国北部を勢力下においていた岩倉織田氏が所有していました。織田信康は天文6年(1537)にこの犬山城に入城し、この地域を勢力下に治めます。この時に城郭を造営し、現存する天守の2階まではこのころに造られたと考えられています。織田信康が戦死したのちは、子の織田信清が城主となりました。
今も残る、手掘りの狛犬
犬山城の南の登城入り口の近くにあり、城の守護神とされている針綱神社には、織田信康が自らが手掘りして奉納したといわれる狛犬があります。以来この神社は、安産・子授けにご利益があるとされており、戌の日に安産祈願をするとよいともいわれています。
フィクションにおける織田信康
フィクションにおける織田信康を解説します。
信長の野望おける織田信康
織田信長が活躍した時代にはすで死去していたためか、現時点では登場はしていないようです。
ドラマにおける織田信康
あまり登場回数は多くないですが、織田氏などを取り上げた作品では登場することがあるようです。最近では2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」に登場しました。加納口の戦いで織田信秀につき従っていましたが斎藤道三軍の襲撃に遭い、矢を射られて討死します。その際、織田信秀が「信康!」と叫ぶシーンが印象的でした。
織田信康は短い活動期間の中でいくつもの足跡を残した!
織田信康はその活躍期間は長くないですが、兄・織田信秀を支えていくもの戦で戦功をあげました。また織田信康が築いた犬山城は、のちに中国にある城になぞらえて、「白帝城」と称される名城となりました。現在でも多くの人々が訪れる人気観光地となっています。
また、織田信秀の代理として敵方へ面会に出向いたり、手掘りの狛犬を残したりと、武勇以外の面でも才能の片鱗を覗かせていました。もし加納口の戦いで討死をせずに生き延びていれば、様々な能力で織田家を支える人物となっていたかもしれません。