織田信孝(神戸信孝)は有能な武将だった?辞世の句や評価について!

織田信孝は織田信長の三男とされていますが、次男の織田信雄よりも先に生まれていますが、母親の身分が低かったために、三男という位置づけで扱われています。織田家の遊撃部隊として各地を転戦していますが、最後は羽柴秀吉と対立し、自害に追い込まれています。

今回は織田信孝の人生を年表付きで解説し、人柄や人物像、名言やエピソードについても紹介したいと思います。

織田信孝の基本情報

織田信孝の人生

できごと

誕生

織田信孝は、織田信長の三男として生まれました。しかし、実際のところは、次男:織田信雄よりも20日早く生まれていますが、母親(織田信長の側室)の身分が低かったこともあり、三男扱いにされています。こういった経緯もあり、織田信孝は織田信雄を敵視するようになったと言われていますが、それを示す文書は残っていません。

織田信長の子供の中で、織田信忠・信雄・信孝までがよく登場していますが、庶子に過ぎなかった織田信孝がこれほどの待遇を受けいているのは異例だと言われています。

神戸信孝に

1568年に、北伊勢を平定した織田信長は、降伏した神戸城主:神戸具盛の養子として織田信孝を送り、以後は神戸三七郎信孝と名乗っています。養子入りに際しては、織田家の多くの家臣が送り込まれています。

1570年に織田信孝と神戸具盛が不仲になり、織田信長は神戸具盛を強制的に隠居させています。1571年に織田信孝は神戸家を相続しますが、この家督相続に反対して家臣を粛清・追放しています。1572年に、兄の織田信忠、織田信雄と共に元服していますが、兄と一緒に元服したとは考えてにくいので、これには諸説あります。

1574年、第三次長島一向一揆攻めに従軍していますが、これが初陣だと言われています。以後は織田家の遊撃部隊として各地を転戦しています。1575年の越前一向一揆攻め、1577年の雑賀攻めにも参陣しています。同年11月に従五位下侍従に叙任されています。

織田信孝は、織田信忠軍団の組下にありながらも、織田信長の側近としても活動しており、朝廷との交渉役も務めています。1581年の左義長、馬揃えなどの行事にも参加し、一門の中では、信忠・信雄・信澄に次いで、第4位の序列として扱われています。

1582年2月、織田信長は四国の長宗我部元親と断交し、四国攻めを決定し、織田信孝が総大将に抜擢されています。「織田軍記」では織田信孝の地位について、「南海の総管」と呼んでいます。以後、織田信孝は四国攻めの準備にかかりますが、同年6月に本能寺の変で織田信長が亡くなったことで、中止されています。

羽柴秀吉を恨み自害

本能寺の変後は、配下兵士の逃亡が相次ぎ、織田信孝は積極的な行動ができずにいました。1582年6月5日には、明智光秀の娘婿だった津田信澄を殺害しています。津田信澄が本能寺の変に加担していたという証拠はありませんでしたが、関与しているという噂が流れたのは事実だと言われています。

その後、羽柴秀吉が中国地方から軍を率いて到着すると、名目上(指揮は羽柴秀吉がとったとされる)の総大将として明智軍と戦い、明智光秀を破り、父の仇討に成功していますが(山崎の戦い)、実際は羽柴秀吉が軍を動かしていたので、以後の主導権は羽柴秀吉が握ることになりました。

山崎の戦いの後、織田家の後継者を決める清洲会議が開催され、柴田勝家には織田家の後継者として推薦されますが、羽柴秀吉の根回しもあり、後継者は三法師(織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫)に決定し、織田信孝には美濃一国と岐阜城が与えられ、同城で三法師の後見役を務めることになりました。

しかし、実権は羽柴秀吉が握っていいたこともあり、織田信孝は柴田勝家に近づています。その後、柴田勝家と羽柴秀吉の対立が決定的になり、一度は羽柴秀吉軍に岐阜城を囲まれ降伏していますが、三法師を安土に送るという条件で和睦しています。

その後、羽柴秀吉と柴田勝家の間で、賤ヶ岳の戦いが起こると、織田信孝は柴田勝家側として参戦していますが、柴田勝家が敗れたため、再び城を包囲され降伏しています。その後、織田信孝は羽柴秀吉側だった織田信雄によって自害させられたと言われています。

織田信孝の人柄・人物像

織田信孝の人柄や人物像について、紹介したいと思います。

実は有能な武将だった

織田信長の息子の中で、織田信長の性格を一番受け継いでいたのが織田信孝だったと言われています。「気性が激しく短気」というイメージもあります。しかし、記録を見てみると、「前途有望な好青年」、「思慮があり、礼儀正しく、大いなる勇士」、「智勇、人に越えたり」、「文武の達人にして、文学を用い歌道を好む」と評価は高いものばかりです。

その他、1580年には村井貞勝の補佐の為に、京都で朝廷との交渉を担当したり、同年、居城の神戸城を改築。1582年正月には、木曽義昌が武田家を離れ織田家に転じた際には、仲介役になっており、これがきっかけで甲州征伐が始まったと言われています。

さらに四国攻めの司令官として抜擢されていることから、織田家の方面軍の軍団長を担えるほどの逸材だったのかもしれません。まだ若かったので、補佐役に丹羽長秀がついていますが、四国攻めが行われていたら、「四国管領」的なポジションになっていたかもしれません。

壮絶な最期

織田信孝の自害は壮絶なものだったと伝わっており、切腹の際には内臓を引きずり出し、床の間の掛け軸に投げつけたと言われています。織田信孝の辞世の句の一部に「昔より主を内海の野間なれば やがて報いん羽柴筑前」という文言があり、現代語に訳すと「主君を討ったその身には、必ずその報いを受ける日が来るだろう。秀吉よ、非業の最期を待つが良い」となります。

この句は江戸時代に伝わるものなので、後世の創作の可能性がありますが、羽柴秀吉への怒りの感情が強かったのが読み取れます。

織田信孝の名言・エピソード

織田信孝の名言やエピソードについても紹介したいと思います。

柴田勝家とお市を結婚させた

清州会議の後、羽柴秀吉は未亡人だったお市の方(織田信孝の叔母、織田信長の妹)を所望したとも言われていますが、お市の方はこれを拒否。拒否させたのが織田信孝で、羽柴秀吉に対抗するために、織田信孝が双方を説得し、結婚させたとも言われています。

一方では羽柴秀吉が、柴田勝家にお市の方との結婚を勧めたという説もあり、真相は分かっていません。羽柴秀吉と柴田勝家が、共にお市の方に好意を持っており、恋敵だったという描かれ方もありますし、お市の方が羽柴秀吉を嫌い、柴田勝家と結婚したという説もあります。

キリスト教徒だった?

織田信孝はキリスト教に深い関心があり、自身もキリスト教徒になろうとしていたという説もあります。宣教師によると、「彼(織田信孝)はデウスのことをよく悟り、常にデウスのことを賛美し、しばしば我がガザに来たり、パードレなどを大いに尊敬している」という記録が残っています。

精神的にはほぼキリシタンと言っても良いかもしれませんが、父:織田信長が自身の改宗をどう思うかということを非常に気にしていたとも言われています。その後の混乱もあり、洗礼も受けずに亡くなっていますが、実際のところはどうだったのかは分かっていません。

フィクションにおける織田信孝

フィクションにおける織田信孝について、紹介したいと思います。

信長の野望における織田信孝

信長の野望における能力値ですが、統率:56、武勇:63、知略:29、政治:50と評価は低めです。ゲーム中では残念な武将として、終わっていまいそうな気がします。

フィクションにおける織田信孝

織田信孝が登場するドラマはほとんどありません。やはり、父:織田信長や家臣の羽柴秀吉、明智光秀などの武将の知名度が高いため、ほとんど目立たない存在だという事でしょうか。

織田信孝は有能だった可能性もある

織田信孝は母親の身分のこともあり、三男という立場になりましたが、もしかすると兄2人よりも優秀だった可能性もあります。次男の織田信雄は凡庸でしたが、跡継ぎだった織田信忠はそつなく何でもこなせたとも言われています。

織田信孝が織田家の後継者だったら、織田家の未来も違ったものになったかもしれません。